10.器のカタチ(下)
夕方になってから、台所で数日ぶりに髪を洗った。
それが終わったら花歩さんが用意してくれた洗面器に水を張り、手拭いで体を拭き清める。
部屋着を着てから、最後に顔を洗う。
流し台に手をついてぼんやりしていると、玄関の扉が遠慮気味に叩かれた。
「朔ちゃん、着替えられたかしら。入っても大丈夫?」
「あっ……、はい」
「よかった。開けるわね」
扉を開いた花歩さんは、手に持つお盆を傾けないよう慎重に部屋へと足を踏み入れる。
「あの……、持ちます」
暗い玄関で靴を脱ぐのに苦労していた花歩さんから、食事の乗ったお盆を受け取った。
「ありがとう、助かるわ。朔ちゃんはさっぱりできた?」
「はい。……ありがとうございます」
屈んでいた花歩さんが身を起こす。
「どうしましょう。奥で食べる? それともせっかくだからこっちで食べてみる?」
「……はい。ここで……」
台所前の机にお盆を置くと、頷いた花歩さんが椅子を引いてくれた。
夕飯は煮麺だった。小鍋に入ったものをお椀に取り分けて食べる。
口に運ぶ量は少ないままだけど、出汁の効いた汁の味を舌で感じ取れた。薄味の中にも、鰹節や煮干しの風味がわかる。
柔らかい麺も、それに絡む出汁も。久しぶりに美味しいと思えた。
食事中、花歩さんは奥の部屋で寝台の敷布を交換してくれていた。
埃への気遣いと、作業がしやすいように照明をつけているからだろう。部屋を隔てる襖は閉じられていて、中の様子は窺えない。
しかし見えなくても、花歩さんがてきぱきと楽しそうに動く姿は簡単に想像できた。
ひたむきに頑張って、感謝されて、努力を認めてもらえる……、とても優しい人。
ずっと彼女が羨ましかった。
そんな人になりたいって、以前のわたしは花歩さんに憧れていた。
今は……、自分がどうありたいのかすら曖昧になってしまった。
この先わたしはどうなるのか。
未来への不安を花歩さんたちの優しさに甘えて、自分を誤魔化している現状は、果たして正しいのか……。
急に満腹感が強まって、箸を置いた。
これ以上は、食べられそうにない。
「朔、入るよ?」
様子を見にきた雪根さんが扉を叩き玄関を開けた。
「あ、こっちに来てたんだ。ご飯はどう? 食べられた?」
「はい。……すみません、もう……」
小鍋にはまだ麺も具材も残っている。食べきれなかったところを見られて、まともに顔を上げられない。
「凄いよ。食べられる分を自分で調整できた」
叱られた子どもみたいに小さくなるわたしとは反対に、雪根さんは我が事のように喜んだ。
「食事で無理をしなくなったなら、それは成長だよ。自覚がなくても朔はちゃんと前に進めてる」
……そうなの、かな?
手放しに褒められて、自分の感情がよくわからなくなる。
嬉しくて、胸のあたりが暖かい。そんな中に懐疑的な自分もいたりして、どう返せばいいのか迷ってしまう。
最終的に俯きながら小さく頷くにとどめた。
ちらりと上目遣いに雪根さんを窺えば、満面の笑みで頷き返された。
なんというか……、非常に、恥ずかしい……。
羞恥に見舞われるわたしを気にせず、雪根さんは奥の襖へと顔を向けた。
「花歩さんはあっち?」
「……はい。敷布を交換していただいてます」
「あら、律くんお疲れ様。ちょうどよかったわ」
襖を開けた花歩さんは、使用済みの敷布や枕の被せ布の入った大きな籠を床に置いた。
「朔ちゃんはもういいの? お腹いっぱいになった?」
「はい。あの……、……とても、美味しかった、です」
わたしが告げるとふたりは顔を見合わせ、嬉しそうに表情を綻ばせた。
日が沈みきる前に、雪根さんは食べ残しのある夕飯を乗せたお盆を持って、花歩さんは洗濯物の入った籠を抱えて部屋を後にした。
ゆっくりおやすみ。また明日——。
真っ暗になった部屋に長居しようとはしない、彼らの気遣いがありがたかった。
*
引きこもりの生活は続く。
寝て起きてを繰り返すうちに、ただ流れているだけだった時間の感覚が少しずつはっきりとしてきた。
朝が来て、昼が過ぎたら夜になる。
明将さんや雪根さん、花歩さんと顔を合わせて、話をして。
着替えて、ご飯を食べて——。
一日の大まかな進み具合に慣れを実感できたその日、夕立が降った。
大粒の雨、強い風と雷。黒い雲が夕方の室内をさらに暗くする。
夕暮れ後に止んだ大雨は束の間の涼しさをもたらした。
外気温が下がり過ごしやすくなった部屋の中。寝台に腰掛けひとり夜の静けさに耳を澄ませる。
わたしのすぐ横には勉強机の椅子があった。
日中、明将さんや雪根さんがそこにいるのが自然なことになっている。
椅子の座面に手で触れる。磨かれた木の滑らかな感触がした。
なんとなく、他の感覚にも意識を向けてみる。
衣服の柔らかい着心地や、座る寝台に敷かれた布のさらっとした肌触り。
入ってくる情報に他人の感情や意思はない。
誰の心にも振り回されない、ひとりの夜はとても落ち着く。同時に、わたしのために心を砕く、彼らの優しさが恋しいと思う自分がいた。
赤兎班は奥園の敵。仲良くしては、いけないのに……。
真っ暗な天井をぼんやりと見上げて、ふと気付く。
「……そっ……か」
明将さんたちがくれる愛情は、ふわふわしていて、とても暖かい。
潰れかけたわたしを心配して、回復を喜ぶ。純粋な思いやりは、——深淵のみんなと同じなのだ。
点と点が結びつき、答えに至ったのと同時。
わたしは周囲に漂う、大好きな気配を見つけた。
「…………っ、みんな」
感じ取れなくなっていた闇が、すぐそこにある。
目を見開いて虚空を凝視した。眼前には依然として黒が広がり、耳がみんなの言葉を拾うことは決してない。
それでも深淵に生きる彼らがわたしに向ける、心配や慈しみは確かに伝わってくる。
久しぶりに、会えた。
「……っ、みんっ……な」
わたしにわからなくても、側にいてくれているって信じてた。
でも、もしかしたらもう会うことは出来ないかもしれなくて、ずっとずっと、不安だった。
「よかった……」
歓喜に溢れ出た涙を拭う。笑いたいのに、表情が思うように作れない。
呆れた気配が微かに伝わってきた。
地上ではそれが深淵にいる誰の意思なのかまで読み取れない。でも、こんな感情を直接わたしに向けるのは、きっとユウに違いない。
懐かしい感覚に、今度こそ笑った。
笑いながら、思いっきり泣いた。
夜が終わり、深淵が遠のくその瞬間まで。
眠るのがもったいなくて、わたしは一晩中、みんなと一緒に過ごした。




