21.眩しすぎた夜(下)
明将さんが迎えにきた。案内された花歩さんの部屋は、二階の奥まったところにあった。
「花歩、入るぞ」
「どうぞー」
中から声が聞こえ、明将さんは躊躇なく扉を開く。
「……お邪魔します」
警護のために扉の近くにいた班員に会釈したら、ものの見事に無視された。
若干の気まずさを覚えつつ、明将さんに続いて扉を潜る。
部屋の間取りはわたしの当てがわれている三階の部屋とあまり変わらなかった。
花歩さんの部屋に踏み入れてすぐ、張られている「結界」を理解した。部屋全体が、薄く強固な膜で覆われているようだ。
雪根さんの言っていた通り、目に見えないものを遮断する結界は、一切の精神的な干渉物を受け付けない。
安全と引き換えに、ここにいると外の気配が探れなかった。
これに影響があるのは、わたしぐらいなのだろうけど……。いつも夜になると側にいてくれる深淵のみんなも、この部屋では存在を認識することができなかった。
台所と襖一枚隔てた先にある寝室では、寝台と書き物机の間の床に布団が敷かれていて、花歩さんが敷布の準備をしてくれていた。
「朔ちゃんいらっしゃい」
「お邪魔します。その……、よろしくお願いします」
「そんなに緊張しなくていいのよ。わたしこそごめんなさいね。わがまま言っちゃって」
「いえっ、そんな」
慌てて首を横に振る。この程度のことわがままとは言えない。
台所から様子を見ていた明将さんがわたしたちに口を開く。
「俺はもう行くが、二人とも早く寝ろよ。廊下には誰かしら待機しているから、些細なことでも異常があればすぐに知らせてくれ」
「わかったわ。アキもありがとう」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
明将さんが部屋を出ていく。
あとは寝るだけとなって、急に体が疲労を訴えだした。
今日はいろいろなことが起こりすぎた。明日が来るのは怖いけど、今はゆっくり休みたい。
花歩さんに寝台を使うかと聞かれたけれど、これはさすがに断った。部屋主を差し置いてそんなところで眠れない。わたしは床の布団で十分だ。
「電気、消しますね」
照明の切り替えボタンは、わたしのほうが近い。壁に手を伸ばそうとしたその時、花歩さんが慌てて待ったをかけた。
「ごめんなさい。……暗いのが、怖くて……。電気は、付けたままじゃ、だめかしら……?」
目に涙を溜めた花歩さんは、震えながら申し訳なさそうに俯いた。
暗闇を想像しただけで尋常じゃないほどに怯える彼女に困惑して、ボタンに伸ばしかけた手を止める。
わたしは暗くないと眠れない。とは……、この状況で言い出しづらい。
「……はい。わかりました。このままにしておきます」
この部屋で一泊することを了承したのはわたしだから、これぐらい合わせないと。
しばらく待って花歩さんが眠ってから消灯しよう。
わたしが寝るのは、それからでいい。
明るい照明の光が降り注ぐ。逃げるように身を横向きにして、布団を頭までかぶった。
結界によって外の動きが感じられない明るい密室。目を開けて周囲を見渡せば、あの場所じゃないことは一目瞭然なのに。どうしても、閉じ込められていた鏡の塔を連想してしまう。
気を紛らわせようと寝返りを打つ。
眠れない。ひとり悶々と今日のことを考えた。
なぜ篤志さんは、須藤さんに協力したのだろう。赤兎班を裏切ってまで、彼が求めたものは何だったのか。
おそらくこの一件は、赤兎班だけの問題では終わらない。
花歩さんが監禁された場所は義父と縁があった。一連の騒動が奥園と無関係だとは、もう言い逃れできない。
わたしも、明日になればことの経緯を根掘り葉掘り聞かれるのだろう。
明将さんは、わたしが隠し事をしていることに気づいている。彼に追及されて、最後まで沈黙していられるか不安で、心苦しかった。
須藤さんのことを赤兎班にどこまで話していいのか、判断に困る。彼はわたしをあの塔に閉じ込めて、最終的にどうしたかったのか。
あの男の——ひいては義父の目的を考えると、わたしが無事だったことは、奥園側の計画を狂わせる結果に繋がってしまわないか……。
今になって焦りが芽生える。
わたしはここに、戻って来れてよかったの……?
義父の思惑から外れた行動をわたしがしてしまって、母は大丈夫なのか。
悩みは尽きない。不安が増幅して、良くないことばかり考えてしまう。
これから、どうなるのだろう。
明日、わたしはどんな顔で須藤さんに会えばいいの……?
