9.器のカタチ(中)
◇ ◇ ◇
東郷 明将は眠りについた朔の様子を窺っていたが、やがて椅子から立ち上がった。物音を立てぬよう慎重に隣の台所へと移動する。
寝室と食事場所を仕切る襖の陰。台所の隅に、雪根 律がいた。
驚き声を上げそうになるのを明将は寸前で堪えた。
いつからそこにいたのか。手拭いを冷やすために台所へ来た際は、部屋に雪根の姿はなかったはずだ。
毎度のことながら、雪根は気配を隠すのが上手い。
話に夢中になっていたとはいえ、入室に朔が気付けなかったのだ。雪根の隠密能力はそれだけ優れているのだろう。
感心はするが、特技を活かしての盗み聞きはどうよ。なんなら途中から参加したとしても、朔は拒まなかっただろうに。
言いたいことは沢山あるが、ここはまずい。
口をつぐみ若干拗ねた様子を見せる雪根に玄関を示し、明将は彼と共に廊下に出た。
「朔は自分の本性を受け入れていたぞ」
心境的に諦めが大部分を占めていたのだろうが、順応性は大したものだ。己の根底に潜む獣性を自覚して、なおも正気でいられるのは、そうそうできることではない。
深淵との繋がりから、もともと人智を超えた事象に触れる機会があったのも幸いしたのだろう。
危うい状況になっても、朔は壊れずに踏みとどまれた。
「知ってる。聞いてたからね」
「……だろうな」
盗み聞きについて悪びれる様子もなく、平然と言ってのける雪根に、明将は呆れ混じりの息を吐く。
「うん。……朔でよかった」
雪根が微かに表情を綻ばせる。嬉しそうな雪根とは反対に、明将の心境は複雑だった。
「……まあ、班の預かりが奥園のもう一人の娘だった場合は、狂ってしまって処分は免れなかっただろうな」
捨て駒として赤兎班に差し出した連れ子の娘は、深淵の寵愛を受けていた。これは奥園にとっても大きな誤算だっただろう。
しかしいくら朔が真実を受け入れられる心の持ち主だったとしても、強いられた環境によって苦しんだ事実は変わらない。
最悪の事態にならなかったとはいえ、手放しに喜ぶのは気が引けた。
雪根はきょとんと首を捻る。
「何言ってるの? 奥園なんてどうでもいいよ」
「お前が何言ってんだ」
どうも話が噛み合っていない。
意思のすり合わせをするために明将はさらに言葉を続けようとするも、雪根が顔を引き締めたことで結局口を閉ざした。
「状況は変わった。もうこれ以上朔は傷つけさせない。奥園にも、赤兎にもだよ」
お前も赤兎班だろうが——とは、思っていても口にしない。
雪根がこの場所にこだわりを持っていないのは、明将も十分理解していることである。
明将にとって鳳・赤兎班は最後の砦であったとしても、雪根にとってここは目的を遂げるための、ひとつの手段でしかない。
実は明将も、雪根が何を成そうとして赤兎班に所属しているのか、詳細は知らなかった。
それに関しては赤兎班にとって絶対的な存在である宮城が雪根の気構えを許しているのだから、苦言を呈するつもりもない。
雪根は一見すると大人しそうだが、その実、非常に頑固でしたたか。よほどのことがなければ自分の意見を絶対に曲げようとしない。
赤兎班の規律ともいえる宮城に対しても場合によっては反発するので、そのたびに明将は肝を冷やされる。
宮城はそんな雪根を面白がっていて、咎める様子がないのはせめてもの救いだった。
そうはいっても雪根は基本、任務に忠実だ。
与えられた仕事は粛々とこなすし、明将の相棒としても非の打ち所がない働きをしている。
……そういえば、と。
過去を振り返った明将はあることに気付いた。
こいつが宮城さんにやたらと反抗的になったのは、朔と出会ってからじゃなかったか——?
