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6.白の侵食(中)






「朔ちゃん大丈夫? ちゃんと眠れているの?」


「……はい。大丈夫です」



花歩さんに心配されるのはいつものこと。だからわたしも、いつも通りに返事をする。


朝食を運んで来た花歩さんには、雪根さんが付き添っていてほっとした。雪根さんなら、蟲が襲ってきても花歩さんを守れる。


花歩さんに呼ばれて部屋の扉を開けた時、廊下の空気に違和感があった。

それがただの気配の残滓なのか、あの男がまだ近くに潜んでいるのかの判別はできそうにない。どちらにせよ、警戒するに越したことはない。

挙動不審になって余計なことを口走らないように注意しないと。


朝食の乗ったお盆を受け取り、早々に部屋へと引き下がる。

台所前の机にお盆を置いて、扉を閉めに戻ったわたしを雪根さんが止めた。



「……何があったの?」



確信めいた言葉にうっと息が詰まる。

だめ。気づかれてはいけない。隠し通さないと。



「なにも……、なんでもないです。朝ごはん、ありがとうございます」


「朔っ」



扉を閉めて部屋の中に逃げた。

これ以上は追及しないでと、息を殺してひたすらに願う。

ほどなくして、廊下にあった二人の気配は遠のいていった。


食事には手をつけられそうにない。

外の嫌な気配はじわじわと建物に接近してくる。

台所前の机に朝食を置いたまま、ふらふらと部屋の奥に移動する。

寝台の上で三角座りをして頭を抱えた。




わたしは奥園で。

赤兎班の人に心配されるような存在じゃない。

敵のわたしが、赤兎班を助けてはいけない。


敵、なのだから……、明将さんたちに嫌われるのを怖がるなんてもってのほかだ。


雪根さんに蟲の侵攻を伝えなかった。

奥園朔として、この判断は間違ってない。そう、繰り返し自分に言い聞かせた。


わたしは明将さん達に死んで欲しいわけじゃない。

義父や須藤さんに赤兎班を倒して欲しいとは、微塵も望んでいない。


班員たちを危険に晒しておきながら、わたしのしていることは矛盾ばかりだ。





階下の気配に、緊張の色が混ざり始める。

叫ぶ声が、微かにこの部屋まで届く。班員が蟲に気付いたのだ。


僅かな安堵と、罪悪感。ぐちゃぐちゃになった感情を持て余す。


しばらくそうしていると、階下でガラスの割れる音がした。

一気に下が騒がしくなった。襲撃が始まったんだ。


防げたはずの事態に、沈黙を選んだのはわたし。

もしも赤兎班の誰かが死んだら、それはわたしのせいだろう。


責められて、なじられて、恨まれても。受け入れるしかない。


耳を塞いでも、階下の戦いからは気を逸らせなかった。

何もできないのだから意識を向けなきゃいいのに、班員たちの気配を追ってしまう。


人と蟲の区別はつけられる。しかし人の気配はみんな似たようなもので、どこで誰が戦っているかまではここからじゃわからない。


花歩さんも、戦いの現場にいるのだろうか。

自分の記憶と引き換えに、仲間を癒しているのかな。


彼女が羨ましいと、わたしが思うこと自体間違いだ。





争いの音は遠い。だから油断していた。


突然わたしのいる三階に、けたたましい破壊音が響いた。

驚きに顔をあげる。音がしたのは廊下へと続く扉のすぐ先だった。

三階廊下の窓が破られたのだ。

目を見開いて硬直する。心臓の音がどくどくとうるさい。背中は汗ばみ、衣服が肌に張り付いた。



——朔ちゃん、おいで……。



須藤さんの声が聞こえた。

今のが耳を通してもたらされた情報なのか、それとも他の手段で伝達されたのか。判別する余裕はなかった。


怖い。


けれど、今更逆らえるはずがない。


寝台を這い出る。

足に力を入れて立ち上がった。

部屋の外は危険だと。頭の中で警鐘が鳴る。


そんなのはとっくに承知している。知っていても、行かなきゃいけない。



——……そう。こっちだよ。



声に導かれて、一歩一歩。

寝台のある部屋を出て、台所の横を抜けた。


玄関の扉の前に辿り着くころには、不思議と恐怖は消えていた。

靴を無視して、素足のまま廊下に足を踏み出す。


廊下はひどい有り様だった。

窓ガラスが一枚残らず割られ、床には大小様々なガラス片がそこかしこに散らばっている。

踏んづけたら嫌だなあと、一瞬思ったものの、すぐにそれどころではなくなった。

どろどろで、歪な気配が登ってくる。


蒸し暑い外気が入り混じる廊下。壁を伝い、窓の外からぬっと、それは姿を現す。

透明の、虹色をしたシャボン玉のように体の色を変える巨大な蟷螂だ。いつか海沿いの倉庫で見たものよりも大きい。

体躯に見合った巨大な鎌状の前脚を割れた窓の枠にかけ、蟷螂は建物の中へと侵入した。


蟲は光に惹きつけられる。

咄嗟に両手を胸に当てて心臓を隠すが、前回とは勝手が違った。


目と鼻の先に着地した蟲の化け物は、わたしを見とめると後ろ足だけで立ち上がり、威嚇するように前脚を大きく持ち上げた。

鎌の先はわたしの身長をゆうに越している。


倉庫で出くわした時と違い、蟷螂はわたしを獲物だと認識しているみたいだ。


……やっぱり。わたしの闇の傾きは、正常に戻りかけているんだ。


夜になってもみんなの気配が感じられないわけだ。


深淵のみんなにはもう会えない。



だったら……、いいかな。



須藤さんは目の前にいる蟷螂にわたしを食べさせたがっている。



だから部屋の外に出させたのでしょう?


それで、わたしの役目は果たせるの——?



