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18.日の元の歪(上)





ハッピーバースデー、朔ちゃん。








車は海沿いの道路を走り、街を遠く離れていく。日が傾く頃になって、道の外れにぽつんと人工物が見えてきた。


海と山に挟まれた場所にひっそりと建つ、煉瓦造りの倉庫群。放置されて久しいのか、倉庫の外壁には蔦が這い、周囲は腰の高さまでのびた雑草に覆われていた。


縦長の倉庫が十棟ほど並ぶ手前に、二階建ての四角い建築物があった。倉庫と横並びになっているから小さく見えるも、一戸建ての民家よりもかなり大きい。


建物の外壁には、「玉乃江物流倉庫」と書かれた古い看板が掲げられていた。


車はその前で停まる。



「降りて」



篤志さんの端的な指示。

言われた通りに、動くことができなかった。


海から来る風で多少は薄らいでいるけれど、この場所全体の空気はどろどろに歪んでいる。

赤兎の本部を襲撃したのと同じ、蟲の化け物の気配が倉庫の中でいくつも蠢いているのがはっきりと感じ取れた。



「ここは……だめですっ」



危険すぎる。人が立ち入っていい場所じゃない。



「あー……、もう——」



篤志さんが、ゆっくりと振り返る。彼の目は座っていて、普段の明るくて親しみやすい雰囲気は微塵もなかった。



「早くしないと、花歩ちゃんか啓斗か……。君のせいで人が死ぬよ?」



苛立ちの混ざった声色で告げられる。


目を見開き息を飲んだわたしの耳に、こんこんと。すぐ横から窓を小突く音が聞こえた。

はっとして視線を向ける。車の外には、須藤さんが立っていた。



「やあ、朔ちゃん。さっきぶり」



恐る恐る車を降りたわたしに、須藤さんは朗らかに笑いかける。

驚きはない。なんとなく、そんな気はしていた。

わたしに続いて運転席から外に出た篤志さんが荒々しく扉を閉めた。



「君も、ご苦労様」



須藤さんの労いを無視し、篤志さんは俯き気味に指で眉間を強く揉んだ。

なんだか様子がおかしい。彼の額には、玉のような汗が滲んでいた。



「苦しいなら、食べればいいのに。ちょうどバランスを取れるいい食材が、目の前にあるんだから」



須藤さんはわたしを見て片目をつむった。



食材……? それはわたしのことなの……?



篤志さんはこちらを見ようとしない。天を仰いで汗を拭い、彼は車の後方へと移動した。



「……そこまでして長らえたいとは思わない」



吐き捨てられた言葉に須藤さんがきょとんと目を丸くする。



「牛も鳥も、君たちは生きるために食べるってのに、この子は駄目なんだ。やっぱりここで生きる民の価値観は変わってるねえ」



車の後方部分に鍵を差し込み、篤志さんが荷室を開く。荷室の中で膝を曲げて横向けになっていた啓斗さんを肩に担いだ。


啓斗さんは手足を縛られ目隠しをされ、さらには口に布を噛まされた状態だった。意識を失っているのだろう。彼はぐったりとして動く気配がない。

暴行の痕なのか、片方の頬が青紫に変色しているのが痛々しい。


わたしと須藤さんに目もくれず、篤志さんは啓斗さんを担いで近くの建物へと入って行った。



「朔ちゃんはこっちだよ」



手招きをする須藤さんに、ためらいながらも従う。



「ここはね、現在の奥園当主の実家が経営していた倉庫なんだよ」



横一列に並ぶ倉庫を示しながら、彼は楽しそうにくるりと振り返る。



「君のお義父さんは、奥園家の婿入りだったって知ってた?」


「……いいえ」



知らない。というよりも、興味がなかった。



「当代の奥園家当主、礼司の旧姓は玉乃江(たまのえ)。奥園系列の会社の社長令息だったんだよ。それが前奥園当主である留美香の母親と、大恋愛の末に結ばれ、晴れて奥園の仲間入りを果たした」



お義父さんの前の伴侶ね。と付け足され、母を思うと胸が苦しくなった。



「礼司は婿として奥園家に入ったのだけど、妻であった先代当主が急死したことによって、急遽次の当主に抜擢された。礼司が当主になることについては分家がいろいろとうるさかったけど。最後は留美香が成人するまでの中継ぎの当主という形にして、反対者を納得させたんだ」