目をきつく閉じると、目の前が真っ赤に染まった。
蟲に噛まれてできた腕の痣がじくじくと痛みだし、肩を丸めてじっと耐えた。
心臓に呼応して、主張と鎮静を繰り返しながら腕の痛みが広がっていく。
部屋の外に班員が待機しているなら、相談するべきか。でも、わたしのことで手を煩わせるのはためらわれた。
それに、痛みも我慢できないほど酷くない。明日まで待ってもいい気がする。
布団から顔を出すと、寝台にいる花歩さんから小さな寝息が聞こえてきた。
身を起こしてそっと花歩さんの様子を窺う。
横向きですやすやと眠る姿を確認し、音を立てないように慎重に立ち上がり、部屋の電気を消した。
部屋が暗くなる。不思議と痣の痛みが引いていった。そのことに安堵し、仰向けになって目を閉じる。
朝はまだ来ない。
真っ暗闇にいるのに、深淵の気配を感じられない。
部屋に張られた結界によって、闇に生きるみんなとの繋がりが切り離されてしまっている。
夜だというのに、みんなと一緒にいられない。これが普通の人の感覚なのだ。
ずっとわたしが感じていた闇の守りは、本来人が得ることのできない安心だったのだと、改めて実感する。
もうすぐわたしも、大人になってしまう。いずれ結界の中で過ごす今の状態が、当たり前になるのだ。
闇の世界が遠ざかった、ひとりぼっちの夜。
みんなのいない、この夜にも慣れないと……。
考え事をしているうちに、うつらうつらと体の力が抜けていった。疲労感が眠気を誘い、意識が遠ざかっていく……。
浅い眠りに身を任せていた、その時——。
「きゃああぁ—————っ!!」
突然聞こえた悲鳴に飛び起きる。
「花歩さんっ!?」
布団に膝をつき、恐怖に怯える花歩さんへと手を伸ばした。
「やめて! 来ないでっ!」
錯乱する彼女に手を叩かれた。
「花歩さん、落ち着いて……」
「いや、やめて……!」
泣き声に困り果てていると、玄関の扉が開く音がした。悲鳴を聞いた班員が部屋に立ち入り、照明を付ける。
花歩さんは寝台の上で背中を壁につけ、三角座りの状態で震えていた。
そんな彼女に、手を伸ばして迫ろうとするわたし。
誤解を生みかねない構図に血の気が引いた。
「何をしてるんだ!」
怒鳴った班員が大急ぎでわたしと花歩さんの間に入る。
「わたしはっ……っ、……何も……」
ただ、花歩さんが心配だっただけ。
「何もしていないのに彼女がこんなに怯えるはずがないだろう」
「ちがっ……、ほんと、に」
睨まれて、身がすくんで、うまく言葉が出てこない。
照明の白い明かりが眩しくて顔を上げられない。蟲に噛まれた腕が、また痛みだした。
頭が真っ白になる。胸の辺りがとても熱い。
「どうした」
明将さんが駆けつけた。
「ゃっ、……えっ? ……あっ」
花歩さんは次第に落ち着きを取り戻した。わたしや明将さん、班員の男性へと視線を彷徨わせ、しゅんと項垂れる。
「……ごめんなさい……。目が覚めたら真っ暗で……、明かりがついてるとばかり思ってたから……怖くて、叫んじゃった……」
花歩さんの言葉に、自分の失態を思い知る。
「わたしが……、明かりを消してしまったから……。ごめんなさい……」
彼女が夜中に起きるかもしれないって、簡単に想像できたはずなのに。そこまで頭が回らなかった。
……わたしはいつも、自分のことばっかり……。
警護で待機していたであろう赤兎班の男性の表情がみるみる険しくなる。
「なんで勝手にそんなことを」
「……暗くないと、休めなくて……」
「ならばなぜそれを先に言わない!」
「だって……」
言える状況じゃ、……なかった。
「はっ、見苦しい言い訳か」
……そうだ。こんなの言い訳でしかない。
「やめろ。朔に悪意があったわけじゃない」
「そんなもの、調べなければわからないだろう」
「花歩と朔の相性を見誤ったのは俺だ。怒りに任せて朔に鬱憤をぶつけるのはやめろっつってんだ」
男性は明将さんの言葉にも耳を貸さない。極度の疲労が彼の怒りを増幅させている。
開きっぱなしの玄関に、騒ぎを聞きつけた他の班員たちが集まってくる。
いい加減にしてくれと、皆の纏う空気が訴えていた。
