0.あかいうさぎ
——逃げられると思うな。
日の元を護れ。
敵を滅せよ。
国を揺るがす「秘密」だけは、
決して民に知られてはならない。
皇を守護する、その果てに——。
◇ ◇ ◇
地上の光を淘汰する。
深淵の闇に、陰となるものは必要ない。
黒に視界を奪われてすぐ、雪根は自らに倒れ掛かった体を、考えるより先に抱きしめた。
頬に微かな風を感じる。耳では聞こえない足音が、背後を駆けて行った。
ここにいる誰にも、地上から遠ざかる彼女を止める資格などない。雪根はそれを十分すぎるほど理解していた。
深淵が介入したのだ。地上の生き物ごときに逆らえるはずがない。
「————」
朔の身を支えた雪根の呟きもまた、深い闇の中にかき消された。
数秒もしないうちに、黒は消えた。
何事もなかったかのように照明の光が戻り、呆然とする班員たちを照らす。
意識を失った朔の涙は頬を伝い、もたれかかった雪根の服に吸い込まれていく。
肉体はあっても、朔はここにいない。
出会った時よりも、痩せた体が痛々しかった。楽な体勢をとらせようと、雪根は朔をそっと敷布に寝かせた。
周囲は地上ではあり得るはずのない深淵の干渉に恐れ慄き、誰も言葉を発さない。
朔の精神は深淵に渡った。しかしなおも彼女は息苦しそうに浅い呼吸を繰り返す。
しんとした部屋の中、雪根が異変に気付く。力なく横たわる朔の手首に、刺青のような黒い痣が袖口からのぞいていたのだ。
——まさか。
杞憂であってほしいと願いながら、朔の袖口をめくる。
そして。朔の手首に根が這うように広がる痣を見つけ、雪根は己の失態を呪った。
「クソがっ!」
急いで布団を使い朔の体を照明から隠す。
いつも飄々としている男の悪態に、近くにいた者たちは驚いた。
「腕を蟲の毒に侵食されてる。噛まれてたんだ」
端的な報告に皆が目を見開き息を飲む。
周囲が愕然としているところに、宮城が入ってきた。
不機嫌そうに佇む宮城には目もくれず、雪根は薄布団で朔を包んだ。
「御社へ行きます。呼びつけるより、直接行った方が早い」
決定事項だと言わんばかりに断言した雪根に、宮城は疲れた目を揉みながらも了承した。
「……行ってこい。一応、土地守りは叩き起こしておいてやる」
朔を包んだ布団ごと抱き上げた雪根は、班員たちを押し退けて部屋を後にした。
明将は立ち去る雪根の後ろ姿に、苦悩の滲んだ顔できつく拳を握った。
朔を助ける。ただひとつの目的のために、脇目も触れずに動ける雪根が羨ましい。同時に、義務感に縛られ行動を迷う自分が歯痒かった。
現在、明将が宮城に言い渡されている任務は、花歩の護衛である。
仲間の裏切りがあったとはいえ、昨夜花歩が連れ去られた事実は覆しようがなく、これ以上の失態は許されない。
大口を叩くだけで結果が残せない者は、いずれ周囲の信用を失う。そんな奴の主張は雑音と同じだ。たとえ訴えが正しいものであったとしても、誰も聞き入れてくれなくなる。
朔を庇い、仲間を諌めるためには、信用と発言力が必要なのだ。
雪根がなりふり構わず行動を起こすなら、なおさら明将が仲間たちとの間に入り、緩衝材の役目を果たさなければならない。
苦虫を噛み潰したような顔つきで、今にも唸り出しそうな明将から、花歩は闇に怯えて無意識に握っていた彼の服を放す。そして震える手でそっと明将の背中を押した。
「アキも行って。わたしはもう、部屋から動かないって約束するから」
不安を顔に滲ませながらも、花歩の手に力が入る。
「朔ちゃんを、助けてあげて。……お願い、します」
花歩の最後の言葉は、宮城に向けられていた。
