8.器のカタチ(上)
わたしは本当に、——ですか?
疑問の答えはとっくに出ていた。
認めたくないという理由で、これまで深く考えなかっただけ。
信じられないという思いは未だにある。だけどもうこれ以上、現実から目を背けては生きていけない。
理性と本能の塗装を剥がした先に存在する、精神の根底に沈められていた——わたしの本性。
それは明らかに、人間とは別の「何か」だった。
*
暗い場所で目を覚ます。
寝ていた場所は照明や太陽の光が遮断されていて、意識の回復と同時に湧き上がった恐怖心はすぐに霧散した。
暗いけど、ここは赤兎の本部で、わたしの当てがわれている部屋だ。
下の階層に幾人かの人が動く気配はあるも、同じ高さで大きく移動するものは感じられない。
唯一この階にいるわたし以外の人は、わたしの枕元で寝台にもたれて床に座っている、彼だけだった。
これだけ近いと気配でわかる。明将さんだ。
彼のあおぐ団扇の柔らかい風が微かに届き、わたしの横顔を撫でた。
敷かれた氷枕が頭の熱を持っていく。額は濡れた手拭いが置かれているようだ。
左の手首には帯状のものが貼り付いている。
懐かしいと感慨深くなるには、前回の体験からまだそんなに時間がたっていない。わたしは点滴を受けているのだ。
管に繋がれた手首の先。薄布団の中で手を動かしてみる。指は五本。親指から順番に曲げていく。
左手も同じようにやってみた。寝起き特有の力の入らなさはあるが、指はいつも通りの可動域で曲げ伸ばしができた。
薄布団から出した左てを顔の前まで持っていく。暗い中でも手の輪郭を見てとれた。
この手は人の形をしている。それならばわたしは——と、結論を早まってはいけない。
目に見えているものが正しいとは限らない。
気付いてしまった。
あの夜。義父の実家が経営していたという倉庫で、須藤さんに入れられた、鏡に囲まれた装置。あれはただ人を監禁するためだけに作られたものではなかった。
自覚してしまった。
光が反射する装置の中、鏡に映ったわたしの姿は——。
……もう、知らないふりはできそうにない。
「朔、起きたんだな」
明将さんがわたしに体を向けた。
暗い部屋で彼の表情はよく見えないけど、心配されているのはわかった。
「暑くないか?」
明将さんはわたしの手を緩く握り、手の甲で軽く頬に触れてきた。そして濡れた手拭いを回収して立ち上がる。
隣の台所へ行ったかと思えばすぐに戻ってきて、冷えた手拭いを再びわたしの額に当てた。
「しばらくはこのままだ。とにかく体を休めろ。先のことは考えなくていい」
勉強机に付属された椅子を寝台の側まで持ってきて、明将さんは腰掛ける。
「何も考えずに眠ってしまうのが一番いいんだが。それも難しいだろうし、無理にとは言わない」
団扇で送られてくる風が心地よく、次第に緊張は和らいでいった。
部屋はとても静かだ。
わたしを埋め尽くそうとしていた白色は、今はなりを潜めている。
けれど完全に無くなったわけじゃない。
そもそもこれは人知れず、どこからともなくわたしの内側に入り込んだものではなかった。
この白い本性は、最初からわたしの中にあったのだ。
「……明将さん」
そして彼……いや、——彼ら赤兎班の人たちは、とっくにそのことを知っていたのだろう。
「どうした?」
口にしてしまうと後戻りはできない。
それでももう、自分を誤魔化せそうになかった。
「わたしは本当に、人間ですか?」
明将さんが反応するまでに、数秒はかかった。
いきなりどうした。
なんの冗談だ——、と。
突拍子もない質問を笑い飛ばす素振りは一切なく。
やがて彼は口を開く。
「……なぜそう思う」
微かに伝わってくる緊張が、問い掛けの答えを示していた。
答えを辿る道筋は昔からあった。
「小さいころ、事故にあったんです。駅の階段から落ちて、頭を打って……。気がついたらわたしは、闇の世界——深淵にいました」
腹に力が入らず、掠れた声は小さくはっきりとしない。
それでもぼそぼそと喋るわたしに、明将さんは真剣な表情で相槌を打った。
「短い期間ですが、闇の中で、あの世界に生きる人たちと過ごした時期があるんです。……その時に、わたしは深淵に迷い込んだ地上の生き物を、出口へと案内するのを手伝っていました」
深淵に住むユウたちには、迷い込んだ者たちに「言葉」を伝えるすべがない。
何かのはずみで深淵に来てしまった地上の生き物を、もといた場所へ帰したい気持ちはユウたちにもある。しかし実際に帰還を促すのは、彼らにとってなかなかに骨の折れる作業だった。
地上の言葉を理解できていても、深淵の人たちは音が発せられず、言葉を話せない。