それを聞いて、樋渡さんと話した日のことを思い出した。奥園を取り戻さなければならないと言った彼の言葉は、ここに繋がるのか。



「なぜ、わたしにそれを……?」


「俺なりの優しさだよ。いつまでも何も知らない部外者のままじゃ可哀想でしょ」



須藤さんとわたしは手前から数えて二つ目の倉庫に近づいていく。



「玉乃江はね、外つ国から輸入された物を一時保管する倉庫の管理会社だったんだ。礼司がいなくなったのと、奥園の方針転換によって保管倉庫が別の場所に移されて廃業したけど」



正面の大扉を通り過ぎ、壁の端に設けられた小さな扉に須藤さんは手をかける。鍵は空いていたらしく、軋む音を立てながらも扉は簡単に開かれた。


どうぞ、と入るように促されても、そこかしこから異質な気配を感じて踏み出すことができない。



「相変わらず怖がりだね。大丈夫だよ。いろいろいるのは隣の方で、こっちでは飼ってないから」



彼はわたしの肩を抱き、紳士的に、しかし有無を言わせず中へと誘った。


倉庫の内部は薄暗く、天井や壁に等間隔で設置された窓から夕暮れの微かな光が差し込んでいた。

天井の高いがらんとした空間に、三角錐の屋根をした、塔なのか小屋なのかわからない不思議なものを見つけた。それも三つ、縦長の倉庫に一列に設置されている。

塔の直径は大人二人分の身長ぐらいか。壁は真っ白で、なんの素材でできているかわたしでは判別できない。



「おいで」



白い塔のひとつへと案内される。彼が塔の側面にある窪みに手をかけて強く引くと、壁がずれて人がひとり通れるだけの隙間が開いた。



「この中はこわーい蟲も襲ってこれない。ここにいたら、そのうちウサギさんが来てくれるよ」



閉じ込められると知っていながら、素直に入れるはずがない。

隙間から見える塔の中は、全面が鏡張りになっているだけの空間だった。



「……ここで、何が起こるんですか……?」


「何も。朔ちゃんはただ、赤兎の救助を待っていればいい」



何もない、なんてありえない。こんな場所に連れてこられた時点で、必ず狙いがあるはずだ。


赤兎班を誘き寄せたいなら、花歩さん一人で事足りる。わたしに人質の価値はない。


どんなに考えても、わたしをここに連れてきた狙いがわからない。

わからないから、なおさら怖い。

立ち尽くして動けないでいるわたしに、須藤さんがにやりと笑う。



「入らないなんて選択、朔ちゃんには出来ないよね?」



血の気が下がった。

電話口で聞いた母の声が、何度も頭の中で再生される。怖くても、言われた通りにするしかない。


震える足を叱咤して、塔の中へと踏み入れる。多角形の壁全てに隙間なく鏡がはめ込まれた内部は、床も一面大きな鏡になっていた。



「君が何になるのか、とても楽しみだよ」



背後の声に慌てて振り返る。止める間もなくわたしの通った隙間は閉ざされ、出口を完全に失った。


刹那、密室の真っ暗闇を掻き消す強い光が頭上から降り注いだ。

目を開けていられない真っ白な光に、腕で顔を隠す。そこから時間をかけて目を慣らした。

どうやら天井の頂につけられた照明が白く光っているようだ。



天上も、床も、四方八方の壁も全てを鏡で囲まれた空間。

正面を見れば、不安げな自分と目が合って落ち着かない。合わせ鏡になって、戸惑うわたしの姿が延々と繰り返されている。


果てのない空間だと錯覚しそうだけど、対角線上にある壁までは数歩で移動できた。広さは外から見た時の印象と一致する。

 