腕を組んで思案に暮れていた宮城は一呼吸置いて明将を一瞥した。
「行ってこい」
「——っ!? 外れます!」
強く頷き、明将は雪根を追って部屋を出た。
「あと二組、至急雪根たちに付け。襲撃が考えられるとしたら向こうだろう」
宮城からの指示に班員たちが慌ただしく動く。
「今回の件で巻き込まれたのは、おそらく花歩の方だ。いい具合に釣り餌にされたな」
廊下を走る足音を遠くに聞きながら、皮肉そうに宮城が笑った。
「朔ちゃんは——」
心痛な面持ちの花歩に肩をすくめ、宮城は鋭い目つきで正面を見据えた。
「だがまあこれではっきりした。僅かな可能性を捨てきれず、警戒し続ける必要も無くなった」
何も知らされず、どうすることもできない。
笑えないぐらい非力で、地上に縋る場所がない、哀れな子供。
「奥園にとって、あいつは都合のいい捨て駒でしかない」
奥園当主にとって、朔は後妻の連れ子だ。旧家の血も継いでいない。
赤兎班に放り込んできた時は、最初から娘を切り捨てるつもりなのだろうと、宮城たちもある程度の予想はしていた。
しかし所詮は憶測にすぎない。赤兎にとっての本当の敵と繋がっている可能性を捨てきれない限り、朔を信用するわけにはいかなかった。
そういった経緯から、深淵との縁を持つ稀有な存在を彼らは持て余した。
人一倍感受性が強く、他人の感情に聡い。気をつけなければ内面を丸裸にされる。
朔にとって諸刃の剣となるその性質は、同時に鳳・赤兎班の班員たちの神経もすり減らしていた。
朔は赤兎班にとって、仲間ではない。
日の元について知り得る情報に、決定的な違いがあるからだ。
赤兎の本部は本来、秘密の共有ができ、気の許せる仲間だけが揃う場所だった。そんな場所に一時的とはいえ異分子を預かるとなると、嫌でも四六時中緊張を強いられる。
そのことが班員たちの、苛立ちの増長に繋がった。
奥園当主を隠れ蓑にして、本当の敵は、未だに姿を現さない。
いるのはわかっているのに、そこに辿り着けないもどかしさばかりが募ってゆく。
さらには奥園との長期戦を覚悟したところで、篤志の裏切りときた。
顔や口には出さないが、皆が相当堪えていた。
一連の騒動に巻き込まれながらも五体満足で戻った朔を、多くの班員が怪しんだ。宮城も例外でない。
ただ運が良かっただけか。もしくは、敵側に思惑があるのか。
翌日には篤志とのやりとりを含め、朔が奥園当主に縁のあるあの倉庫で何を見たのか、洗いざらい話させるつもりだったのだが……。
悠長に構えていたのが、この結果に繋がった。
属性が闇に傾いた者は急激な変化に弱く、主体性がない。
大人しい性格で、我慢強く思慮深い。
身柄を預かるうえで朔ほど都合のいい性格の者はそういないだろう。それは宮城も認めている。
ただし今回は、朔の我慢強さが仇となった。
己の判断の誤りを認めざるを得ない。
花歩の部屋を後にして、宮城は執務室へと急いだ。
事後処理に追われる穂高と柊に合流し、今後の対策を練る必要がある。
蟲に襲わせていた時点で、奥園側の朔に対する扱いははっきりと知れた。
奥園の狙いは、赤兎の領域で朔を処分することにあったのだ。
失態を突き、今後奥園が赤兎に圧力をかけてくることは、容易に予測ができた。
*
朔が受けた蟲の毒は華闇の土地守り、一樹によって祓われた。体内に保有する光が人より少なかったため大事に至らなかったとは、一樹の談である。
蟲の毒は生き物の光を蝕みながら、肉体を巡る。
闇の属性に偏った朔は、毒の進行が遅かった。
その代わり、朔は人より光に対する耐性が少ない。わずかな毒でも場合によっては死に至る危険があったという。
