20.眩しすぎた夜(上)
聞きたくない。
見たくない。
ごめんなさい。
二度と優しさを求めたりしないから。
もう期待はしないから。
悪意も敵意も、もういらない。
どうすれば逃げられるの。
向けられる感情から、どうすれば自分を守れるの?
痛い。
苦しい。
…………眩しいよ……。
倉庫に穂高さんと柊さんが姿を現す。
「ぐっ、うぅっ」
わたしの横で蟷螂に乗り掛かられた篤志さんが身じろぐ。首元の肉を噛みちぎった蟷螂は、夢中で彼の血を啜っていた。瞬く間に蟷螂の腹部が回復していく。
柊さんが刀を抜いた。一閃で蟷螂の胸と腹の間を切り離す。なおも篤志さんを食らう蟷螂の頭に、穂高さんが無言で銃口を向けた。
穂高さんは表情なく、篤志さんの体ごと蟷螂を撃ち抜く。
銃声と痛々しいうめき声が倉庫内に反響する。
鼓膜を揺らす大きな音に柊さんが顔を顰めた。
穂高さんは眉ひとつ動かさず、冷徹な瞳で篤志さんを睨んでいた。
どろりと。透明な蟷螂は溶けて消えた。
「——朔っ」
明将さんが駆け寄ってくる。続いて宮城さんと雪根さんが倉庫に入ってきた。
雪根さんはわたしに気付くと、宮城さんを追い越してこちらに走った。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
立て続けに聞かれ、どうにか頷いて返す。
「……はい。……後ろに、花歩さんが……」
体をずらして、塔への入り口を示す。足がもつれて体勢を崩しかけ、明将さんが背中を支えてくれた。
雪根さんが入り口を広げ、倒れる花歩さんに近づく。
花歩さんの口元と首筋に手を当てた彼は立ち上がり、わたしたちに告げた。
「大丈夫。生きてるよ」
宮城さんは篤志さんの元へ足を進めた。
穂高さんと柊さんは宮城さんの斜め後ろに控え、三人は虫の息となった篤志さんを見下ろす。
「言い訳ぐらいは聞いてやる」
抑揚のない、どこか気だるげな声で宮城さんが言い放った。
仰向けに倒れた篤志さんは血を流しながら、虚ろな瞳で苦しそうに呼吸を繰り返す。
「……班長」
視線を宮城さんへ向けて、僅かに開いた口で篤志さんが言葉を紡ぐ。
「…………皇には、命をかけて守る価値が、あるんでしょうか……?」
投げかけられた疑問に、この場にいる誰もが反応を見せない。守護対象を否定されたと、憤る人もなく。反論ひとつ、返そうとしなかった。
ははっ……と。そんな中で宮城さんが力なく笑う。
「俺に聞くなよ」
投げやりな言葉に、つられて篤志さんも微かに肩を揺らした。
「…………ですよね。…………すみません……、手間を取らせました…………」
「……ああ。まったくだ」
宮城さんの前に出た穂高さんが、篤志さんの額に銃口を向ける。
雪根さんが慌てた様子で塔から出てきて、わたしと篤志さんたちの間に立った。
「見るな」
明将さんがわたしを抱き寄せる。大きな体が壁になり、視界を隠す。
ぱん、と。乾いた音が弾けた。
液体がじわじわと地面に広がる。
誰も何も喋らない。
「班長!」
銃声を聞きつけた赤兎班の人たちが集まる。
「鳳の本部に連絡して、蟲の駆除ができる班を寄越させろ。事前通達はしておいた。すぐに駆けつけるだろう」
てきぱきと指示を出す宮城さんに、班員たちが従って動く。
足元がふらふらして、上手く立っていられない。緊張で張り詰めた精神は、簡単に落ち着きそうになかった。
こちらに背を向けていた雪根さんが振り返る。身をかがめて視線を合わせ、彼はわたしの顔を窺う。
「大丈夫?」
雪根さんの声と表情に、嘘は感じられない。ずっと心配してくれていたのだと思う。
「……はい」
わたしは、無事だった。怪我も、……ない。
「……よかった……」
項垂れながら、彼はぽつりとこぼす。