光源の電球が熱を持っているからか、密室はとても蒸し暑かった。

じっとしていられず、須藤さんが開けた部分の鏡を強く押してみた。案の定、出口はぴくりとも開かない。

こうなると自力での脱出は不可能だ。早々に諦めて鏡にもたれ座り込んだ。


眩しさに気が滅入る。膝の間に顔をうずめて目を閉じて、ただ静かに時が過ぎるのを待った。





ここに居続ければ、何が起こるのか。わたしはいつまで待てばいいのか。

終わりの見えない拘束は著しく神経を消耗させた。


無音の密室でどれだけ過ごしただろう。時間の感覚が曖昧だ。


気を紛らわせるために、スカートに入れていた生徒手帳の校内規則を読みもした。しかし紙の白色に光の反射が眩しすぎて、途中で断念せざるをえなかった。


正確な時刻を知るすべはないけど、日はとっくに落ちていると思う。

しかしここは光が強すぎて、闇の世界の気配を感じられなかった。それどころか外がどうなっているのか、近くに誰かがいるのかすら、塔の中からは探ることができない。


顔を上げると、三角座りをしたわたしの憔悴しきった表情が鏡に映った。

目を閉じても、電球の光が瞼を通して明るさを伝えてくる。


眩しくて休めない。

切実に、陰が欲しい。

深淵のみんなが恋しい……。


小さな影を求め、両腕で顔を隠して蹲る。

そのままじっとしていると、次第に体の感覚が研ぎ澄まされた。


着ている服の質感。

どくどくと脈打つ心臓。

吸って吐いて。呼吸に合わせて上下する胸部。


特に意識せずとも、休みなく動き続けるこの体。


生命活動が煩わしく思えてはっとした。

思考がまともじゃなくなってきている。

このままじゃいけない。


ずっと同じ座り方をしていたので、お尻が痛くなってきた。体もだるい。

体勢を変えるため床に両膝と両手を付き、四つん這いになる。


気持ちを切り替えようと頭を振った時、頬に、何かが触れた。


咄嗟に手を顔の横に持っていく。

側頭部から、びろんと垂れ下がるものに手が触れた。



「……っ」



これは……?


突然の変化に戸惑いながら、前を見る。

そして、理解し難い現象を目の当たりにし、体が硬直した。


何が起こっている。


どういう仕掛けなの?


なぜ、こんなことが——?


目の前の壁。

光を反射して、物体のあるがままを映す鏡。そこには、垂れ耳の、兎に似た形をした、茶色い毛に覆われた大きな獣がいた。



「————っ!?」



全身の汗が吹き出す。

心臓がどくどくと脈打ち、呼吸が速くなる。


落ち着け。落ち着け。……と。何度も自分に言い聞かせた。


鏡だと思い込んでいた壁は、実は別の何かだった。

だから、目の前に映っているのはわたしじゃない。


これは、罠だ。

動揺と混乱を招くために仕組まれたのだ。


言い訳じみた思考を必死になって組み立てる。

その間、わたしは正面にいる獣から目を逸らすことができなかった。


鏡が偽物だと思うなら、肉眼で自分を確認するべきだろう。

簡単だ。少し顔を下に向けるか、自分の手を顔の前に持ってくればいい。

頭では理解していても、たったそれだけの動作が、怖くてできない。


全身に勢いよく血が巡る。体が熱い。心臓がうるさい。


見てはいけない。知ってはいけない。


だけど怖いものほど見たくなる。人の性さがをこれほど憎んだことが未だかつてあっただろうか。

駄目だと理性が警鐘を鳴らしているにも関わらず、わたしはゆっくりと視線を下へ移した。


脚元の、床に付いたわたしの手があるはずの場所に、短い毛に覆われた獣の前脚がふたつ。



鏡張りの床に、垂れ耳の獣が至近距離で覗き込む。



ぷつりと。


わたしの中で。


線が切れた。



「——————っ!!」



目の前が真っ白になり、全身の血が沸騰したみたいに体内が発熱する。


熱さと痛みに床をのたうつ。

きつく目を閉じても光が消えない。

声にならない悲鳴をあげて、必死になってここにない闇を求めた。



助けて。


……くらいの……かえして。



…………ユウ、……ウミ…………、みん、な……。






……。


……さ……、く。



…………————朔!!





音じゃない。


声じゃない。


でも、苦痛にもだえる最中にはっきりと、名前を呼ばれた。


次の瞬間、頭上でガラスが弾けた。

大きな破壊音に頭を抱えてうずくまる。


容赦なく照りつけていた光が消えた。


密室で闇が膨張していく。今度は周囲の鏡が割れた。


ぱらぱらと、すぐ近くに鋭利な破片が落ちてくる。

しばらくの間、身動きが取れなかった。


やがて辺りがしんと静まり返り、恐々と顔を上げる。

周囲は鏡のかけらが飛び散り、塔の壁はひしゃげて歪んでいた。隙間より窺える倉庫の中は暗く、窓から差し込む僅かな月明かりが薄らと物の輪郭をかたどっていた。


荒い呼吸を繰り返しながら、自身の手のひらを顔の前に持っていく。

黒い影となって見える手の輪郭は、五本の指がある人のものだ。


どくどくと、心臓の鼓動は感じられるが、さっきみたいな煩わしさは消えている。ただ、生きていることを実感するだけだ。



「……今のは?」



あの獣は、いったい……。






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