朔を苦しめた蟲の毒が消えて、十日と少しの時間が経った。
赤兎の本部、医務室の寝台で眠る朔の腕には点滴の針が刺さり、管を通して栄養が与えられていた。
肉体に異常がなくなっても、彼女は未だに目を覚まさない。
診断にあたった医師は原因に首を傾げたが、明将たちは理由を理解していた。
朔の精神はここになく、彼女は今、深淵にいる。
長期間の精神と肉体の分離は死を招く。
深淵の神々も把握していることなので、そのうち帰ってくるだろうと。無理矢理叩き起こす手段を取らず、宮城は現状を達観していた。
医務室には雪根と明将が交代で護衛に入り、設置された机で穂高たちの書類仕事を手伝うかたわら朔を見守り続けた。
花歩は率先して朔の世話を引き受けた。
班員たちも、忙しく駆け回りながら朔について気にしている。「どれだけ迷惑をかければ気が済むんだ」と言いながらも、声音には悔いの色が滲む。
朔への態度が完全な八つ当たりだと、誰もが自覚していたのだ。
そして朔が倒れて、奥園も動き出した。
花歩の行方不明にはじまり一連の騒動があった翌日。当然ながら、朔は学校を休まざるを得なかった。
その機を狙ったとばかりに、奥園当主から赤兎班に接触があった。
娘はそちらで問題なく暮らせているか。
なんの前触れもなく大人の都合で家族から引き離され、さぞ心細い思いをしているだろう。
数分で構わないので、娘と話をさせてくれないか——と。
娘の身を案じる父親としては正当な言い分だが、今更感が否めない。
当然、朔の現状を馬鹿正直に報告するわけにもいかず、宮城は奥園当主の要求を拒否、もしくは保留とした。
すると鬼の首を取ったかの如く、奥園からの赤兎への糾弾が始まった。
娘の安否を確認する問い合わせが執拗に続き、赤兎班へのあらぬ噂を周囲に吹聴される。
奥園当主は愛する娘と引き離された悲劇の主人公となり、そのことを外堀を埋めて味方を集める材料として利用した。
赤兎班には奥園に懐柔された鳳の一部の派閥から圧力がかけられた。
日の元の治安を守る鳳という組織も一枚岩ではない。
鳳の他班に比べて圧倒的に規模の小さい赤兎班に与えられた、大きな権限をやっかむ者は少なくなかった。
ひとつひとつの抗議や嫌がらせは些細なものであるが、数が多くなると処理にもそれなりの時間が費やされる。
どれもが宮城にとっては予想通りの動きであるが、実際対応に迫られると面倒なことこの上ない。
外野がとやかく言ったところで、赤兎班の存在が危ぶまれる事態には決してならない。
奥園の裏にいる敵もそれは理解しているだろう。
ただし、赤兎班の行動を制限するという一点においては、外野のおびただしい苦言は有効な手段となっていた。
*
赤兎本部の医務室にて。
眠り続ける朔の側で、明将は書類を捌いていた。
卓上の照明器具が彼の手元を部分的に照らす。日の入り直後の室内は窓に日避けの布が掛けられて、全体的に薄暗かった。
変化は静かに訪れた。
不意に感じた寒気に明将の筆記具を動かす手が止まる。次いで聞こえてきたのは、布の擦れる、微かな音。
寝台で動くものを横目に捉え、明将は反射的に立ち上がった。
「——朔っ」
急いで寝台に駆け寄る。
身を起こした朔に対し、すぐに起きあがろうとするなと言おうとした。
心配、安堵、現状の説明。——そして、謝罪。
どれから話せばいいのか、頭の中で言葉が氾濫を起こして声が出ない。
結局何も言えないまま。自身へと視線をよこした朔に別の意味で言葉が詰まり、明将は瞠目した。
怯えや遠慮、迷いや躊躇いがない、ひどく冷たい朔の眼差し。瞳の奥に潜む深い闇に本能的な畏れを自覚する。