状況が掴めず混乱しているわたしよりも、雪根さんの方が泣きそうだ。
「……んっ」
未だに燦々と照明の光が降り注ぐ塔の中から、小さな声がした。
気づいた赤兎班の一人が花歩さんへと急ぐ。
「花歩さんっ」
鏡の部屋の中央で、花歩さんは目をきつく閉じて煩わしそうに頭を振った。それでも逃れられない照明の光に、手で目を隠した。
「……えっ」
意識が戻った花歩さんは、眩しそうに目を細めながらぼんやりと周囲に視線を走らせた。
班員が身を起こそうとする花歩さんを支える。
「大丈夫ですか」
「あの……っ、……えっと、ここは……」
次第に意識がはっきりしてきたらしく、あわあわとうろたえ出した花歩さんはそばにいる班員に縋りついた。
「——っ、篤志さんが、うそっ、わたしを……っ!」
「もう大丈夫です。全部終わりました。花歩さんは、助かったんです」
取り乱す花歩さんを班員が宥める。
とにかく、彼女が無事でよかった。
「東郷と雪根は先にそこの二人を連れて本部に戻れ。ここにいても邪魔なだけだ」
宮城さんの指示に、明将さんが一歩前に出る。
「帰りは念のため、一組車を後ろに付けとけ。害虫駆除の専門が来たら俺たちも引き上げる」
宮城さんは動かなくなった篤志さんの傍らに膝をつく。宮城さんの指が篤志さんの額に触れると、指先に青い光が灯った。
瞬く間に篤志さんの遺体は青白い炎に包まれた。
「突っ立ってないでさっさと行け」
こちらを見ることなく、宮城さんがぞんざいに告げた。
明将さんに支えられ、倉庫を後にする。
外の空気は相変わらずどろどろとした不快さがあったけど、明将さんが近くに居てくれるので恐怖心は薄らいだ。
身の危険は感じない。その代わり、外に待機している班員の刺々しい視線に居た堪れなさが込み上げる。
なぜお前が無事なのかと、物言わずして訴えられている気がした。
沈黙に耐えきれず明将さんを見上げる。
「あの、啓斗さんは……」
「すでに見つけてある。心配しなくてもあいつは無事だよ」
わたしに答えを返したのは、花歩さんをおんぶして追いついてきた雪根さんだった。
今朝の言い合いが影響しているのか、言葉の端々に苛立ちが混ざっていた。
*
そこからすぐに、雪根さんの運転する車でわたしたち四人は赤兎の本部へと戻った。
道中は誰も話さず、車内の空気には皆の疲労感が充満していた。
本部に到着した。
廊下にかかった時計を見ると、まだ日付は変わっていなかった。夜明けが遠いことに安堵する。
他の班員が帰ってくる前にと明将さんにお風呂を勧められ、部屋で準備をして大浴場へ向かう。
誰もいない脱衣所で服を脱ぎ、浴室の壁にかかった散水機で汗を流し、体を洗う。泡立てた手拭いで肌を擦っている時に、二の腕の異常を見つけてしまった。
「……なに……、これ?」
蟲に噛まれた部分の皮膚が黒くなっている。牙が刺さった二つの点から、根っこのようにうねり、枝分かれした黒い模様が肌に浮き出ていた。
大きさは親指と人差し指をくっつけて作った丸程度で、そこまで目立つものではない。
血は出てないし、痛みもない。触れた感じに違和感はなかった。
だけど異形のものに噛まれた場所に浮かんだ痣は、やはり不気味だ。
誰かに相談した方がいい。
わかってはいるけど、このことを赤兎班に報告するのは気が重い。
悩みながらも手早く体と髪を洗い終えて脱衣所へ戻る。
体の水気を拭いている時に花歩さんが脱衣所に入ってきた。
「朔ちゃん」
わたしを見とめ、花歩さんはほっと胸を撫で下ろす。
「……ごめんなさい。さっき、アキから聞いたの。赤兎班の問題に、朔ちゃんを巻き込んでしまったみたいで……」
「いえ……、皆さんも大変だったでしょうし、花歩さんが謝ることじゃないと思います」