迷い込んだ相手によっては、存在すらもが漠然としか認識されない。
そんなユウたちが、深淵と地上の境目まで生き物を導くのは非常に難しい。
だからわたしが地上から迷い込んだ人たちとの繋ぎになった。
地上に肉体を置いて、精神だけで深淵にいたわたしは、どちらかといえばユウたちに近い状態だった。
それでも地上とまだ縁が繋がっていたことで、わたしの言葉は深淵に迷い込んだ生き物たちに届けられた。
「……でも、彼らはみんな獣の形で——誰ひとり、人の姿をしていなかった」
深淵に迷い込んだ多くの者はわたしの言葉に耳を傾ける素振りがあり、明らかに動物以上の知能を持っていた。
地上へ帰れる出口へ案内する——と、闇の中で語りかければ獣は反応し、戸惑いながらも従ってくれた。
当初、地上から深淵に迷い込んだ生き物は妖か、獣か。わたしには人だとわからなかった。
そんなわたしが深淵に馴染んだころを見計らい、ユウたちは迷い込む彼らは皆、日の元の民だと教えてくれた。
「……そっか。地上に生きる人が体ごと深淵に来ると、獣の姿になるんだって……。その時はなんの疑問も抱かずに、納得しました」
そういうものなのだと。それ以上、深く考えることはなかった。
ただでさえ現実離れした世界に身を置いた直後だ。他に不思議が起こっても、驚きは半減する。
地上の人は肉体ごと深淵に来ると獣の姿になるという、ひとつの発見があっただけ。
それまでの常識が通用しない深淵での出来事に、首をひねることはなかった。
……だけど。今になって事情が変わってきた。
漠然と受け入れていた常識は、そんなものとして済ませてはいけなかった。
あるいはそのまま目を背け続け、おかしさに気付くべきではなかった。
この目で見えているものが全てじゃない。
深淵で形作られたあの獣こそ、わたしたちの本当の姿だったとしたら——。
そう考えると、何もかもが腑に落ちる。
今となっては、人の形は偽りだと言われても、おかしいと思わない。
自分の根底に沈んでいた本性が、地上の光に刺激されて暴れ狂うあの感覚は、忘れたくても忘れられない。
狂気を帯びた本性はずっと前から、わたしの中にもあったのだ。
わたしは精神のみでしか、深淵に行ったことがない。肉体に包まれたままあそこに行けば、どんな姿になるのか……。
答えは既に知っている。
義父の実家、玉乃江の倉庫。鏡に囲まれた塔の中で見た、耳の垂れたあの獣。あれは幻覚なんかじゃなくて、紛れもないわたし自身だったのだ。
結論に辿り着いたが、驚きはない。
凶暴な化け物だからと赤兎班に処分されても、今なら仕方がないと受け入れられる。
「——わたしは、人間ですか?」
黙って話を聞いていた明将さんに、再び問いかける。
団扇をあおぐ手を止めて腕を組んだ彼は、椅子にもたれて目を伏せる。
そしてしばしの逡巡の後、重い口を開いた。
「なんであろうと、日の元の民であることに変わりはない」
真っ直ぐに向けられた視線に、偽りは感じない。
強い意志と、彼の背負った重圧の片鱗を垣間見て、目に涙が滲んだ。
「朔は鳳——、俺たち赤兎班が守るべき民なんだ」
だから怖がるな。大丈夫だ——と。
繰り返される声は優しかった。
告白には、下心があった。
気付いてしまった本性を隠し通せる自信がなくて、ならばいっそ狂ってしまう前に処分して欲しい。楽になれるなら、それでもいいと思った。
「わたしを始末しますか?」
「俺の言ったこと聞いてたか?」
呆れた明将さんに団扇で強めの風を送られる。涙に濡れた肌が冷たくなった。
「始末するに値しない、とでも言えば満足か? 少なくとも、俺の目に映っている朔は人以外の何者でもない。簡単に俺を人殺しにするんじゃねえ」
不貞腐れた空気に滲む、若干の怒りと苛立ち。
明将さんの感情の変化がなんだかおかしくて、口の両端が上がる。
わたしは笑っているはずなのに、涙が止まらなかった。
「安心しろ。壊れて狂って、本当にどうしようもなくなったら、その時はちゃんと終わらせてやる。——人殺しにも、なってやる」
「……人、ですか」
「人だろ? 他に何があるってんだ」
あっけらかんと言い切られた。
……そうか、わたしは人でいいんだ。
「とにかく今は休め。先のことなんざ回復して余裕ができてからでいいんだよ。悩んでも仕方がないことをあれこれ考えるな」
……はい、と。返事はできたはずだ。
たくさん喋って疲れた体は貪欲に休息を求め、安心感も合わさって急に瞼が重くなっていく。
「……おやすみ」
ぼんやりと聞こえてきたけれど、返事はできそうになかった。




