1.そして、人質になる(上)
極東の島国「日の元」は、古来より神の庇護下にある。
日の元を囲む海と空は、1年に2度訪れる安定期を除き、常に大荒れとなっていて、外つ国の侵入を許さない。
神々のもたらす奇跡の護りによって、日の元は長い歴史の中で他国との争いも起きず、独自の文化を発展させてきた。
日の元は大いなる神に守られている。
だから海の向こうの大陸で起きているという、人間同士の大規模な殺し合い……所謂戦争もない。
そして神々の怒りに触れない限り、地震や洪水といった天災も、この国ではほとんど発生しない。
外つ国の人たちは、平和な日の元を。そして四季という自然に恵まれたこの国を「理想郷」と呼んでる……と。
そう大人たちから教えられて、わたしたちは育つ。
気弱で陰気。
根暗で不気味。
何事に対しても消極的で、極度の人見知りだから友達はおろか、気軽に話しかけられる知人は誰もいない。
——それが、昼間のわたし。
学校の休み時間。
特別教室での授業終了後、教室へ戻るために廊下を歩いていると前から見知った生徒が歩いて来た。
奥園 留美香。
三か月しか誕生日の変わらない、同じ学年に在籍するわたしの義妹だ。
何日か顔を合わせることがなかった彼女は、髪の色が茶色から黒に変わっていた。
以前は明るい色の髪を全体的に緩く巻いた髪型だったと記憶しているけど、今は生え際から毛先まで癖のない直毛になっている。
遠目では誰かわからなかったけど、あれは留美香で間違いない。
相変わらず、留美香の周りは多くの人であふれてとても賑やかだった。
彼女の両隣には男子生徒が陣取っていて、その後ろにも七人ぐらいの生徒が男女入り乱れ談笑する。
後ろを向いて楽しそうに笑っていた留美香が、わたしに気付く。途端に彼女の顔から笑顔が消えた。
あれだけ騒がしかった周囲の人も口を閉ざし、廊下が一気に静かになった。
通路の幅いっぱいを占領する留美香たちに道を譲るため、わたしは他の生徒たちたちと同じく端によって立ち止まり、身を小さくする。
あからさまに不機嫌になった留美香の肩に、隣にいた男子が手を回した。
一行はわたしの前で足を止める。
「……その髪」
頭上に義妹の声が降り注ぐ。
「あんたとわたしが同じ色なんて、虫唾が走るわ。明日までに他の色に染めてきて」
言うが早いか、留美香は隣にいる男子に促され、さっさと行ってしまった。
義妹の後ろを歩く生徒たちも、わたしの前を通る間はこちらを気にしていたけれど、通り過ぎた後は留美香のご機嫌取りに必死だ。
留美香はわたしに意見を求めないし、要求を拒否することも認めない。
だからさっきもこちらが何かしらの返事をする前に立ち去ったのだ。
それにしても、染めてきて……、か。
俯く顔にかかった、自分の髪を見る。
染めてはいない。窓から入る光によっては茶色に見えなくもない色合いの髪。
留美香の黒色よりも大分薄いと思うけど、これでも彼女は気に入らないらしい。
留美香はわたしとの間に共通点を見出されることを、極端に嫌がる。
まあ、その気持ちはわからなくもないけど……。
ひとまず、今日は学校帰りに美容室へ行かなければならなくなった。
髪を染めるついでに、思い切って短めの髪型にでもしてみようか。
これから暑くなるのだし、ちょうどいいかもしれない。
無理矢理にでも前向きにならないとやってられない。
理不尽だと訴えたところで、わたしの希望なんて通りはしないのだから。
およそ一年と少し前。
女手ひとつでわたしを育ててくれた、母が再婚した。
相手は大企業の社長だった。
母は秘書として会社に派遣された時に、仕事場で義父に見初められたらしい。
そこから紆余曲折を経て、強く反発する義父の関係者を押し切る形で、母と義父は結婚する運びとなった。
そして母と共にわたしも義父の籍に入り、奥園朔となる。
留美香は義父と、ずいぶん前に亡くなったという前妻との間に生まれたひとり娘だ。
