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14.静と動の代償(上)





がんじがらめで動けない。










真っ暗闇にひとり佇む。


肉体の枷が取り払われたおかげで自分がとても軽い。

ここでは心に刃を突き立てられる心配がない。傷つくことのない、優しい世界。


ニャア……と。足元で猫の影が小さく鳴いた。

しゃがんで子猫を持ち上げ、力いっぱい抱きしめる。


まさか来れるとは思ってなかった。


少しでもみんなを近くに感じていたくて、最近はずっと眠れない日々が続いていた。

眠ってしまうとすぐに朝が来て、また一日が始まってしまうから。


夜が明けることに怯えながら、布団の中でうずくまっていた。


誰かがわたしを導いてくれたのか、それとも自分の意思で辿り着けたのか。わからないけれど、わたしは今、闇の世界にいる。


腕の中におさまるミィをひとしきり撫でて周囲を見渡す。


ミィの他に気配は感じない。みんな穴の修復で忙しいのかな……。



「ミィたちは、神様なの?」



御社へ行って知った事実を本人に聞いてみた。

ミィはきょとんとして、わたしの首元に額を押し付けてきた。


この闇の世界——深淵が、天上と対になる世界だとして。

闇の中で生きるミィはわたしたち地上の民からすれば、神様と崇めるべき存在のはずなのだけど。

この甘え上手な猫の神様は、なんて可愛いのだろう。


ミィと直接触れ合えることが嬉しくて、感情が溢れ出す。

肉体はないから涙は出ないけど……、わたしは確かに泣いていた。






闇が好き。

真っ黒な世界が愛おしい。


ここには音の洪水も、目が眩む光もない。

誰かの悪意に心を削られることだってないのだ。

自分の立場すら、考えなくていい。


奥園だ、赤兎班だなんて。

そんなの、わたしにはどうにもならない権力闘争じゃない。


義父も宮城さんも。みんな自分たちに都合のいいことしか話そうとしない。

そんな断片的な情報でわたしに何を察しろと。


苦しい。

赤兎の班員たちに向けられる敵意が痛い。

学校で同級生たちがぶつけてくる嘲りが辛い。


やっと。

幸運にも辿り着くことができた闇の世界で。

あと何回ここに来られるかもわからない、大切な場所で。


わたしは恨み言ばかり考えてしまう。


そんな自分が一番嫌いだった。



ミィを抱きしめてうずくまる。

こうしているうちにも夜の時間は過ぎていく。


太陽が登れば、わたしはここにいられない。


もぞもぞと動いたミィが腕の中から抜け出す。

軽く跳んで前に着地した子猫の影が形を変える。

猫耳を生やした男の人の影が、しゃがんでわたしと視線を合わせた。

こてんと首を傾げた人型のミィは、猫耳をぴくぴくと動かしながら言った。



「別に、帰らなくてもいいんじゃないの?」


「……えっ」


「そんなわけあるか」



どこからか現れたユウが、ミィの頭を踏んづけた。



「選択の時期はもうとっくに過ぎてんだ。地上の生き物は肉体との繋がりを絶って長くは生きられねえんだよバカ猫が」


「ユ、……ユウ。それは、ちょっと」



ミィの頭に足を置いたまま、ユウは言い放った。

わたしが止めに入るより先に、不満そうに唸ったミィは再び猫の姿になる。

子猫は踏みつけられていた足をすり抜けてユウに威嚇し、わたしの足元に避難してきた。


甘えるように擦り寄る子猫に仕方ないなあと苦笑しながら、ミィを抱え直して立ち上がる。


ユウの言ったことは正しい。

人は肉体を捨てて、闇の世界に長く留まれない。


ずっと昔に、わたしは地上を選んだ。

眩しくて騒がしい世界でも、母が待っていてくれるから。

たったひとつの理由で、人として生きようと決めたんだ。


幼いころの選択を、今になって悔やんではいけない。


それでも最近は度々考えてしまう。

あの時わたしが、闇の世界で生きる道を選んでいたなら、地上でこんなに悩むことはなかったのかなって。



「お前も、いい加減にもっと図太くなったらどうだ」



ユウがわたしの髪を乱暴に掻き乱す。


この言葉は、正しい。地上で生きるなら強くなれと、ずっとずっと、ユウはわたしに言い聞かせてきた。

それなのに蓋を開ければ、いくら体が成長しても、心は全く変われないまま。

