19.日の元の歪(下)
割れた電球が天井からぶら下がって揺れている。
よろよろと立ち上がる。自分の息づかいに、鏡のかけらを踏む音が混ざった。
あれほど強烈に感じた深淵の気配はなりを潜め、辺りには地上の夜の空気が漂っていた。
それでも、みんながあちらから見てくれているのは知っている。
守ってくれた。
助けてくれた。
「……ありがとう……」
虚空を見上げて呟き、心の中でごめんなさいと付け足した。
地上への干渉を厭うみんなに、ここまでのことをさせてしまった。
無力さに苛まれながらも、足に力を入れる。あとはわたしが、自力で頑張らないといけない。
密室だった場所に入り込んだ外気が、重苦しい気配を運んでくる。
破壊音を聞きつけた敵が駆けつけてくるかもしれない。ひとまずこの場を離れないと。
おぼつかない足取りで壁へと近づく。歪んだ壁にできた隙間を横向きになって通り抜け、塔から抜け出した。
蠢く気配を幾つも感じる。主に隣の倉庫からだ。
幸いにも、須藤さんの禍々しいあの感覚は察知できなかった。暗い時間に感じ取れないのだから、本当に近くにいないのだろう。
「……大丈夫。大丈夫だから……」
自分に言い聞かせ、一歩一歩。地面を踏みしめて歩く。移動が二足歩行であることに戸惑いが生じる。
花歩さんはどこにいるのだろう。啓斗さんは無事なのだろうか。
考えるべきことは沢山ある。
自分じゃない誰かの安否を心配して体の違和感から意識を逸らした。
物音に注意しながら倉庫の隅にある小さな扉をそっと開く。
不快な空気が夜の倉庫群を包んでいた。
背中に悪寒が走る。
草むらに目を凝らすと、異質な気配がそこかしこで点々と揺れるのを知覚した。
倉庫内だけじゃなく、外にも化け物が徘徊している。
幸いにも気配を強く感じるのは倉庫の奥側で、今はわたしの付近にはいない。
草で隠れるように身をかがめて、手前側にある建物を目指す。
あそこのどこかに、啓斗さんは運ばれた。探すなら、まずはそこからだ。
閉じ込められていた倉庫の大扉の前を通り、看板のかかった建物の玄関扉に辿り着く。
取っ手を回す。施錠はされていなかった。
扉をほんの少し開けて、入る前に深く息を吸い込み目を閉じた。もう一度周囲に意識を研ぎ澄ませる。
篤志さんのあの独特の眩しい光は、近くにない。
建物の中に動く存在はなさそうだけど……、煉瓦造りの倉庫の周囲に蠢く無数の気配に混ざって、別種の妖の気配を見つけてしまった。
どこだろう……? 倉庫か、それとも海辺の方からしているのか。べたつく嫌な感覚が邪魔をして、うまく探索できない。
そしてもうひとつ。
今入ろうとしている建物の中に、人がいるのも感じ取れた。おそらく啓斗さんだ。
人が発する弱々しい気配に、臭気を錯覚するものが覆い被さっている。
ドアノブを持つ手が震える。扉を開けて中に入るのをためらった。
……ここにも、いる。
取っ手を引いて隙間を広げ、屋内の様子を窺う。
下駄箱と受付台に挟まれた玄関のすぐ先には衝立が置かれ、外から奥が見えないようになっていた。
息を殺し、ゆっくりと足を踏み入れる。
感覚からして、人がいるのはすぐ近くだ。
おそらく衝立の後ろだろうと検討をつけ、足音を立てずに忍び寄る。
四角い石が敷かれた玄関を越えると、木製の床に変わった。
衝立に身を隠し建物内を覗いた。
広々とした空間にソファが二台。背の低い机を挟んで設置されている。
奥には階段と、いくつか部屋がありそうだ。
啓斗さんはすぐに見つかった。
手足を縛られたままソファの脚元に転がされていて、未だに意識がない。
慌てて駆け寄り、愕然とする。
仰向けになった啓斗さんの脇腹に、幼児の腕ぐらいの大きさをした透明な芋虫が一匹、服越しにかぶりついていた。
蟲は透明でぶよぶよしたふしくれをうねらせ、虹色に淡く輝いている。
芋虫の伸縮に合わせ、啓斗さんに噛み付いた口の部分から胴へと、肉体の中を黄色い光の線が走った。
噛まれている箇所に血は滲んでいない。
芋虫は、啓斗さんの光を食べているのだ。