結婚前から母にお付き合いしている人がいるのはなんとなく察していたし、その人といずれは家族になるのかなあと漠然と考えたことはある。
だけどいざ交際相手だと義父を紹介されて、いきなり「もうすぐこの人と結婚するの」と母から教えられた日にはそれはもう戸惑った。
しかも相手の男性にはわたしと同じ年の娘がいて、結婚後は同じところで暮らすなんて。
母と義父は長い年月を経て愛を深めていったかもしれないけど。
わたしと留美香は顔合わせのその日まで、赤の他人だったのだ。
もともと庶民のわたしと生まれつき社長令嬢の留美香じゃ、価値観が違う。
仲良くなれないだろうことは予想できていた。
今までずっと苦労してきた母が幸せになるのは、とても嬉しい。
だけど正直、結婚はわたしがひとり立ちして、母のお荷物にならなくなってからにしてほしかった。
実父の再婚について、留美香は拒絶を示さなかった。
新しくできた母親に対しても、遠慮がちにだが物腰柔らかく接している。
留美香が存在を許せないのは義母の連れ子……、新しく姉妹となった、わたしだけだ。
だったらもう、彼女が母を受け入れているなら、それ以上は望むまいと割り切るしかない。
わたしは高校を卒業すれば奥園家を出るつもりだ。
留美香が母を認めてくれているなら、何も言わない。
金目当て。
遺産目的。
贅沢がしたいため……。
——あの女は、奥園氏をたぶらかした……と。
未だに母を悪く言う人たちがいるのは事実だけど、それが真実じゃないってことを、わたしが誰よりも知っている。
母は義父を愛して、義父のために頑張っている。
母は幸せが欲しかっただけで、贅沢なんて求めていない。
たくさん努力して、必死に働いて生きてきた彼女が掴んだ、愛する人の傍にいられる幸せ。
それを守るためなら、留美香の嫌味のひとつやふたつ、気にせず耐えられる。
母が心に決めた相手。
周囲の反対を押し切ってまで結婚を強行するほど、義父も母を愛しているというのなら……。
わたしは、義父が母を幸せにしてくれるって、信じたい。
…………信じたい……、のに……。
*
それは五時間目に起こった。
昼食後の授業は程良い満腹感と、窓から入る心地よい風が眠気をもたらす。
授業中にも関わらずうとうとしながら、なんとか力の入らない手を動かし黒板の文章を帳面に写す。
自分で書いた歪な文字に、いろいろと諦めそうになってくる。
睡魔と戦っているのは、わたしだけではない。
教室の生徒の大半はうつむいていたり、机に伏せてしまったりと、顔を上げている人の方が少数だ。
教科書の要点を説明する先生の声を子守唄に、まぶたがだんだんと重くなっていく。
……あ、これ……駄目かも。
まぶたが下がりきってしまえば、後は早い。
少しだけ……、と自分に言い訳しつつ、ふわふわと心地よい感覚に身を委ねた。
そこから、時間は五分とたっていないはず。
浅い眠りは突然の変化によって吹き飛んだ。
授業終了の鐘を待つことなく、教室前方の引き戸がゆっくりと開いたのだ。
「授業をしているところすみません」
教科担当の先生に軽く頭を下げ、教室内に足を踏み入れた人物には見覚えがあった。
白髪混じりの壮年で、固い表情と、厳しそうな目つきが印象的な人。
入学式や始業式で見かけた。
この学び舎、皇立院の学長だ。
突然の学校要人の出現に教室がにわかに騒めく。
学長は目じりにしわを寄せた険しい顔で生徒たちを見渡した後、口を開いた。
「奥園、……朔」
——え? わたし?
「奥園、朔。いるなら返事をしなさい」
「……は、はいっ」
どういうこと?
戸惑いながらも声を上げる。学長と目が合った。
「すぐに帰り支度をして教室を出なさい」
生徒たちの視線がわたしに集中する。
理解が追いつかずぼんやりと瞬きを繰り返していると、学長が目じりの皺を深くした。
「早く準備を。あまり長い時間をお待たせするのは失礼だ」
待たせるって、一体誰を?