そもそもあの夜、部屋に来てくれた花歩さんをひとりで帰したのはわたしだ。何かがあると異常を察知していながら、我が身可愛さに沈黙を選んでしまった。
罪悪感に唇を噛んだ。本当に謝らなければいけないのは、わたしではないか。
着替えを済ませて脱衣所を出る。廊下では明将さんが壁にもたれて待機していた。花歩さんの護衛なのだろう。
「気分はどうだ」
「大丈夫です。ご心配、おかけしました」
自分の疲労を隠してわたしのことを気にかけてくれる。
そんな彼に、大丈夫以外の返事なんてできなかった。
「腹減ってるだろ。食堂に行けばおにぎりと軽食があるから、好きなもの持って行って食べたらいい」
「……いえ、食欲がないので、今日はもう休みます」
明将さんが眉を寄せて厳しい顔つきになる。
「お前、昼飯は食ったのか?」
「…………」
返答に困って目が泳ぐ。言葉を返せなくなったわたしに、明将さんは呆れた様子でため息をついた。
「……全く大丈夫じゃないだろ」
そう言われても。大丈夫じゃないのは、赤兎班の人たちだって同じはず。
わたしという異分子を迎えてのギスギスした生活の最中に、花歩さんが行方不明になり、さらには篤志さんの裏切り。
口に出さないだけで、彼らだって傷ついている。
明将さんにかける言葉が見つからず、廊下に立ち尽くす。
正面玄関がにわかに騒がしくなった。
赤兎班の人たちが帰還したのだ。一階の廊下に複数の足音が響いた。
人の動きが重々しい空気を建物内に運ぶ。
誰もが最低限の会話でしか声を発さず、粛々と帰還後の後始末に本部を駆け回る。
自分の場違いさが際立ち、逃げるように当てがわれた部屋へと戻ろうとした。
「朔、ひとつ頼まれてくれないか」
そんなわたしを明将さんが呼び止める。
立ち止まったわたしに、迷う様子を見せつつ彼は続けた。
「今夜、花歩と一緒に寝てやって欲しいんだ。無理なら断ってくれていい」
「花歩さんとですか?」
「ああ。……こんなことがあった後で、夜にひとりで眠るのが怖いらしい。かといって、俺を含め、男所帯の赤兎班の誰かが花歩の寝室で一夜を共にするのはさすがにまずいからな」
それは……。
わたしは赤兎班じゃない。奥園側の者だけど。
明将さんはわたしを、信用してくれていると思っていいの?
「それに、花歩の部屋には特別な結界が張ってある。本部で一番安全な場所だ。朔も、今晩はそこにいた方がいいだろう」
「……そんな場所にわたしがいても……?」
「正直そこにいてくれた方が俺は助かる。万が一の襲撃に備えて、部屋の前には俺たちが交代で待機するし、朔も二階にいてくれると警備がしやすい」
そこまで言われると、断る理由がない。
「わかりました」
小さく頷く。明将さんの表情が微かに和らいだ。
体を洗い終えた花歩さんが浴場から出てきた。今夜わたしが部屋にお邪魔することを告げると、心底安心したと喜んでくれた。
花歩さんと明将さん。
二人といると、少しだけ呼吸がしやすくなる。
肩の力が抜けたのもつかの間、すぐに緊張の檻に引き戻された。大浴場の前の廊下を、本部に戻った宮城さんと穂高さん、柊さんが通ったのだ。
どくどくと、心臓の鼓動が速くなる。息苦しさから軽い目眩がした。
芋虫の化け物に噛まれたことは、言っておいた方がいいのかな。
「あっ……、あのっ」
「あとにしろ。俺もお前に聞きたいことは山ほどある。明日には時間を取れるように調整するから、要件が緊急でなければその時だ」
早口で言われては、はいと頷くしかない。
宮城さんは穂高さんたちと行ってしまった。彼らはまだ、することがあるのだろう。
噛まれた箇所の痣は小さい。痛みとかもないから、急ぎで対処する必要はない気がする。
それに話をするのが明日になるなら、わたしも心の準備ができる。猶予を与えられて、これで良かったのだとしよう。