啓斗さんの呼吸は荒い。時々苦しそうに歯を食いしばり、口からはうめき声が漏れた。
蟲が光を喰らう。啓斗さんの人としての気配がどんどん弱まっていく。
どうすればいいの。
化け物への対処法なんて知らない。それでもこのままではいけないってことだけは、わたしでもわかった。
ここに助けてくれる人はいない。
深く考えていたら手遅れになる。
意を決して芋虫の頭部を掴み、力いっぱい蟲を啓斗さんから引き剥がした。
牙が肉を抜ける感触がして、芋虫が離れる。
「———————————!!」
耳をつんざくけたたましい奇声。手に持った蟲が鳴き叫ぶ。
尾を左右に振り回し、わたしの手から逃れようと暴れ回った。
慌てて室内を探る。
置物や、灰皿とか……、これを潰せる物はないか。
そもそもこれは物理的に殺せるものなのか。
だめだ。迷っていてはいけない。
とにかく試してみないと。
家具はソファと机だけ。めぼしい物は置いていない。
奥の部屋に探しに行こうとしたその時、外の空気が変わった。
草をかき分ける、どろどろした、何か——。
いけない。
わたしの持つ芋虫なんかよりも遥かに大きなものが、近づいてきている。
「——————っ」
とにかく鳴き続ける芋虫を静かにさせないと。咄嗟に芋虫の頭部を自分の腕に押し付けた。
服を超えて、腕の肉に鋭い牙が刺さる。
「……ぁっ、…………ぁぁ」
体から熱が奪われるのをはっきりと感じ、寒気がした。
怖い。でも、叫び声はなくなった。
とにかく、今はこの場を乗り切ることを考えよう。
ソファを覆う布を引き剥がし、啓斗さんにかけて彼の身を隠す。
蟲に腕を食らわせたまま衝立の裏に隠れて、外から来る何かを待った。
カサカサ。
…………カサカサ……。
気配と物音に合わせて、隠れる位置を変えた。
それは玄関ではなく、倉庫側の壁にいるみたいだった。
受付台の裏に身を潜め、敵がいるであろう壁をこっそり窺う。
窓に昆虫の脚のようなものが下から這い出て、ガラスに当たった。二本の触覚が生えた逆三角頭が、ぬっと姿を現す。
芋虫と同じで虹色に光る透明な肉体をした、ありえない大きさの蟷螂が、窓から建物の中を覗いている。
驚愕して隠れるのが遅れた。窓ガラス越しに蟷螂と目が合う。
しまった!
さっと血の気が失せた。しかしわたしの予想に反し、蟷螂はこちらに見向きもせず窓から遠ざかっていった。
しばらくじっとして様子を見る。外壁に沿って建物を巡回している気配はあるが、どうやら中には入ってこないようだ。
ほっと胸を撫で下ろす。安心すると、芋虫の食い込んでいる腕がじくじくといたんだ。
そうだった。これをどうにかしないと。
口元が留守になると叫び出して、他の脅威を誘き寄せてしまう。常に食らいつかせておかなければならないとは、非常に厄介だ。
これ以上、啓斗さんの光を無くすわけにはいかない。だったらわたしが、餌になるしかない。
わたしは性質が闇に傾いているから、少しだったら光を失っても大丈夫。……だいじょうぶ、だと思う。
事態の好転を頭の中で思い描き、折れそうな心を奮い立たせる。
……もう。なんてわたしは打算的なんだろう。
啓斗さんの敵意に満ちた目、警戒心をむき出しにした態度が今日をきっかけにして、少しは和らいだらいいなって、こんな時に望んでしまっている。
「……もし、わたしがみなさんの役に立ったら、少しは見直してくれますか?」
雪根さんとも、仲直りしてほしい。
当然ながら、返事はない。彼の意識がなくてよかった。答えなんて、聞けるわけがない。
啓斗さんの手足を縛る縄を解き、外からは見えないように布をかけ直す。
腕が痛む。噛まれた左腕が、手の先から痺れてきた。
体の内側が冷えていく気もするが、さっき塔の中で味わった燃えるような熱さに比べたら気にならない程度だ。
近くにあの蟷螂がいないことを確認し、外に出た。
建物と倉庫の間へ、腕に食らいついていた芋虫を引き剥がして投げた。すぐに建物に戻って扉を閉める。
「——————!」
芋虫が叫ぶ。
