7.白の侵食(下)
建物を修繕する音と振動が部屋にまで響いてくる。
玄関扉の先、三階の廊下には多くの人が行き交っていた。
わたしは部屋の中で息を殺し、音を立てずにじっとしていたから、業者の人たちもまさか近くの部屋に人がいたなんて思わなかっただろう。
襲撃があったその日の夕方には作業が終わり、廊下に人の気配はなくなった。
わたしは拗ねているのだと、赤兎班の人たちにそう思われているなら、それでよかった。
一時的にへそを曲げているだけで、放っておけば機嫌が治ると。その程度の認識でいてくれたらありがたい。
蟷螂の化け物に殺され損なってからというもの、人とまともに顔を合わせていない。
台所と奥の部屋を仕切る襖を締め切り、近くに人の気配がある時はずっと、わたしは寝台の上でうずくまった。
部屋から出てこなくなったわたしに対し、花歩さんは台所の前にある机に食事を置いてくれた。
無理はしなくていい。食べられる分だけ食べたらいいのだと、毎回襖越しに声をかけてくれるけど、出された食事はちゃんと完食するようにした。
明将さんと雪根さんは、食事の時以外も頻繁に様子を見に来る。
彼らの言葉にわたしがなんと返したのか、正直よく覚えていない。
というよりも、明将さんたちがここにきて、何を言ったのか。その記憶すらもが曖昧になっていた。
ただ、心配しながらも彼らは襖を開けることはないから、わたしはちゃんと受け答えができているのだろう。
自分がだんだんと、朧げになっていく。
食事を取って、吐いて、寝台で小さくなって時間を過ごす。
同じ行動の繰り返しで、蟲の襲撃から何日が経過したのかはっきりと数えられていない。
とはいえそこまでの日数は経っていないはず。あってあれから三日程度だと思う。
今日もまた、最悪な目覚めで一日が始まる。
そもそも眠れた気がしない。
ここのところ、昼夜を問わずわたしの意識は霞んでいた。
物事を深く考えられないのに、全く休めていない。そのくせ無意識に周囲の気配を探ってしまい、勝手に自分の不安を煽ってしまう。
唯一花歩さんたちが部屋で話しかけてきた時だけ、どうしようもない現実に引き戻されるのだ。
朝になった。
目は覚めた。
おそらくそれは間違いない。
この息苦しさが、夢なわけがないから。
襖一枚を隔てた先で、花歩さんの声がする。
きっとこれは言葉になっていて、わたしに向かって投げかけられているのだと。理解はできても、実感が湧かない。
花歩さんが食事を運んでくれた。
今はきっと朝だ。だから、多分朝食。
こういう時は、なんだったっけ……。
そうだ。手を煩わせてしまったから「すみません」と「ありがとうございます」が正しい気がする。
頭の中でぐるぐる考えても、実際にそれを言えたのかははっきりしない。
わたしがいるのは自分の体のはずなのに、自分の意思で動かせている実感が薄い。
自分の声を、自身の耳を通して知覚できていない。
だんだんと、わたしがわたしでなくなっている。
……馬鹿みたい。
思いついた説がおかしくて、久しぶりに笑った。
この身がわたしでないというなら、今この肉体を動かしているのは誰だというのか。この重たい器を肩代わりしてくれる存在など、あるわけがない。
思いあがるな。わたしはわたしで、それ以上でも以下でもない。
決して逃げることはできない。
花歩さんと明将さんが部屋を後にする。
三階の廊下に気配がなくなるのを待って、のろのろと重い体を持ち上げた。
襖を開けて隣へと移動した。
台所前の机に置かれていたお盆の上には、ご飯と汁物、ほうれん草のおひたしに、煮魚の切り身。小皿には沢庵が数枚。
それぞれの量は通常時よりも少なく見える。だけどこれを体に入れなきゃいけないと思うと、鳩尾あたりがずんと重くなった。
時間をかけて料理を咀嚼し、飲み込んでいく。最後は水と一緒に流し込んだ。
完食できたことにほっと胸を撫で下ろす。
これで怒られない。
食事後、額に滲んだ汗を拭った。
喉の奥に残る異物感が、水を飲んでも消えないことはわかっている。
食べ物は洗面台に流せない。排水管が詰まるのは避けるべきだ。
胸焼けと、胃のむかつきに耐えかねて部屋を出た。
壁を伝ってお手洗いを目指す。
現在、赤兎本部の三階に住人はおらず、使用しているのはわたししかいない。
そのため三階のお手洗いを利用するのもほぼわたしだけなのは幸いだった。
お手洗いの規模は小さい。扉を開けた先は洗面台がある小部屋で、さらにその奥は引き戸が二つ並び、男性用と女性用に分かれていた。
扉をくぐり、急いで便器にしゃがみ込む。
「——っ、ぅっ……」
胃に入っていたものは消化されておらず、ほぼ飲み込んだ時の状態で吐き出された。
一度吐いてしまったら、胃が空になるまで止まらない。
下手に我慢して体の中に留めておくよりも、全て出し切った方がすっきりする。
収縮を繰り返していた胃は、ぎゅうっと外から握られたように縮こまり、胃液もろとも内容物を逆流させた。
もう何も残っていない。そんな状態になってもしばらく胃の締め付けは続き、やがて徐々に落ち着いていった。
ふらふらと立ち上がり、水を流す。便器に背を向けて引き戸を開けた。
「……あっ」
誰もいないものだと油断した。手洗い場の小さな空間には、啓斗さんが立っていた。
もしかして聞かれていた?
