5.白の侵食(上)
白が世界を染めていく
息を吸って、吐き出して……。
胸を微かに上下させ、呼吸が繰り返される。
ふと思い立って息を止めるも、苦しくなって長くは続かない。
わたしが意識しなくても、体は絶えず空気を取り込み、吐き出し続けてる。
心臓も同じ。
身体の中心にあるそれは、動けと命じる必要なく伸縮を繰り返して拍を刻む。
どく……、どく——、……と。
自身の内側で発生する動きへと、意図せず注意が向いてしまう。
心臓が動き、全身に血が巡る。
呼吸で酸素を取り込む。
全て生きるために必要なことだ。
——わかっているのに、内側の動きが煩わしく思えて、どうすれば静かになるのかと、不毛な考えを繰り返す。
太陽の光が、眩しくて怖い。
人の気配が気持ち悪い。
この身は違和感だらけ。
あの日、赤兎本部の医務室で目を覚まして以降、わたしはどこかおかしい。
*
やっと夏休みになった。
閉め切った部屋で、薄布団を頭から被り寝台の上で小さくなる。
むっとする蒸し暑さが息苦しい。それでも視界に映る黒色に、これ以上なく安心できた。
長期休暇で高校に行く必要がなくなり、三日が過ぎた。
わたしは日中、ほとんどの時間を寝台で蹲っていた。
宿題ぐらいはしておかなければと焦りはするものの、体が思うように動かない。
本当に、わたしはどうしてしまったのだろう。
光が怖い。
もともと日中よりも夜の方が好きではあった。
だけどこんなにも、昼間の時間に恐怖を感じたことは今までなかった。
光源があることによって視覚にもたらされる、多くの情報を頭が処理しきれず、顔から薄布団を外すと頭痛がした。
そしてなによりも。
太陽の強い光は、わたしの人の部分をどろどろに溶かしてしまいそうで、直視できそうにない。
——人の部分って、何よそれ。
自分の思考に自嘲する。
わたしは人のはずなのに。どうしてそんな考えに至ってしまうのか。
明確な答えとまではいかなくても、思い当たる節はある。だけどこれは……、これ以上は、深く考えてはいけない。
部屋の扉が叩かれる。びくりと肩が跳ねた。
「……朔ちゃん、お夕飯持ってきたけど、食べれそうかしら?」
花歩さんの遠慮がちな声がして、ああもうそんな時間かと寝台を降りた。
急かされてもないのに焦りが芽生え、足早に玄関へと向かう。
扉を開くと、夕食の乗ったお盆を両手で持つ花歩さんと、その後ろに明将さんがいた。
「すみません。いつも」
ここまで運ぶのも手間だろうに。
たしの世話が赤兎班にとって義務なのは理解しているけど、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
いつ消えてもおかしくないモノを生かさなきゃいけないなんて、報われない努力と同じではないか。
「謝らないでって言ってるじゃない。朔ちゃんは、体は大丈夫?」
「——? わたしのほうはなんとも」
問題ないと告げたはずが、花歩さんには泣きそうな顔をされてしまった。
明将さんも難しい表情のまま立ち尽くしている。
わたしってそんなに具合が悪そうに見えるのかな。
「汁物があるから気をつけてね」
花歩さんから夕飯の乗ったお盆を受け取る。
「はい。ありがとうございます」
お盆や食器の返却は、部屋の前に設置した台に置いておけばいい。一階の食堂まで返しに行かなくていいように、部屋の中にあった電話台を置かせてもらったのだ。
おかげで毎回、班員と顔を合わせて気まずいことにならなくて済んだ。彼らも不快な思いをしなくなったから、お互いのためにもなった。
いちいち食器の回収に来なければならない花歩さんには、仕事を増やして申し訳ないけれど……。
わたしが赤兎班の人と顔を合わせるのは一日に三度、食事前だけにとどまった。
回数的に多い気もするが、監視の意味もあるならこれぐらいは仕方がないと割り切れた。
「夏休み中、ずっと部屋にこもっているつもりか」
「そうですね」
外に出てすることも、したいこともない。
それで問題ないという意味で頷いたが、明将さんの表情は晴れなかった。
「気分転換で屋外に出るぐらいなら、事前に言えば宮城さんも駄目だとは言わないだろう。外で友人と会うのは、禁止されるかもしれないが」
「わたしには一緒に遊ぶような友達がいないので、心配しなくて大丈夫です」
「…………」
「本当に、気を遣わなくていいんです。ひとりでいられる場所を提供していただけているだけで、十分ですから」
むしろ他に何を望めというのか。
「お夕飯、ありがとうございます。……いただきます」
物言いたげな二人の視線から逃げるように部屋に戻った。
日が落ちかけて薄暗い室内にほっと息を吐き、台所前の机にお盆を置いた。
椅子に座る前に食事を見下ろし、手で鳩尾を抑える。
毎回食事が億劫だ。胃に入れた物が消化される前に、次の食事が来てしまう。
胃の中の物をどうするか迷い、部屋の扉の先、廊下へと意識を向けた。
花歩さんと明将さんは、すでに立ち去ったみたいだった。
ならば人に会う心配もない。
食事を机に置いたまま、部屋を出て階段の隣にあるお手洗いを目指す。
一度胃の中を空にしないと、次の料理が入れられそうにない。
わたしは赤兎班に反抗したいわけじゃないから、それを態度で示す必要がある。
だから出されたご飯はちゃんと、食べなきゃいけない。
会いたい。会いたい。
夜だというのに、みんなの気配を感じない。
医務室で目を覚ましてからというもの、夢を通して深淵へ行くどころか、地上でも彼らの存在を認識できなくなった。
どうして……。
わたしの闇の傾きがなくなり、光との均衡がとれてきているから?