どうしてだろう……。明将さんの声が、遠くに聞こえる。
まるで他人事みたい。
違う。……みたい、じゃない。
わたしにとって、赤兎班のことは他人事だ。
そして、赤兎班にとってわたしは……。
わたしは一体、彼らに何を期待していたのだろう。
頼ってもらえたのが嬉しくて。彼らの優しさに舞い上がって、重要なことを忘れていた。
赤兎班に貢献したつもりになって、思い上がって馬鹿みたい。
もとから余計なことは、しない方がよかったんだ。
わたしが動かなくても、あの倉庫から花歩さんは助けられた。きっと、啓斗さんも——。
頑張ったところで上手くいくはずがない。
当然だ。わたしの立ち位置は奥園で、どうあがいても赤兎班側にはなれない。
私はあの倉庫の、鏡だらけの塔の中で狂ってしまうのが正解だったんだ。
義父の望みも、きっとそこにあった。
そうなれば、赤兎班の人たちが中途半端なわたしに、こうして苛立つこともなかった。
怖がって、逃げちゃいけなかった。
いなくなるべきは、わたしだった。
腕の痛みが肩や手首へ広がっていく。
どくどくと心臓の鼓動がうるさくて、周りの人たちの声が聞こえない。
体が熱い。全身の血が沸騰しているみたいだ。
視界が真っ白に染まる。目をきつく閉じても、刺すような光からは逃れられない。
熱い。
痛い。
鼓動が鬱陶しい。
呼吸が煩わしい。
——眩しい……。
でも……助けてなんて、この人たちには言えない……。
自分がどうなっているのかわからない。
周囲の人の声は聞こえているのに、言葉として頭に入ってこない。
真っ白で何も見えない。
腕の痛みと、体の熱に意識が溶けていく。
誰かがわたしの名前を呼んでいる気がした。
必死に、何度も。
だけどそれが、誰の声なのかを考えている余裕がない。
光の洪水に自分の全てが流されてしまう。
……サク——。
音のない声とともに、光が消える。突如として訪れた闇が室内を覆った。
「——————っ!」
花歩さんの悲鳴が、どこか遠くに感じられた。
明将さんが花歩さんを守るように抱き寄せる。
部屋にいた赤兎班の人たちが、敵襲かと身構えている。
視覚や聴覚ではなく、頭に直接感じる情報を、わたしはぼんやりと俯瞰していた。
改めて、思う。
奥園なんて関係ない。
闇に怯え、敵と間違い、警戒する彼らとわたしでは、根本の部分で、最初から何もかもが違っていたのだ。
暗い暗い。
深い深い。
闇が部屋を染める。
先の見えない黒色の向こうに、慣れ親しんだ気配を見つけた。
————サク。
わたしはこの声を、この気配を知っている。
あちらの世界では存在そのものが大きすぎて、全体像をつかむことすらできない。彼の意思と同じ感覚がそこにある。
地上だと、彼の声はこんなにもはっきりと感じ取れるんだ。
「……ウミ……」
名前を呼ぶと、暗闇から手が差し出された。
——……朔。…………おいで——。
声に導かれる。
ウミの元へ、わたしは無我夢中で走った。
◇ ◇ ◇
漆黒が視界を奪ったその時、雪根は頬に微かな風を感じた。それは何かが横を通り抜けたような。またはこの場を走り去ったような、漠然とした感覚だった。
直後、部屋を覆った闇は晴れた。
「……朔?」
抱きしめた重みに呼びかけるも、彼女から反応が返ってくることはなかった。
*
そこから二週間が経過した。
赤兎班は未だに事後処理に追われ、奥園の尻尾を掴めずにいる。
あの夜、闇に包まれ意識を失った朔は、未だに目を覚まさない。
赤兎本部の一室にて。
点滴の管に繋がれた身体は、弱々しい心臓の鼓動と、最低限の呼吸を繰り返す。
蟲の毒は祓った。
もう、朔の体に異常はない。
それでも。
まるで地上を拒絶するかのように。
朔はずっと、眠り続けていた。
◇ ◇ ◇
◆ ◆ ◆
地上の光は届かない、黒が覆い尽くす世界。
深淵の遥か奥底で、深い闇が朔の魂を包み隠す。
見なくていい。
聞かなくていい。
お前を傷つけるものはここにない。
なんびとであろうと、あなたの眠りを妨げるのは許さない。
深淵の大いなる闇に抱かれて——。
……今はお休み。
◆ ◆ ◆
第1部.朔と赤い兎【完】
第2部に続きます。