どうしてここにいるの?
気まずくなりながらも小さく会釈して手を洗う。
背中に視線が突き刺さる。正面の鏡は、見れそうにない。
「……体、悪いの?」
声をかけられ、緊張が頂点に達した。
触れている水の冷たさが消えて、代わりに手が震えた。
頭が真っ白になる。
どう返すのが正解か。
どうすれば一秒でも早く部屋に戻れるだろう。
「……どこも。気にすることなんて、どこにもありませんよ。お先でした」
自分がなんと言っているか、自分でもよくわかっていない。
俯きながら啓斗さんに頭を下げて、お手洗いを出た。
「あっ、ちょっと!」
呼び止める声に耳を塞ぐ。
急いで宛てがわれた部屋へと逃げ帰った。
気にかけないで欲しい。
いつもみたいに敵視してくれた方がよっぽどいい。
そうじゃないと、わたしのおかしさが浮き彫りになってしまう。
台所と居間の間にある襖を閉めて、薄布団の中に隠れた。
光が怖い。
音が怖い。
人が怖い。
どうすれば回避できるの?
生きている限り、逃げられないの——?
全身を薄布団で覆う。視界は真っ黒で何も見えないはずなのに、暗い場所にいる気がしない。
理由は明白。わたしの体が、光の属性を持ってしまっているからだ。きつく目を閉じていても、内側にある光に意識が向いてしまう。
こんなのじゃ、休めるはずがない。
どうやったらこの光を消せるのだろう。
……深淵の、闇が欲しい……。
「……——朔、いるんだろっ」
名前を呼ぶ声に肩が跳ね、玄関の扉が叩かれて改めて耳を強く塞いだ。
明将さんだ。応対しなければ。
いつもみたいに台所の前を通って、扉を開けて、要件を聞かないと。
すべきことは頭にあるのに、体は一向に動いてくれない。
玄関の扉が開かれる。
次いでどたばたと荒々しい足音がした。
「ちょっ、アキさん! ——っ、雪根さんもっ」
啓斗さんが慌てている。
「朔、開けるぞ」
言うが早いか仕切りが開かれ、恐々と薄布団から顔を覗かせた。
「……何やってんだ」
呆れる明将さんに言葉を返せず、首を横に振った。
……何も。わたしは何もしていない。
叱責を受けるようなことに心当たりがない。
日中だというのに光が閉ざされた薄暗い室内。日避け布の隙間から入り込んだ僅かな日光が、焦りと怒りを滲ませた明将さんの表情をありありとわたしに見せつけた。
明将さんの後ろに立つ雪根さんは、苦虫を噛み潰したかのように表情を歪める。
そんな顔をするなら、様子を見にこなければいいのに。
二人に追いついた啓斗さんが、壁にある照明のボタンに手を伸ばす。
背筋がぞっとして思わず小さな悲鳴を上げた。
「やめ……て……」
明かりは、……嫌だ。
悲痛な訴えはか細いものになってしまったけど、雪根さんには伝わったらしい。
彼は啓斗さんの手を掴み、壁のボタンから手を離させた。
「朔……」
明将さんがわたしのいる部屋へと踏み入る。
自分の領域に立ち入られた感覚が、不快な圧迫感となってずしりと身にのしかかった。
彼は寝台に座って壁に背を付けるわたしと目線を合わせるために、膝を曲げた。
「……用事、ですか……?」
照土さんがまた来たの? こんな時に、勘弁して欲しい。
いいや、と。明将さんが短く返す。
そこからしばらく言い淀み、彼は眉間にしわを寄せた。
人口密度が増した部屋は蒸し暑く、こめかみを流れた汗が顔の輪郭をたどって寝台に落ちた。
緊張の糸は切れないし、緩まない。
ぴりついた空気が支配する室内で、わたしはじっと一番近くにいる明将さんの顔を注視し続けた。
「嘔吐したと聞いたが」
……ああ。それも駄目なんだ。
「もう、……しません」
明将さんが眉間のしわを深くする。
「花歩さんにも、ちゃんと謝罪します」
せっかく作った食事を吐き出されていては不快でしかないだろう。
心のどこかではわかっていた。だからこっそりしかできなかった。
馬鹿だな。こうして言われるまで、気づけないなんて。
「……違うんだよ」
目の前の明将さんが唸るように声を捻り出す。
怒らせてしまった。当たり前か。
薄布団を握る手に力がこもる。
急いで弁明の言葉を探したけれど、わたしのしたことは事実であって覆せず、言い訳の余地がない。
どうすればいいの——?