息を殺して待っていると、扉の壁一枚隔てた向こうに、ガサガサと草をかき分けて蟷螂が戻ってきた。
芋虫の喚きが消えたのを見計らい建物を出て倉庫へと走る。
通り過ぎる一瞬、建物の間を横目で見た。大きな蟷螂の化け物が、身をかがめて芋虫を食べていた。
……早く。花歩さんを、探さないと。
夜だというのにそこかしこにある異質な気配に邪魔されて、花歩さんや篤志さんの位置が探れない。
そんな状態でも蟲のどろどろにかき消されず、近辺に潜む妖の存在は知覚できている。
啓斗さんの弱々しい気配も、近くに行けばわかった。ならば花歩さんの暖かい気配だって、わたしなら感じ取れるはず。
それなのに……、未だにわたしは花歩さんの痕跡ひとつ見つけられない。——おそらく、これが答えだ。
篤志さんと須藤さんが、本当に花歩さんをここに連れて来ているならば、居場所に心当たりがある。
一番手前にある倉庫の前を走り抜け、さっきまでわたしがいた、三つの塔が並ぶ倉庫へと入った。
わたしの閉じ込められていた塔は壊れてしまったけど、残る二つのうちのどちらかに、おそらく花歩さんはいる。
違っていたらもう……、諦めるしかない。
昨夜赤兎の本部で行方不明になった花歩さんは、いつここに連れてこられたのだろう。推理が当たっていた場合、塔に入れられてから、どれだけの時間が経過しているのだろうか。全く検討がつかなかった。
夕方から夜にかけて、半日に満たない時間でも、わたしは気が狂いそうになった。
花歩さんが閉じ込められているなら、一秒でも早く出してあげないと。
ひとつ目の塔。壁の窪みに両手を入れて、力一杯横に引く。中身は空だった。
最後に残された中央の塔へと急ぐ。再び窪みに手を掛ける。
体重を乗せて引っ張れば、隣の壁に重なるようにじわじわと窪みのある壁がずれていく。
僅かにできた隙間から、外に向けて線状の光が漏れ出た。
稼働している!
さらに力を入れて、人が通れる幅ができるまで壁を動かした。
合わせ鏡によって天井の光が無限に反射する密室に、花歩さんはいた。
鏡の床に倒れ、真っ白な電球の光に容赦なく照らされている。
「花歩さんっ」
駆け寄り肩を揺すった。花歩さんから反応はない。見たところ外傷はなさそうだけど、汗がひどい。熱射病とか、脱水症状を起こしてなければいいんだけど。
水を飲ませてあげるか、身体を冷やすか。処置をするにしてもこの中にいるのは良くない。
どうしよう。
花歩さんを探すことばかり夢中になって、この先どうするべきか考えていなかった。
現在地がどこかもわかっていない。周囲は敵だらけ。
大人しく赤兎班の人たちを待つのが最善なのだろうけど……、果たしてそれはいつになるのか。
手前の建物に残してきた啓斗さんも心配だ。
あれこれ考えても埒があかない。
今は出来ることをひとつずつこなそう。
まずは花歩さんをここから出して、次のことはそれからだ。
横たわる彼女の両脇に手を差し込み、出口へと引きずる。
わたし自身も疲れが出始めていて、花歩さんの上体を持ち上げるのも一苦労だった。
狭い歩幅で後ろ向きにちまちまと進んでいると、倉庫内に大きな音が響いた。ぱきぱきと、屋根が軋む。
花歩さんを置いて塔を出た。息を殺して様子を窺う。
金属に衝撃が加わる鈍い音は、一度で終わらなかった。
倉庫の大扉に外側から何かが体当たりしている。
感覚からして、これは蟲ではなく妖だと思う。
倉庫内の空気が震え、天井の梁から埃が落ちる。
妖は両開きの大扉の、ちょうど中央を狙って体当たりしていた。
次第に金属製の大扉がへこんでひしゃげ、空いた穴から獣の突き出た鼻が見えた。
妖の体当たりはなおも続く。
左右に牙を生やした中型犬ぐらいの大きさの、猪の妖だ。あの体躯のどこに、分厚い金属を捻じ曲げる力があるのだろう。
猪の妖は大扉の開き口が歪んでできた穴に身体を押し込み、頭を左右に振ってじわじわと倉庫内へと侵入してくる。
どうしよう。
塔の中くらいしか、ここに逃げ場はない。
でも、塔は内側から閉められない。
花歩さんを守るためには、わたしが塔の扉を塞がないと——!