赤兎班での抑圧された生活の鬱憤が、たまたま朔が預けられた時と同時期に我慢の限界を迎え、一気に噴き出したのか。それとも雪根の心境の変化には他に要因があるのか、明将にはわからない。
しかしこれまで他人に関心を示さなかった雪根が、なぜか朔にだけは心を砕いている。それは紛れもない事実だった。
「宮城さんには報告するからな」
民には決して知られてはならない日の元の秘密に、朔は辿り着きつつある。
明将がどうしたいかに関わらず、ここから先は宮城の判断がなければ動けない。
「そうだね。赤兎班にとってもよかったのかもね。もう隠す必要がないから、変に気を使わなくてもいいし」
露骨な皮肉に明将は前髪を掻きむしった。
雪根は朔さくの肩を持ちすぎではないか。気持ちはわからないでもないが……。
「あとは頼む」
「言われなくとも」
朔を雪根に任せ、明将は部屋を離れた。
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
相棒の背中を見送り、階段へと曲がって姿が消えたところで雪根は取っ手に手を掛けた。
眠っている朔を起こさないようにゆっくりと扉を開くが、ふと動きを止めて周囲を見渡す。廊下に人の姿はなく、窓の外は雲ひとつない青空が広がっていた。
蟲の襲撃があったあの日。朝食を運んだ際に顔を合わせた朔は明らかに、身に迫る脅威に怯えていた。
朔が蟲の接近を雪根たちに報告しなかったのは、奥園としての自覚からくるものだと予想できる。しかし他にも不可解な点は残っていた。
なぜ朔はあの時、彼女自身も恐怖の対象とする蟲に己を差し出そうとしたのか。
怖いなら部屋から出なければよかった。閉じこもるという選択を朔から奪ったのは、一体——。
考えを巡らせながら廊下の先を眺めるも、答えは見つかりそうになかった。
本人に聞いたとしても、現状では正直に話してくれないだろう。
——まあいっか。
その件は後でどうにでもなる。
奥園の裏にいる敵は、赤兎が滅ぼすのだから。
気を取り直して雪根は扉をくぐった。
足音を立てずに奥の部屋へと進み、寝台の近くに明将が置いた椅子に座る。
胸を微かに上下させ静かに眠る朔をじっと見つめ、雪根は拳を握りしめた。
赤兎班も、奥園も関係ない。
朔に対しても、もう遠慮するつもりはない。
次は絶対に、守ってみせる。
◇ ◇ ◇
窓の日避け布は違うものに取り替えられた。
以前は上部に等間隔で生地がつままれて出来たひだにより、縦方向にいくつものうねりがあった。波状になった日避け布では日光を完全に遮れず、隙間から外の光が室内に入り込んでいた。
現在の布は上部の縫いひだがなく、四角い小窓を完全に隠すように鋲で壁に貼り付けられている。
部屋の光源は厚い日避け布から透ける微かな光だけだ。暗い場所に心の平穏を得て、あれ以来ずっと寝台の上で過ごしていた。
わたしはこれからどうなるのだろう。
おかしくなった体は治ってくれるのか。
もしかしたら、もう太陽の下に出られないのではないかと、不安は常につきまとう。
明将さんは大丈夫だと言っていた。悪いようにはならないとも。
今はそれを、信じるしかない。
*
たまご粥をひとくち。咀嚼の必要がないぐらいに柔らかく溶けた米はすぐに飲み込めた。
熱を持った食事が喉を通る。
食べ物が胃に溜まる感覚で、内臓が収まるべき場所に収まっているのを自覚できた。
今のわたしは、外見も中身も人の形をしている。
お椀に入ったたまご粥は、匙で五回ほど掬えば完食できた。
食後に吐き気や気持ち悪さはない。
「偉いね。ちゃんと食べられた」
空になったお椀を雪根さんが受け取る。
「おかわりはいる?」
「いえ、もう……。……すみません」
「ん、わかった」
隣の台所へと食器を運んだ雪根さんは、薬包と水を持って戻ってきた。渡された薬は消化器官の調子を整えるものらしく、毎食後に服用している。
昼夜を問わず寝台の上でぼんやりと過ごす生活は、時間の感覚を曖昧にさせた。
今日が何日なのか、夏休みに入ってどれだけの日数が経過したのかを雪根さんや明将さんに聞いても、今は気にするなと言って教えてくれなかった。
点滴は昨日外された。処置はわたしが眠っている間に行われたらしく、いつの間にか手首に痕を残して道具の全てが取り払われていた。
わたしがこうなって以降、部屋を訪れるのは明将さんと雪根さん、そして花歩さんに限定された。
彼らは日中頻繁にここに来ては、わたしの世話を焼く。わたしには何も求めず、ただ穏やかに、日が暮れるまでの時間を一緒にいてくれた。
外界の情報が遮断された場所で過ごす日々は平和そのもので、ずっとこのままでいたいと望んでしまいそうだ。