頭が真っ白になって、呼吸が浅く、速くなる。
心臓がどくどくとうるさい。
明将さんが自分の前髪を掻き上げる。
苛立たしげな表情に怖気付き、ひゅっと息を飲み込んだ。
赤兎班とか。奥園とか。わたしの立ち位置とか。わたしは今、彼らになんと言って、なにをするのが正解なのか。
役に立たない脳みそは全部をぐちゃぐちゃにしていく。
ただ、わたしのすぐ側で明将さんが不機嫌になってしまっていて。その原因がわたしなのは間違いなくて。
わたしのせいで。
わたしが、余計なことをしてしまったから、この結果になってしまったんだ。
「……また、わたしは間違えましたか?」
気を張って生活していても、結局誰かに迷惑をかける。
本当に、どうしようもない。
「間違ってないよ。朔は何も、間違ってないし、悪くない」
「……うそ、です。そんなの……、絶対に」
雪根さんに向かって首を振り、嘘だ、違うと繰り返す。
わたしが正しいはずがない。
わたしが間違っていないなら、この苦しみはなんだというの。
過ちの報いだから、受け入れられる。
これは自分のしたことが正しくなかった結果なのだ。
違うなんて、おかしい。
そんな理不尽、あっていいはずがない——。
「——っ、——。——均衡が崩れてる。……このままじゃ——」
「騒がないで。——うるさ……出ていって——」
「——、宮城さんは——、……ここまで——」
啓斗さんと雪根さんの声。二人とも近くにいる。だけど会話の内容がうまく聞き取れない。
ひゅうひゅうと。自分の喉の音が次第に大きくなっていく。
吸って吐いて。何度も繰り返しているが、呼吸ができている気がしない。
薄暗い部屋で、視界が真っ白に染まっていく。
眩しさに耐えかねて目を閉じても、白色は消えてくれなかった。
どうすればいい。
どうすれば逃げられる——。
内側を侵食する白を振り払おうともがいた。まるで強い光が血管を通して体の隅々まで行き渡るようだ。
そうやって、わたしが押し流されていく。
「…………さく、……——さくっ、朔!!」
呼ばれているのは自分の名前だと、わかるまでに時間がかかった。
はっとして前を見ると、すぐ近くに明将さんの顔があった。
彼は必死の形相でわたしの両手首を掴んでいる。仰向けのわたしの上に、明将さんが乗り掛かっていて身動きが取れない。
何がどうなっているの。
どうしてこんなことに……?
……記憶が、飛んでる……?