自分のことを考えている余裕はない。
壁の窪みに手をかけて、もう一度塔を閉ざすために力を入れた。
重い。なかなか壁が動いてくれない。
体重をかけて踏ん張って、ようやくほんの少し動く壁に焦りが増幅する。
どさりと。
音がして大扉を見ると、空いた穴から倉庫へと侵入を果たした猪が、前脚で地面を叩いていた。
手が震えてうまく力が入らない。
完全に閉めるのは、もう間に合わない。
人の拳ひとつ分の隙間を残し、わたしは塔の前でうずくまった。
異質な気配が混ざり合う。気持ち悪さに吐き気が込み上げた。
見なくてもわかる。腐臭を錯覚する、蟲の強烈な気配。
猪の妖が開けた穴から、さっきの蟷螂が身を乗り出して倉庫内を覗いている。
突進してくる猪に、蟷螂の化け物が背後から襲いかかった。
蟷螂は後ろの四本の脚で獣に乗りかかる。そして鎌の形の前脚で獣の体を押さえつけ、喉元に食いついた。
痛みと死の恐怖。猪の悲痛な断末魔が頭に響く。
わたしの目と鼻の先で、巨大な蟷螂が猪を捕食する。猪は後ろ足をぴくぴくと蹴り上げていたが、やがて動かなくなった。
「……っ」
蟷螂が食事の途中で顔を上げ、わたしへと目を向けてきた。息を飲んで身構える。
しかし蟷螂はこちらに興味を示さず、再び猪の肉を貪った。
「ぁっ……」
——もしかして……。ひとつの仮説が頭に浮かんだ。
食事中の蟷螂を刺激しないようゆっくりと立ち上がる。
花歩さんがいる塔の壁にある、拳ひとつ分の隙間を背中に隠し、自分の心臓部分を両手で抑えた。
獣の姿をした妖は闇を求めて襲ってくる。深淵から落ちた闇の子たちを、これまでに何度も狙ってきた。
反対に、透明な蟲の化け物は、光の属性を捕食対象としているのでは——?
推測が当たっていたら、わたしが襲われることはない。この蟲にとって食指が動くほどの光は、この身にないから。
先ほどといい、今といい、見逃されている理由がそれ以外に考えられなかった。
猪の首の肉をえぐり、皮の中に顔を突っ込み内蔵に食らいついていた蟷螂の動きが止まる。やがて獣から顔を引き抜き、うろうろと倉庫内を徘徊し出した。
音を立ててはいけない。ここを動いてはいけない。
半開きになった塔の中、わたしの後ろには強い光の属性を持つ花歩さんがいる。
塔の扉を開いてしまったのはわたしだ。
わたしが壁になって、花歩さんを隠さないと。
カッカッ……。
カッ……。
混凝土の床に蟲の硬い足音が響く。
蟷螂は倉庫の壁際を一周回り、わたしの前へとやってきた。
どくどく、と。胸に当てた手に感じる心臓の鼓動が早くなる。
シャボン玉のような虹色が揺れ動く。透明で大きな蟷螂が逆三角の頭を右に左にと動かして、わたしの後ろを覗き込もうとしていた。
早く、早く立ち去って……!