現実を見ると、奥園と赤兎班の問題は解決していないし、わたしの置かれた立場に変化があったわけでもない。
それどころか、余計なことを口走って、さらなる問題を生み出してしまった。
自分の本性を自覚して、赤兎班が隠したがっていた秘密を知ったわたしは、この先どうなるのだろう。
もしかしたら、かつての日常に戻れないかもしれない——と。先のことについて怯える必要がなかったのは、不幸中の幸いだった。
知らなかった頃を乞い願うほど、ここに来る前の生活が幸せだったわけではないから。
そういう意味では、もうどうにでもなればいいと、ある種の開き直りに近い心境になれた。
わたしが人の皮を被った化け物だと自覚しても、雪根さんたちの態度は変わらない。いや、変わらないを通り越して、明らかに以前よりも彼らの距離が近くなった気がする。
獣の本性に気付いたわたしを警戒する様子はなく、しかも雪根さんに至ってはなぜかとても嬉しそうだった。
「飲めた? 口の中、苦くない?」
水と一緒に粉薬を嚥下して大丈夫ですと頷く。
雪根さんは「偉いよ。ちゃんとできた」と、些細なことでもわたしを褒めてくれる。
そこにわざとらしさや嫌味はない。
あるのは純粋な優しさだけだ。
彼の柔らかい感情が面映い。
遠慮気味に雪根さんを見れば、彼は「ん?」と首を傾げる。恥ずかしくなり、慌てて視線を逸らした。
「暑い?」
「……平気、大丈夫ですっ」
頬に集まるこの熱は、室温のせいじゃない。
部屋が薄暗くてよかった。
明るかったら赤くなった顔の変化を見られて、さらに恥ずかしい思いをしていたところだ。
雪根さんの気遣いを素直に受け止めきれず、俯いて視線を避ける。
こういう時、どんな返し方をすれば正解なのか。
少なくともこの反応は違う気がする。
……いや、赤兎班の人と仲良くしてはいけないわたしの立場からしたら、正しいかもしれない。
でも、親切に不親切で返すのは非常に抵抗があって……。
ぐるぐると、悩みの渦に思考を投じかけたわたしの頭を雪根さんが撫でる。
たったそれだけ。他者からもたらされた感覚があれこれ考えていたこと全てを霧散させ、意識が今この時の現実に引き戻された。
雪根さんはくすりと小さく笑い、わたしの持つ水の残った湯飲みを受け取り台所へと行ってしまった。
至れり尽くせりすぎて、申し訳ない。
雪根さんたちだって暇じゃないだろうに。
「その……、すみません。こんなことに、なってしまって……。……——?」
台所から戻った雪根さんに謝るのと同じくして、キーン……という高音が耳についた。
音は雪根さんにも聞こえたようで、彼は真顔で日避け布の張られた小窓を睨んだ。
超音波のように何度か音量の上下を繰り返し、不快な高音は止まる。
次いで聞こえてきたのは「あー……、ああー」というくぐもった人の声だった。
「……——おーい、聞こえるかー!」
声の質からして拡声器を使用しているようだ。締め切った窓を隔て、さらに距離も離れているからだろう。届く言葉は鮮明でない。
それでも屋外で大声を発しているのが誰なのか、すぐに推測できてしまった。
「……照土さん?」
母の故郷、空木村の代表者。
今の今まで忘れていた老人が目に浮かぶ。
思わず動揺してしまい頭がくらくらした。
「朔ちゃーん! 返事をぉー、してくれー!!」
名前を呼ばれ、びくりと体が跳ねた。
寝台に身を乗り上げた雪根さんに、腕を回され引き寄せられる。
「聞かなくていいよ。俺の声に集中して。すぐに下の人がどうにかするから」
喉にぎゅっと力が入る。呼吸ができない苦しさはあるのに、息の吸い方がわからない。
雪根さんは自らの体と片手を使い、抱きしめるようにしてわたしの耳を塞いだ。
「落ち着いて、俺の方に体を預けて。怖いのはすぐにいなくなるし、ここまでは来れないよ」
耳に直接響く言葉に涙が出た。漏れ出た嗚咽によって、呼吸が戻る。
「頼むぅー! 空木のぉ村をー! 救ってくっ……!」
ザザッ——。
雑音が響いた直後、外は静かになった。
照土さんは空木村に帰っていなかった。
諦めないと言っていたのは本当で、空木村の神代巫女の一件は、まだ終わっていない。
現実が重くのしかかる。
胸がむかむかして、さっき食べたものが逆流しそうだ。必死にたえていると今度は過呼吸になりかけて、もうぐちゃぐちゃだった。
「大丈夫……。大丈夫だから……」
幼児をあやすように背中をさすられ、少しずつ錯乱状態は落ち着いた。
しかし涙と嗚咽が止まると、今度はとてつもない焦燥感に襲われた。
このままじゃいけない。
これ以上、休んではいられない。
震える手で雪根さんの肩を押した。
わたしにできることなんて、そうないけれど、このまま逃げ続けるのは絶対に間違っている。