「朔」
正面玄関方面の廊下から雪根さんが小走りで駆けてくる。
「片付けはどうした?」
「ひとまず終わり」
明将さんの問いかけに短く返した雪根さんは、疲労を見せずに爽やかに微笑んだ。
「朔はお風呂上がり?」
「はい。お先でした」
「律、時間があるなら朔を部屋まで送ってやれ。俺と花歩は食堂に行ってくる」
雪根さんはきょとんとした顔で明将さんを見た後、視線をわたしに移す。
「朔は、夕飯どうするの?」
「わたしは……、食べられる気がしないので、今日はやめておきます」
目の前にある綺麗な顔の、眉間に皺が寄る。閉ざした口をへの字に曲げた、不満そうな雪根さん。どうしたらいいのか迷っていると、明将さんが助け舟を出してくれた。
「俺たちも食堂には長居しない。花歩の部屋に布団の準備ができたら呼びに行くから、悪いが朔はそれまで待っていてくれ」
「なに? どういうこと?」
「今晩、朔は花歩の部屋で寝る。その方が安全だろ」
雪根さんの表情がどんどん険しくなっていく。
「……朔は、それでいいの?」
それは一体、どういう意味があっての確認だろう。
「……何か、問題が……?」
「俺たちには何の問題もないよ。ただ、あの部屋の結界は、干渉を完全に遮断してしまうから……」
もごもごと口ごもっていた雪根さんだったけど、最終的には苦笑してなんでもないと首を横に振った。
「変なこと言ってごめん。花歩さんの部屋が安全なのは本当だから、朔がいいならそれでいいよ」
その後、明将さんと花歩さんとは一旦別れて、わたしは雪根さんと階段を上った。
「無理してない?」
「……いえ、そんなことは……」
「ひとりの方が休めるなら、断っていいんだよ」
さっきは戸惑ったけれど。
二人きりになって、彼の意図を冷静に汲み取ることができた。
一緒に歩く雪根さんの言葉には、思惑や狙いはない。ただ純粋に、わたしのことを心配してくれているんだ。
確かにわたしは、日の落ちている間はひとりでいる方が安心して休める。
注意を向ける対象が少ないほど、闇の世界の気配を強く感じられるし、外的刺激に意識を持っていかれることもなくなる。
今日一日、本当に疲れた。
でも、疲れているのはみんな同じ。
だから今夜は花歩さんの部屋にお邪魔しようと思う。
「大丈夫です。それに……」
明将さんや花歩さんに頼ってもらえた。だったらわたしも、彼らに応えたい。
「……信じてもらえたことが、嬉しかったので」
できることがあるならわたしも役に立ちたいって、ずっと前から思っていた。
三階について廊下を歩く。昨夜のような禍々しい空気はない。
「……そっか。わかった。……でも、苦しかったらちゃんと言わなきゃだめだよ」
「はい。心配をおかけして、……すみません」
本来この人たちは、わたしなんかに心を割いている場合ではないはずだ。
敵対している所から送られてきた観察対象に、どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。
嬉しく感じる反面、素直に優しさを享受できず、彼らの気遣いに疑念を浮かべる自分自身が嫌になる。
赤兎班の総意に反した雪根さんたちの言動には、何か裏があるのではないか。
考えたくないけど、可能性は最後まで捨てきれなかった。
「送っていただき、ありがとうございます」
「うん。じゃあ、もう行くね」
雪根さんとは玄関の前で別れた。部屋に入り、扉を閉める。
扉一枚隔てた先で、雪根さんはじっと動かない。彼が何をしたいのかわからなくて、真っ暗な玄関にわたしも立ち尽くす。
なんとなく、物音を立てるのがためらわれた。
「……心配、するよ。……心配ぐらい、させてよ……」
そんな呟きを残して、やがて彼の気配は遠ざかっていった。