「うっ…………、んぅ……」
息を止めて立ち尽くす後ろから、鼻に抜ける声が聞こえてきて喉の奥に力が入った。
だめっ、今は起きちゃいけない!
蟷螂は声に反応した。鎌状の前脚を持ち上げてぴんと頭と胸部を立て、明らかに塔の内部を気にしている。
後ろ脚だけで立つと、蟷螂はわたしの胸ぐらいの身長になった。
目の前の鎌を振り下ろされたら、わたしなんてすぐに肉塊に変わってしまう。
歯を食いしばって耐え難い恐怖と戦った。
数秒間、蟷螂と顔を突き合わせた状態で動けないでいると、隙間風が外の空気を運んできた。
蟷螂がさっとわたしの前を離れる。
遠くから微かに車の音が聞こえる。それも一台じゃない。
車が赤兎班のものなら、助かるかもしれない。
次第にはっきりしてくるエンジンの音に、安心して胸に当てていた手を下ろす。
ほっと気が抜けたその時——、強烈な妖の気配を感じ取った。
びくりと肩が大きく跳ねる。
車の音はまだ遠い。そう思うと、知らず知らずに涙が溢れた。
妖はきっと、闇に傾いたわたしを狙ってくる。
もう少しなのに。わたしは赤兎班の到着を待たずに襲われて、食べられてしまうのかな……?
妖が徐々に近づいているのは、気配でわかった。恐怖で頭が真っ白になる。
無情にも倉庫の端の小扉がゆっくりと開かれた。
そして、篤志さんが入ってきた。
「……どうして?」
視覚と、感覚の情報が一致しない。
窓から入る月明かりに照らされた、人のカタチ。刺さるような眩しさは、篤志さんの気配で間違っていないはずなのに。
どうしてわたしは、彼を妖だと認識してしまうの……?
倉庫内に踏み込んだ篤志さんはわたしに目を留め、歩み寄る。
塔の内側から漏れ出た光が、彼の姿を鮮明にした。
血走った瞳と、骨格が変形しかかった顔。長く鋭利な爪——。
部分的な異常さが際立った彼の身体を目の当たりにし、出かかった悲鳴を手で抑えた。
「……ああ、無事だったんだ」
篤志さんは喋りにくそうに口を動かす。
自身の身体のことなど気にも留めず、わたしと花歩さんのいる塔に視線をよこした。
「君も花歩ちゃんも、悪運が強いね」
言いながら、彼はわたしの前に立つ。
「どいて。赤兎にとって君は価値がないからね」
それは、花歩さんを赤兎班との取引に使うということ?
「……どけません」
できるだけ長く会話を続けよう。わたしには、それしかできない。
あと少し時間を稼げば、誰かが駆けつけてくれる。
「俺のしていることは、少なからず君にとっても理があると思うんだけど」
ため息を吐いた篤志さんが冷たく言い放つ。彼はまるでゴミを見るような目で、横に転がる妖の亡骸を見下ろした。
「あれがいなくなれば、深淵の破片が食い殺される心配はなくなる」
「……だから、蟲の化け物を、容認しろと……?」
篤志さんは応えない。
「……今のあなたは……、どちらかというと……」
……妖寄りの、何かだ。
彼の反応が怖くて断言できなかった。
「……俺だけ?」
にぃ……と。篤志さんは犬歯をむき出しにして笑う。
「想像以上に、朔ちゃんは鈍いね。期待外れだ——っ!?」
突如天井に張り付いていた蟷螂が羽音を立てて篤志さんに飛びかかった。
蟷螂は篤志さんを獲物とみなし、驚き体勢を崩した彼に馬乗りになる。しかしいくら巨大とはいえ、成人男性の動きを封じるには、蟷螂は小さすぎた。
篤志さんが鋭く尖った爪で蟷螂の腹部を裂く。周囲に漂う腐臭が増した。
なおも動く蟷螂は、篤志さんの肩に鎌状の前脚を突き刺し、彼の首元に噛み付いた。
肉が食いちぎられる。
凄惨な物音を、無数のエンジンの重低音がかき消した。
大きなざわめきとともに勢いよく、倉庫の小扉が開かれた。