当事者が顔を出さないから、照土さんもこんな強硬手段に及んだのだ。
わたしが照土さんと、神代巫女の話をもっと納得できるまでしていれば、赤兎班や近隣の人にも迷惑をかけずに済んだのに。
「……なにも、何も終わってないんです。空木村のことも……、奥園のことも……」
「……うん」
「わたし、休んでいる場合じゃなかった。照土さんと、ちゃんと話さないと」
「落ち着いて。今の朔は休むことが一番大事だよ。周りに目を向けるのは、自分に余裕がある時だけでいいから」
「でもっ」
「でも?」
なおも言い募ろうとしたところ、雪根さんに顔を覗かれた。額が付きそうなほど間近に迫った男性の顔に、言葉が続かない。
口をぱくぱくさせるわたしに苦笑して、雪根さんは身を離した。
そのまま台所へ行き、すぐに濡れた手拭いを手に戻ってきた。一度手拭いを広げてたたみ直し、それをわたしの目に優しく当てる。
ひんやりと濡れた布が顔の熱を持っていく。
だんだん冷静になってきた。
わたしは焦りに任せてどうするつもりだったのだろう。頑張ったところで事態は好転しないと、もう十分思い知ったはずなのに……。
雪根さんから手拭いを受け取り、自分で目元に押し付ける。寝台の上で膝を曲げ、三角座りの状態で背中を丸めて俯いた。
「……すみません」
自己嫌悪がひどい。何もかもがうまくいかない。
「空木村のことは聞いたけど、朔は神代巫女になりたいの?」
「…………わかりません。……ごめんなさい」
母が継ぐはずだった神代巫女になりたいのか。自分でもわからない。
わたしを後継者にと切望する照土さんへの不信感は強く、空木村についても知らないことが多すぎた。
でも……、照土さんをはじめとした空木村の人たちは、わたしを必要としている。
どこにいても邪魔者でしかないわたしが少しでも役に立てる場所があるなら、身を投じてみるのもいいかもしれないと、気持ちは揺れていた。
「誰かの為、とかじゃなくてさ」
近くの椅子に腰掛けた雪根さんは、言葉を選びながら静かに話し出した。
「朔にとってこの場所や置かれた環境が、どうしようもなく苦しくて、どうすることもできないのなら、思い切って違う道を選んでみるのもありだと思うよ」
そう言っておきながら、彼は「神代巫女に関してはあんまり勧めないけど」と付け足す。
「どっちかというと、行くなら華闇の中央霊山の方がいいかもね。朔なら土地守りにもなれるだろうから」
まさかそんな助言をされるとは。予想外のことに大きく開いた目でつい彼を凝視してしまった。
「もちろん、ここにいるのも問題ないよ。色々言ったけど、俺はまだ外なんか気にせずに休んで欲しいかな。不安な時ほど、自分を優先しないと」
優しい眼差しを一転させ、雪根さんは塞がれた小窓に目をやった。
「朔を慮ろうとしない人の声に、聞く価値はない」
言い切った雪根さんは、やれやれと言わんばかりに息を吐き出す。
「照土さんは、その……、村に帰ったりは」
「結構粘ってるみたいだけど、気にしなくていいよ。あの人がこの建物の中に入ることは、絶対にできないから。こうやって騒音を響かせてくれたことだし、別件として鳳の専門班が引き取ってくれるだろうね」
「……そうですか」
少しだけほっとした。
以前、応接室で穂高さんが照土さんに銃口を向けたのは、ただの脅しだった。そうだよね。いくら皇の守護者だといっても、簡単に人を殺められるはずがない。
見知った人が処分されるのは、やっぱり怖い。
薄布団を握って黙り込む。この気持ちを、赤兎班の班員である雪根さんにどう伝えればいいのか、言葉が見つからなかった。
「蝉の声」
「……?」
唐突に言われて、反応に困った。
雪根さんは小窓を指さし再びわたしに問いかける。
「聞こえる?」
「……はい」
「うん。梅雨が明けてから勢いが出てきたね」
本部の敷地には、いくつもの背の高い木が植えてある。
耳をすませば夏を象徴する音が聞こえてきた。
一匹じゃない。たくさんの蝉の声。
そっか。もう鳴き出しているんだ。
夏の当たり前の音に、言われるまで全く気付けなかった。
「視野を広げる余裕があるなら、人よりもまずはそっちに注目するといいよ。蝉や蛙の声とか、時々強く吹く風の音とか」
ゆっくりと話しながら、雪根さんは穏やかに微笑む。
「心に余裕が生まれると、見えるものも変わってくる。そうしたら、今とは違う考えが浮かんでくるかもしれない」
「違う、考え……」
そんなもの、あるのだろうか。
懐疑的なわたしに、彼は断言はしなかった。
「ゆっくりいこう。焦る必要はないよ」
それでも雪根さんの言葉には、不思議な説得力があった。