明らかに、ここにいるのは朔ではなかった。
「……誰だ」
そう口にするのが、精一杯だった。
まるで値踏みをするかのように明将の顔をじっと眺め、朔の身体を借りた何者かがゆっくりと口を開く。
ぱくぱくと唇を動かし不便そうに眉を寄せた。点滴の針が刺さっていない手で喉元に触れながら、さらに口の開閉を繰り返す。
「……こうか」
ようやく発せられた声は、朔の声帯を使って出されてはいるも、普段の朔よりも格段に低い声音だった。
朔の中にいる何者かは立ち尽くす明将を鋭く睨み付ける。
「ウサギはどこだ。連れてこい」
上から目線の、高圧的な態度。
明将の知る朔とはかけ離れた物言い。
いつも不安に揺れていた瞳にまっすぐ射抜かれ、明将はたじろいだ。
濃縮された、暗くて深い、荘厳な空気。これが朔の愛する存在。——深淵に生きる闇の神なのか。
正直、冗談じゃないと思った。
朔の中にいる何者かに感じる強烈な畏怖と恐怖。深い水の底に引き摺り込まれ、押し潰される錯覚が明将を襲う。
地上の生き物には濃すぎる闇を目の当たりにして冷や汗が滲んだ。
「……深淵の者が、地上へと赴いて大丈夫なのか」
日は暮れたとはいえ夜に達していない。まだ、彼らの時間ではないはずだ。
恐る恐る問いかけた明将は、深淵の神よりも朔の身が心配だった。
儀式もなく神を憑依させるなど、身体の負担が大きすぎる。
明将の不安をよそに、朔に乗り移った深淵の神は面倒そうに口を開く。
「大丈夫じゃないから朔の身を借りてんだろ。心配しなくても長居はしない」
言いながら、神は朔の胸に手を当てた。
「鼓動も今は止まっている」
「おいっ!」
「それで、赤ウサギはどこだ。さっさと連れてこい。近くに居るのはわかってんだ」
焦る明将に構わず、朔の声で神は命じる。
自分に神の相手は務まらない。時間をかけると朔の体にも影響が出かねない。
急ぎ上司の元へ報告しようと身を翻したのと同時。医務室の扉が開いた。
現れた宮城が、不機嫌な顔で寝台を睨む。
「嫌な気配がすると思えば、……地上への干渉が許されるとでも思ってんのか」
はっと、朔の中にいるその者は鼻で笑った。
見下したようなあざけりの表情は、朔とはもはや別人だ。
「黙認している側としては、干渉とやかくお前にだけは言われたくないな」
寝台の前に立った宮城は憮然として朔を見下ろす。
「そいつを地上に戻せ。精神を長く切り離しすぎだ」
「あと二、三度夜がくれば、じきに戻るだろ」
宮城の言葉に適当に返し、神は自らにかけられていた敷布を朔の手のひらで撫でた。
布の質感を楽しむように何度も手を往復させ、気が済めば朔の目で、興味深そうに医務室をぐるりと見渡す。
「かつて深淵において、地上で人として生きる選択をしたのは朔だ。それだけの魅力が、ここにはあるはずなんだが、……なあ?」
朔の目は最後に宮城へと行きつき、皮肉そうに口を歪めた。
そしてすっと真顔に戻り、鋭い目つきでまっすぐに宮城を凝視する。
「天上の兎よ。俺たちを失望させてくれるな」
言うが早いか、朔は寝台に崩れ落ちた。
慌てて明将が朔の身体を仰向けに戻す。何事もなく呼吸を繰り返して眠りにつく朔に、ほっと胸を撫で下ろした。
深淵の神の来訪に前触れはなく、帰るのも突然だった。
のしかかっていた威圧感が消えて、周囲は夜の気配が濃くなっていた。
深淵の神の警告を受けた宮城の表情は硬い。
「引き続き頼む」
医務室を出た宮城は執務室へと戻るべく歩く。途中、廊下の窓から見えた夕焼けに足を止めた。
次第に藍色が濃くなる空を仰ぎ、彼は虚空に大きく息を吐き出した。
◇ ◇ ◇