混乱しながらも指示された通り、学生鞄の中に教科書や筆記用具を詰めていく。
学長が直々に、授業を中断させてまでひとりの生徒を呼びに来るなんて、よほどのことがあったのだろう。
……もしかして。
嫌な考えが脳裏をよぎる。
——まさか……、お母さんに何かあったの……?
鞄を持って急いで廊下に出ると、学長はわたしの前を歩きだす。
隣の、留美香が在籍する学級はなぜか素通りされた。
「……あの、奥園留美香はいいのでしょうか?」
身内によからぬことがあったなら、彼女も当然呼び出しを受けるはず。
それとも、留美香はわたしよりも先に行ってしまったのかな。
学長は問いかけに足を止めることなくこちらを一瞥する。
「用があるのは君だけとのことだ」
わたしだけ?
ますますわからない。
先を急ぐ学長に小走りで付いて行く。
校舎を三階から一階へ。
昇降口の前を通り、学長室の隣にある応接室に辿り着いた。
「お待たせしました」
学長は精巧な彫刻が施された木製の扉を軽く叩き、取っ手に手をかける。
応接室には二人の男性がいた。
ひとりはソファに腰かけて、優雅に足を組んでいる。
明るい灰色の背広を着た、茶色い髪をした二十代くらいの人。
彼は学長とわたしを見るなり柔らかく微笑んだ。
そしてもうひとり。
ソファに座る彼の後ろに腕を組んでたたずむのは、紺色の背広に身を包み、刺々しい雰囲気を纏った人。
黒い前髪のはざまから見える細い眼に、敵意に近い感情が見え隠れしているのは気のせいだろうか。
扉を開いたまま、学長が壁際に寄る。
うながされて部屋に踏み入れたけれど、男性ふたりとわたしは面識がない。
困惑しているとソファに座る男性が目元を和ませながら首をかしげた。
「奥園、朔ちゃん?」
「……はい」
戸惑いながらも頷く。
茶色い髪の男性はふっと笑ってソファから立ち上がる。
体格は華奢だけど、彼は予想以上に長身だった。
見下ろされて、ただならぬ威圧感に呼吸を忘れる。
「はじめまして。鳳の赤兎班所属の、穂高です。それで、あっちは柊ね」
「……はあ」
自己紹介をされても、なんと返せばいいのやら。
かろうじて出てきた気の抜けた返事を咎めるように、学長がわざとらしく咳をした。
どうしてわたしが呼ばれたのか、名乗られたところで理由は思い当たらない。
穂高さんが言った「鳳」とは、この国を支える三つの柱の内のひとつを指しているのだろう。
鳳とは、日の元の世の安定を目的とした、法の下で国民を取り締まる、治安部隊の名称である。
彼の着用する背広の襟元には、鳳の象徴である羽の形をした小さな装飾が付いていた。
彼らが鳳だというのなら、学長が丁寧な物腰で接するのも頷ける。
だけど、さっき穂高さんは、わたしの聞き間違いかもしれないけど自分たちのことを鳳の「赤兎」って言わなかった?