助けは来ない。蟲の脅威が迫るのを赤兎班に報告せず、この事態を招いたのはわたし。


これは報い。

当然の結果だと、思いの外すんなり腑に落ちた。


胸に当てていた両手を下ろし、蟷螂の目の前で手を左右に広げ、自分の身を差し出す。

相変わらず蟲の気配はおどろおどろしいけれど、以前のように怖いとは思わなかった。

ようやく終わることができるのだ。込み上げる達成感に小さく笑う。


頭を前後に揺らしながらにじり寄ってきた蟷螂は、鎌状の前脚をわたしに向かって振り上げた。





巨大な蟷螂を見上げていると、頭上に微かな風が通った。

鈍い銀色に光る鋭利な刃物が、一直線に蟷螂の前脚の関節を貫く。片方の鎌がぼとりと廊下に落ちた。



「そいつから離れろっ!」



すぐ近くで聞こえたはずの声は、膜を通したかのように鮮明ではなかった。

だけど誰の叫び声かはわかる。明将さんが駆け付けたのだ。


片脚を落とされた蟷螂は後方へ跳んで距離をとる。

残された前脚を高く上げ、胴についた透明な翅を広げて威嚇してきた。


明将さんがわたしの横を通り過ぎる。その時、彼に強く押されて後ろへとたたらを踏んだ。よろめくわたしの背中を人の手が受け止めた。



「……何、やってるの……?」



そこにいたのは啓斗さんだった。彼の表情には戸惑いが浮かんでいた。



「なに……、と言われましても」



見ての通りで、他に説明のしようがない。


蟷螂の化け物と対峙する明将さんは、腰に装着していた小刀を構えた。

両者の間で膠着状態が続く。


最初に動いたのは明将さんでも蟷螂でもなく。窓の外から姿を見せた雪根さんだった。


雪根さんは階下より突然現れた。

軽い身のこなしでガラスの割れた窓枠へと足をかけ、蟷螂に投擲武器を投げつける。


千枚通しに似た形のその武器は、巨大な敵を倒すにはどう見積もっても小さい。

だけどわたしの予測は大きく外れ、細く尖った切先は蟷螂の残された前脚の関節に突き刺さると、溶かすようにして破壊箇所を広げていった。


ふたつめの鎌が外れて落ちるのと同時。窓枠を乗り越えた勢いで、雪根さんが蟷螂の胴を横から蹴り上げた。


小刀を鞘に戻した明将さんが、廊下に転がる短刀を拾い上げる。

すぐさま間合いを詰め、雪根さんに注意が向いている蟷螂の首を刎ねた。


じたばたと。蟷螂は頭が切り離されてなおもがいていたが、数秒後には活動を停止する。

化け物がいた場所にはどろりと溶けかけた半固形物が残った。


啓斗さんの支えを外れて自力で立つ。

わたしを殺すはずだった残骸を呆然と眺めた。


終われなかった。

事実が重く心にのしかかる。



「ここ、三階だけど。よく登れたね」



呆れた様子で啓斗さんが雪根さんに言った。



「足場があればどうってことないよ」


「あ、そう。……かなあ?」



できて当然のような口調に納得しかけた啓斗さんだったが、結局懐疑心が勝って首を捻っていた。

そんな啓斗さんを気にせず、雪根さんはわたしの前に立つ。彼の表情にいつもの穏やかさはない。



「……何してるの?」


「雪根さん、こそ」



こんなところに駆けつけている余裕はあるのか。

彼らは優先順位を間違えてはいないか。



「足、血が出てるよ」


「そうですね」



割れたガラスを踏んで切ってしまったのかもしれない。

でも、怪我をしているのは雪根さんも同じだ。わたしだけが特別じゃない。


それに蟷螂に喰われてあそこで終わっていたら、怪我なんてどうでもよくなっていた。

痛みも、血の汚れも。生き残ってしまったから、対処を考えなければいけなくなった。



「それで、なんで部屋でじっとしてなかったんだ」