闇の世界にしがみついて、外への一歩を踏み出せないでいる。


そんなわたしがユウに言い返せるはずがない。

黙ってされるがままになっていると、ユウはため息まじりに手を止めた。

俯くわたしの頬を、ミィが舐める。



「……うぅ、……っ」



言葉にならない。

どうしようもないぐらいに、みんなが好き。離れたくない。

嗚咽を噛み殺すわたしに、ユウが覆い被さった。



「まったく。どうしようもない子供だ」



言っていることに反して、口調と纏う空気は優しい。



「もっと利己的になれよ。地上で生きるなら、なおさらだ。他者の心に触れることを怖がるな」



親が子供に言い聞かせるように、ユウはゆっくりと語りかけてくる。



「確かに、朔の望みや行いが誰かを傷つけることもあるかもしれない。朔の周りにいる奴らが、自分たちの都合で朔を苦しめているように」



のしかかる闇の重みが増した。

子猫姿のミィがユウに威嚇すると圧迫感はすぐに消えて、ユウはわたしから身を離す。



「向こうはそういう世界だ。地上の生き物は傷つけ合い、庇い合い。そうすることでしか均衡を保てない」



哀れで愛おしい連中だと、ユウは穏やかに笑った。

ミィがわたしの手から擦り落ちる。抱き方が緩すぎたのかと焦ったけれど、違ったみたい。


わたしの存在が、闇の世界で薄くなってきたのだ。


時間切れだ。朝が来てしまう。



「ありがとう。……行かなきゃ」



地上は怖い。でも、そこがわたしの生きる世界なのだから。


みんなに心配はかけられない。


ユウたちに元気をもらえるうちに、少しでも強くならないと。


黒の世界から意識が霧になって消えていく。





……、——そば、に……い、る……。





肉体に感覚が戻る直前。


空耳のように、微かにユウの声が聞こえた気がした。






      *






地上の朝は重くてだるい。

窓にかかる日避け布は開けずに、薄暗い部屋でのそのそと学校へ行く用意をしていると、玄関の扉を叩く音が聞こえた。


朝食が運ばれてきたのだと判断し、急いで扉を開ける。


廊下に立っていたのは、花歩さんだった。

数日ぶりの彼女は以前と同じく屈託のない明るい笑みを浮かべていて、すぐに緊張がほぐれる。


本部の襲撃以来顔を合わせていなかったけど、元気そうで安心した。



「おはようございます」



わたしが進んで挨拶をすると、花歩さんは少々困り顔になる。

どうしたのだろう。不安げに窺うわたしに、彼女はよしと意気込んで満面の笑みを見せた。



「朔ちゃん、よね? はじめまして。じゃないのだろうけど……、花歩と言います。今日からお仕事に復帰? するから、いろいろ頼ってね」


「……はい……」



元気に挨拶してくる花歩さんに戸惑う。どう返していいのか迷っていると、花歩さんの横から明将さんが玄関に顔を出した。



「説明が遅れて悪かった。色々と訳があって、花歩は以前の記憶が部分的に飛んでいる」



それは、記憶喪失ということなのか。



「でも、お料理は体が覚えているの。日常生活に支障もないみたいだし、これからどんどん出来ることを増やしていくわ。朔ちゃんも、改めてだけどよろしくね」



前向きな宣言。花歩さんに思い詰めた様子はない。

廊下の台車に朝食を取りに花歩さんが部屋を出る。その隙に明将さんへ問いかけた。



「よくあることなのですか?」



明将さんの冷静さからして、花歩さんがこうなることをあらかじめ予想していたとしか思えない。



「花歩は癒しの……、光の力を使いすぎた。しばらくは不便をかける」



花歩さんが朝食の揃ったお盆を持ってきた。

食堂の準備があるらしく、二人はすぐにわたしの部屋を立ち去る。


須藤さんのことを明将さんに言いそびれてしまった。


機会を逸したことに、わたしはほっとしていた。






母と……、明将さんと雪根さん。

その中で一番大切なのは母だと断言できる。だけどわたしは、明将さんたちが命の危機に晒されるようなことにはなってほしくない。

結局、自分が何をすべきなのかを決めかねて動けない。


意志の弱さを痛感する。

人に嫌われたくて何もできないわたしを、学校や赤兎班、わたしに関わる多くの人たちが嫌悪する。


わたしが変わらないとって、何度自分に言い聞かせても、結局は行動に移せないまま。

 