混乱が恐怖となって押し寄せる。
拘束してくる明将さんが怖いのか。おかしくなった自分自身が怖いのか。
それすらはっきりしないくせに、震えが止まらなかった。
明将さんは怯えきったわたしの背中に手を回し、ゆっくりと抱き起こす。
抵抗している余裕はなかった。
「落ち着け。……大丈夫だ。……大丈夫、今ならまだ戻れる」
寝台の上に座った状態で明将さんにもたれかかる。背中を大きな手が撫でた。
明将さんは何度も「大丈夫だ」と繰り返す。彼の胸元に横顔を寄せたわたしの耳に、その言葉は振動となって響いた。
白色が全てを埋め尽くそうとしているなかで、その声だけがわたしを繋ぎ止める。
途絶えたら、わたしはわたしでなくなってしまう。
震える手でどうにか明将さんに縋り付く。
頭上でほっと安堵の息が吐き出された。
「離さないから大丈夫だ。ここにいる」
かちかちと。明将さんの声に自分の下顎が震えて歯が当たる音が混ざる。
「俺の言葉は聞こえているか? ……まあいい。聞いてないなら、わかるまで何度でも伝えてやる」
耳元で聞こえているはずのその音を言葉として理解するのは、ぐちゃぐちゃの頭では難しかった。
だけどそこに悪意はなく、わたしを傷つけるものでないことだけは感じ取れていた。
「なあ、頼むから間違いを全部自分に作ろうとするなよ。朔ひとりが全部背負う必要はないんだ。身勝手な周りをもっと責めていいし、頼っていいんだ」
一音一音、ゆっくりと話される内容を、改めて自分の中で組み立てる。
言葉の取りこぼしはたくさんあるだろう。
断片的に理解できた単語に、それは駄目だと考えるより先に体が動いた。
——わたしは、奥園だ。
すがっていた手で引き締まった大きな体を突き放そうとするが、びくともしない。
「……おく、ぞの、は……」
これではいけない。許されない。
焦って身をよじろうとしたが、さらに強い力で身動きを封じられてしまった。
「俺がいいと言ってんだ。裏切りも……、明日には敵になっても、俺は朔を恨んだりはしない。だから今は——、今だけは身を預けろ」
……でも。
どうしよう。
どうすればいい。
焦りばかりが先走って、結局自分の気持ちはおろか、この場をやり過ごす適切な答えすら見つからない。
そもそもわたしは何に焦っているのか。数秒後には曖昧になってしまっている。
「……朔」
…………さく。……朔。そう……、それはわたしの名前だ。
「朔」
近くで聞こえたのは雪根さんの声だ。
明将さんの服を掴むわたしの手に、雪根さんはそっと自らの手を重ねた。
「ごめんね。痛いのも、怖いのも……。苦しくても、ずっと我慢してたのに」
「……がまん……?」
……してたの、かな?
でも、怖くても、苦しかったとしても。どんなに地上が眩しくたって——。
耐える以外に、他にできることはない。
だから苦痛は受け入れるしかなくて。
雪根さんはわたしにこれ以上、何を求めるの……?
「……っ、どう、すればっ……」
もう何もできそうにない。
そう思うと、ぼろぼろと涙がこぼれた。
どうして泣けてくるのだろう。
悲しいのか、悔しいのか、自分が怒っているのか……。
それすらもあやふやで、わからない。
わからないのに、涙は止まらなかった。
雪根さんがわたしの手を強く握る。そしてもう片方の手で頭を優しく撫でた。
「どうもしなくていいよ。ただ、一緒にいさせて」
言葉を直に吹き込むように、雪根さんは懇願のこもった声音で小さく囁いた。
嗚咽が漏れて、うまく息ができない。
明将さんと雪根さんは、最初から優しかった。
彼らの優しさに甘えた結果、道を踏み外してしまったことを忘れてはいけない。
また繰り返すのかと。自問すれば悪寒がさらに強くなった。
「……いっ……、ゃだ……」
離れなければと思うのに、体はろくに動かない。
わたしの身を支えている明将さんの腕に力が入る。
「大丈夫だ。傷付けたりしない」
低い声で穏やかに言われると、接触している部分から振動が伝わり、気が緩みそうになる。
流されてはいけない。
抵抗は虚しく。明将さんが背中をさするたびに、少しずつ不規則だった呼吸が落ち着き、頭に霞がかかっていく。
思考を埋めていた白が薄らぐ。
雪根さんの手が目元を覆った。
「朔、……目を閉じれるかな」
命令でない、問いかけに近い言い方だった。
背く気力もなく、言われた通りに目を閉じる。
ゆっくりと瞼を下ろした先には、わたしがひたすらに求めていた、——黒が見えた。
「そのまま……。……一度休もう。体の力を抜いて……。そう、上手……」
雪根さんの声には不思議な響きがあった。
聞き入っているとぼんやりしてきて、次第に意識が遠くなる。
あってなかったようなわたしの記憶は、そこで完全に途絶えた。