明将さんも責めるような眼差しを向けてきた。

なんで、と言われても……。


わたしからも彼らに聞きたいことがある。



「花歩さんは、大丈夫なのですか」



明将さんも雪根さんも——。二人は花歩さんを守らなくていいの?


いろいろと、間違えてない?



「お前が気にするのはそこじゃないだろ!」


「……そうですね。関係のないことでした。——すみません」



また余計なことに踏み込もうとしてしまった。


にじり寄った明将さんが怒りに目を見開く。

怒鳴られると身構えたが、そんなことはなく。明将さんは爆発しそうな感情を抑え込むように歯を食いしばっていた。



「……朔」



雪根さんが名前を呼ぶ声音にも、非難の色が混ざる。

明将さんと雪根さんに視線を彷徨わせていた啓斗さんも、やがてわたしを物言いたげに見てくる。


気まずくて。居た堪れない。

なんだかとても申し訳なくて。だけどどうすることもできなくて……。


彼らの目から逃げるように顔を伏せた。


早く部屋に戻ってひとりになりたい。

わたしが希望して叶うのかと不安で言い出せずにいると、階段から複数の慌ただしい足音が聞こえてきた。


三階にあがってきたのは穂高さんと柊さん、——そして宮城さんだった。



「何やってんだ」



宮城さんの苛立ちがこもった咎めるような声に、胃がきゅっと縮こまる。

鳩尾に手を当て、痛みを誤魔化した。



立ち尽くすわたしの顔と、足元と。

廊下の奥のかつて蟷螂の化け物だった残骸を確認し、宮城さんは怒気を強めた。



「死にたかったのか」


「そういうわけではない、……と思います」



死ぬのは、怖い。



「……でも、どうにもならないなら、仕方がないので」



このまま生き続けるのは、もっと怖い。



「足掻きもせずにふざけたこと抜かしてんじゃねえ。投げ出す前に他にやれることがあるだろうが」


「奥園は、それを良しとはしません」



こうしてわたしが生き残ったのも、奥園にとっては想定外だったはずだ。

赤兎班にしてみれば結果的によかったのかもしれないけれど……。


奥園と赤兎班は敵対しているのだから、利が反転するのは当然。起こった事象に対して、必ずどちらかが苦渋を舐めることになる。


わたしが起こす行動は全てにおいて、奥園と赤兎班の両方にとっての正解にはならない。どちらかの意に反して不興を買うのは仕方がないのだ。


それならば……。



「……わたしが何を選んでも、誰かの間違いになってしまうなら……」



苦しみが続くのは嫌だ。

先が不明瞭な恐怖から、逃げ出すことが許されないなら……。



「せめて、楽な道を選ばせてください」


「そんな道あるわけねえだろうが!」



背中に強い衝撃が走った。

宮城さんに胸ぐらを掴まれ壁に押し付けられたのだと、遅れて気付く。


至近距離で感じる強烈な威圧感に息が詰まった。



痛い。怖い。……苦しい……。



震えながら宮城さんを見上げる。

怒りに燃える彼の視線に射殺されそうだ。


甘えんじゃねえぞクソガキがと。なおも詰め寄る宮城さんを雪根さんと明将さんが引き離す。


足の力が抜けて、背中を壁につけたままずり落ちた。


上手く呼吸ができない。肺に残ったわずかな空気を使ってなんとか声を捻り出す。



「……だったら——……」



だったらもう、生きたくない。


耐えず動き続ける肉体を抱えてどうしろというのか。



この地上から消えてしまいたい。



叶うなら、闇に溶けて無くなりたかった。







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