まさか、そんな……。
穂高さんは笑顔を張り付けたままわたしへと手を差し出す。
「さあ、行こうか」
「え、あの……、行くというのは、どちらに」
応接室の外へと誘導されたところで、素直に従うのは無理がある。
穂高さんからさりげなく距離を置いたわたしに、学長が再び咳払いをしてみせた。
状況がつかめない。
本当に、この人たちは鳳なのかすら疑問に思えてきた。
「待ってください。このことを、わたしの家の者は知っているのでしょうか」
彼らへの怪しさが拭えず、渋るように言葉を発したが穂高さんは怯まない。
何の問題もないとばかりに深く首肯し、いとも簡単にわたしを丸めこむ。
「心配しなくても、君のお父さんから了承は得ているよ」
「それは、どういう」
「詳しいことは向こうで。少し急ごうか。時間が押してしまっている」
こちらの抵抗は彼らにとって無意味で、わたしの質問に答える気もないのだろう。
穂高さんは笑顔でごり押して、半ば強引に正面玄関前に止めてあった車へとわたしを押し込んだ。
後部座席にわたしと穂高さんが座り、運転席では柊さんが操舵輪を握る。
目的地を告げられることもなく、車は走り出した。
学長は車が学校の敷地を出て行くまで、こちらに向かって頭を下げ続けていた。
半刻ほどで灰色の四角い建物に到着した。
等間隔に並んだ窓を縦に数えて、建物が三階建てなのだと把握する。
建物の前方にある広大な駐車場は閑散としており、入り口の透明な硝子窓から見える内部に人の姿はない。
二人に連れられて建物へと足を踏み入れた。
前を歩く穂高さんの背中を見ながら、薄暗い静かな廊下を進む。
後ろをついて来る柊さんの足音が、立ち止まってはならないという無言の威圧感を与えてきた。
とある部屋の前で穂高さんの足が止まる。
簡素な木製の茶色い扉を軽く叩き、彼はゆっくりと扉を開ける。そしてわたしへと振り返り、中へ入るようにうながした。
天井より降り注ぐ白い蛍光灯の光ですら重く感じられるほど、その部屋の空気は異様だった。
床は濃い赤色の絨毯が敷かれ、窓には遮光のための真っ黒の暗幕が施されている。
そんな部屋の真ん中に、大人が三人は余裕でくつろげる大きな黒い革張りのソファが対面してふたつ設置されてあった。
言ってしまえばそれしかない。それだけの部屋。
片方のソファの中央には、既に人が座っていた。
烏の濡れ羽色という表現が似合う、艶のある漆黒の髪をした三十代ぐらいの男性だ。
白いシャツに黒い細身のパンツを着用した彼は、ソファの背もたれに左右の手を回し、だるそうに姿勢を崩している。
天井をぼんやりと見上げていた彼が緩慢な動作で顔を上げる。
漆黒の瞳が、わたしを射抜いた。途端に息がつかえて背中に寒気が走った。
何が、とか。
どこが、とか。
具体的なことは説明できない。けれど……。
彼は違う、——と。
あれは普通の人じゃないって、本能が強烈に訴えてくる。
あの人は、誰か。これからわたしはどうすればいいのか。
助けを求めて穂高さんを見上げても、彼は困り顔で微笑むだけだった。
「……へえ」
ソファに座る彼が口の端を上げた。
おもしろそうに。興味深げにじろじろと見られて居心地が悪い。
訝しがった柊さんに、ソファの彼はひらりと手を振った。
「いや、少しばかり天秤に偏りがあるみたいだからな。……だが、特に気にするほどではないか。この程度なら放っておいてもじきに均衡がとれるようになるだろう」
そう言って彼は喉の奥で笑う。
「まあ、多少なりとも俺たちに都合がいいのは確かだ」
男性はわたしに目を細め、自身の正面にあるソファを顎で示した。
「とりあえず、座って話そうか。手短にいきたいところだが、そこまで期待はしていないから安心しろ」
ということは、彼がわたしがここに来た理由を説明してくれるのだろうか。
穂高さんに軽く背を押され、ためらいながらも部屋の中央へと踏み出した。
ソファに腰掛けて間近に見た彼は、普通の人間と判断するにはやはり何かがおかしかった。
あえて言葉にするなら、纏う空気というか、発する気配がおおよその人が持つそれと微妙にずれている気がする。
それはユウたちみたいに、包み込むような優しい感覚ではない。
もっと鋭く、切れ味のいい刃を隠し持っているかのような。例え難い危うさに、緊張感が込み上げる。
彼は肉体を持ち、地上に生きる動物であるのは確かだ。
なのにわたしは「この人は人間なのか?」と問われたら自信を持ってそうだとは言えない。
不思議だった。
わたしの視覚が示すその姿は、間違いなく人間だというのに。
彼という存在が珍しくて、つい不躾な視線を送ってしまっていたのだと思う。
頭をかきむしった彼は真顔で足を組んで、だるそうにため息をこぼした。
はっとしてわたしは姿勢を正す。
「自己紹介ぐらいはしておこうか。鳳、赤兎班の班長を勤める、宮城という」
彼……、宮城さんが前のめりになり、顔面がこちらに急接近する。
反射的に身を後ろに引いたわたしに構うことなく、宮城さんは続けた。
「それで、君はどこまで聞いているのかな?」
……どこまで、とは?