息苦しい日々が過ぎていく。


あの襲撃事件以降、明将さんは本部で花歩さんと一緒に行動しているみたいだった。

おそらく、記憶を無くした花歩さんの補助と護衛が、今の彼の役目なのだろう。


雪根さんはあれ以来、全く姿を見かけない。どこで何をしているのか、わたしに教えてもらえるはずもなく、安否すらわからなかった。


そんなある日の休日。

わたしの滞在する部屋に穂高さんが訪ねてきた。



「わたしにお客さんですか?」


「そう。今からだけど、応接室まで来れそうかな?」



伺いを立てる言い方ながら、わたしが行くのは決定事項のようだ。

穂高さんは玄関の扉を開けたまま廊下でわたしが出てくるのを待っている。


無言の圧力に急かされて靴を履いた。

大股で歩く穂高さんを追いかける。



「あの……、お客さんとは、どなたでしょうか……?」



もしかして、母が会いに来てくれたのか。小さな期待を抱いて聞いてみた。



「行けばわかるよ。家の関係かも俺には判断しかねるから、とにかく会って話を聞いてほしい」



穂高さんは振り返りもせずわたしに言った。

出会った当初と変わらない穏やかな口調だけど、彼のわたしに対する空気は日増しに刺々しくなっている。




結論から言うと、わたしを訪ねて来たのは母ではなかった。

案内された一階の応接室。来客用のソファには、土地守りの一樹さんが座っていた。


穂高さんに促されて入室したわたしに、立ち上がった一樹さんが会釈する。つられてわたしも頭を下げた。


応接室には一樹さんと、向かいのソファに宮城さんがいた。さらには宮城さんの後ろに、雪根さんと柊さんが控えている。

柊さんはいつもと同じ感じだったけど。隣に立つ雪根さんは、顔から表情が抜け落ちてとても不機嫌そうだ。

音を立てずに扉を閉めた穂高さんは、そのまま扉の横に立った。



「とりあえず、座れ」



宮城さんが指で隣を示す。

言われた通りソファへ腰掛けた。



「急を要することとはいえ、突然お伺いして申し訳ございません」



わたしの斜め向かいに座る一樹さんが丁寧な所作で深々と頭を下げる。



「先触れはあったろ。こっちの事情で俺がこいつに伝えていなかっただけだ」



宮城さんのぞんざいな態度に一樹さんが苦笑する。笑みの表情ひとつからも、大人の余裕が感じられた。



「お久しぶりです。朔さんは、その後はお元気に過ごされてましたか」


「えっ、……ぁ、はい」


「余計なことは聞かずに、いいからさっさとこいつに要件を伝えろ」



社交辞令を遮り宮城さんは足を組み直した。

隣から感じるぴりぴりした空気に背筋がぴんと伸びる。


一樹さんは話を急かす宮城さんへ「失礼しました」と穏やかに微笑んでから、体をわたしに向けた。



「本日お伺いしたのは、朔さんに空木村(うつぎむら)についての確認をさせていただきたかったからです」


「……空木村、ですか?」



知らない地名だ。聞き返したわたしに、一樹さんはゆっくりと頷く。



「はい。朔さんのお母様、愛里さんのご実家のある村です」



母の実家。

そう言われても、わたしには想起できるものが何ひとつなかった。


わたしの家族は生まれた時から母だけで、幼少期は引っ越しを繰り返していたから故郷と呼べる土地がない。


母は未来の幸せを明るく語るのが好きな人で、過去の話をあまりしたがらなかった。

だから母の生い立ちやわたしの父親について尋ねるのは、どことなく躊躇われていた。



「空木村について、お母様からは何かお聞きしていませんか」


「……すみません」



わたしは何も知らない。

母がどんな場所で育ったか。どんな経緯があって、わたしを産んでひとりで育てたのかすら、母は教えてくれなかった。



「それが答えだろう」



宮城さんの一言に、一樹さんは目を伏せた。



「確認するまでもない。こいつの母親は役目から逃げた。そしてこいつは何ひとつ知らずに育った。無知なやつに、縁のない土地に縛られる役目を課そうとするな」


「知らなくとも、朔さんには選択の権利がございます。そして選ぶためにも、彼女は知らなければなりません」



一樹さんの指摘に宮城さんの機嫌が降下する。

剣呑な空気をものともせず、一樹さんはわたしへと静かに口を開いた。



「空木村について、ご説明させていただいてもよろしいですか?」


「……お願い、します」



わたしにどんな選択を与えられたのか。その点についてはあまり関心がない。

そんなことよりも。わたしは少しでも、母のことを知りたかった。






    *






日の元では古来より、孤島や山中の僻地など、華闇の守護が届かない土地では神代巫女(かじろみこ)が土地守りに代わり神事を執り行う。


華闇より各地に派遣される土地守りとは違い、神代巫女は代々血筋によって受け継がれてゆく。



母の故郷である空木村は皇都の西側、深い山の中にひっそりとある、五つの集落から成る村だという。


わたしの母、愛里の実家の姓は照土(てるつち)