これが普通になるということなの?
母も、闇の世界のみんなも——。
心の底から望む、わたしの大好きな人ばかりが遠ざかっていく。
*
胃が重くて深く眠れず、朝の目覚めはすっきりとしない。
閉じた瞼の先に感じる朝の光が眩しい。目にぎゅっと力を入れて、薄布団の中に潜り込んだ。
起き上がる気になれず、朝食のことを考えるとさらに気が沈んだ。
深淵に生きるみんなの気配はわからなくなったというのに、地上で動くものに対しての感覚はあまり鈍っていないみたい。
意識を向ければ階下のあちこちで人が動く様子が、寝台の上からでも感じ取れた。
慌ただしそうにする人たちと、何もできずにいるわたし。つい比較してしまい、自己嫌悪におちいる。
ほんとう。わたしはなにをやっているのだろう。
この状況では仕方がないと思う反面、このまま動かずにいてもいいのかと迷い、堪え性もなく無駄に気が急く。
わたしに出来ることなど微塵もないと、散々思い知らされたはずなのに。
余計なことをしたら、また周囲を困らせてしまう。息を潜めてじっとしているのが最善なのだ。
そうしていれば奥園と赤兎班は、わたしへの負担を最小限で済ませられる。わたしも、必要以上に嫌な思いをしなくていい。
余計な関わりはいらない。周りの人が動いているからといって、無闇に焦る必要はない。
赤兎班は——、……敵、なのだから……。
何度も自分に言い聞かせて、その度に歯を食いしばった。
——奥園は本当に、わたしの味方と言えるのか?
——赤兎班は本当に、……敵なのだろうか……?
次々と湧き上がってくる疑問に、頭を振って自分を誤魔化す。そんなもの、考えたところで意味がない。全部わたしにはどうしようもないことだ。
もうすぐ朝食が運ばれてくる。
食べたくないけど、食べなきゃいけない。
せめて部屋着にくらいは着替えておこうと身を起こした。
蒸し暑くこもった部屋の空気はどんよりと重く、換気をするため日避け布越しに小窓を開けた。
日避け布が微かに揺れる。
外気に朝の爽やかさはなく、窓から吹き込んだ風には腐臭が混ざっていた。
「——っ!?」
考えるよりも先に体が動き、小窓を閉めて鍵を掛けた。
全身が総毛立つ。嫌な記憶が呼び起こされた。
知っている。忘れるわけがない。
臭いと錯覚しただけで、実際にわたしの鼻が何かを嗅ぎ取ったのではない。禍々しいとさえ思える、気持ち悪い、べたべたとした——、これは蟲の気配だ。
一度気付いてしまっては、もう意識を逸らせない。
奥園の刺客。透明の……、虹色に蠢く体を持った巨大な蟲の化け物が、この建物に近付いてきている。
胃が締め付けられたように縮こまる。
台所へと急ぎ、流し台の縁に手をついて上体をくの字に曲げた。
胃液が食道を逆流する。手探りで蛇口を捻り、口から出た体液を排水口に流した。
収縮を繰り返す胃が落ち着くのを待って、顔を洗い、口を濯ぐ。
嫌な気配は消えてくれないどころか、強まる一方だった。
震えながらもなんとか着替えを済ませた。
建物内部で動く人の気配に変わった様子がないところから、まだ赤兎班は蟲を発見できていない。
わたしはどうすればいい……。
一刻も早く班員に蟲を見つけて欲しいと望むのは、奥園として間違いだ。
寝台に腰を下ろして身をかがめ、自分で自分を抱きしめる。
しばらくそうしていると、この部屋がある三階に人の気配が上ってきた。
花歩さんが朝食を持ってきてくれたのだろう。
玄関を見つめ扉が叩かれるその時をじっと待つ。
しかし階段からこの部屋まで。ゆっくり歩いて辿り着けるだけの時間が過ぎても、廊下の気配は扉の前に近づいてこなかった。
不思議に思って腰を上げる。
すると三階の廊下に留まっていた気配が、一瞬で部屋の前に移動した。
こんっ……と。扉を叩く音が部屋に響く。
「駄目だよ、朔ちゃん。……いい子でいなきゃ」
「…………え?」
この声。……知っている。間違うはずがない。
でも、どうして……。
須藤さんの声が、扉越しに聞こえてくるの……?
足がよろめき、再び寝台に座り込む。
体の震えが止まらなかった。
廊下にはもう誰もいない。
今のは余計なことをするなという、わたしに対しての忠告だ。
あらかじめ伝えてくることから考えて、わたしは奥園側からも信用されていないのだろう。
怖いからって助けを求めてはいけない。それが一番、誰のためにもならない。
何もできない。何かをしてはいけない。
わたしは今日も、いつも通りに過ごさないと。