母は代々空木村を取り仕切り、神代巫女の役目を引き継ぐ一族の直系のひとり娘だった。


空木村では一年半前に、神代巫女を務めていた愛里の母、——つまりはわたしの祖母が亡くなった。

本来ならば次代の神代巫女になるはずだった愛里は帰郷を拒否し、その後間もなく奥園の後妻の座に収まった。


それによって急遽、亡くなった神代巫女の妹——母からすれば叔母にあたる人が集落の総意で次代の神代巫女に選出された。しかし高齢の身に潔斎の修行は厳しく、体調を崩してしまったらしい。


人の営みがある場所には、必ず土地守りによる神事が必要になる。

土地守りの代わりとなる神代巫女がいない集落は取り壊しとなり、人々は近くの町に移らなければならない。



「可能であれば朔さんのお母様に、空木の神代巫女を継ぐ意思があるのかを確認したかったのですが」


「こんな状況だ。それにそいつは奥園の姓に入った時点で、生まれ育った土地を捨てたも同然だろう。帰るなら先代が没した際にとっくに帰郷しているはずだ。だから確認は無意味だと言っている」



そうですね、と。一樹さんもすんなりと宮城さんに同意する。



「あくまで形式的な問いとなりますが、朔さんの意思も確認させていただけますか」


「……わたしが、神代巫女に?」


「はい。照土家の後継者として、朔さんには空木村の神代巫女を継ぐ権利がございます」



そう言われても、返答に困る。

悩むのも無理はないと、一樹さんは答えを急かさなかった。



「返事は今すぐに、というわけではありませんが……、どうも空木村が次代の神代巫女として華闇に申告した方の体調が思わしくありません。継承者が断たれるならば、華闇は神代巫女の治める空木村近辺の土地守りの管轄地を、早急に見直さなければなりませんので」


「それは華闇の都合だろう。鳳に押し付けんな」



話を遮られても気を悪くせず、一樹さんはゆっくりと首肯した。



「宮城様のおっしゃる通りです」



その後宮城さんと二、三言葉を交わして、一樹さんは帰っていった。



来客がいなくなった応接室で、残った人たちは持ち場を動こうとしない。皆が宮城さんの出方を窺っていた。



「どう思った?」



頭の中が混乱して考えがまとまらないわたしに、宮城さんが問いかけた。


空木村の神代巫女になる権利がわたしにある。

一樹さんは事実を伝えにきただけで、強制はしてこなかった。



だけど。これはなんとなくの、勘でしかないけど……。



「一樹さんは、わたしが神代巫女になることを、快く思っていない気がしました」


「そりゃそうだ」



宮城さんが鼻で笑う。



「華闇としては、土地守りの手が届かない土地は日の元において極力少ない方がいい。華闇はこの機会に空木村を解体し、土地守りの守護地に吸収するつもりだろう」



なんでもないことのように、彼は続けた。



「とはいえ華闇に村ひとつ潰せるような政治的な力はない。おおかた空木村とやらの連中にせがまれたんだろう。後継者がいるのだから村は存続できるはずだと。そうなると華闇は形だけでも、その後継者に神代巫女を継ぐ意思があるのかを確認しなければならない」



空木村と、華闇。宮城さんは両者を容赦なく嘲笑う。



行ったことのない母の故郷。会ったこともない空木村の人たちは、わたしが神代巫女を継ぐのを切望している。


華闇は神代巫女の後継が現れず、空木村が解体されることを望んでいる。


ふたつの望みは正反対で、空木村の存続はわたしに委ねられたこの状況。簡単に、決断できるはずがない。


重圧に押し潰されそうで、胸元を強く握った。

先のことなんてどうしていいのかわからない。



「自分勝手だろう?」



宮城さんに言葉を返す余裕がない。

黙り込んだわたしに構わず、彼はソファにもたれかかって天井を見上げた。



「人ってのは、そういうもんだ」



力なく呟かれたその言葉に、無性に泣きたくなった。


選択肢が増えたところで、わたしは何も選べない。



「話は終わりだ。さっさと部屋に戻れ」


「……はい」



ソファを立ち上がり扉へと進む。



「失礼しました」



応接室を出てひとりで廊下を歩く。


結局、顔は見られても雪根さんと話しはできなかった。







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