13.光の姫(下)
翌朝になっても花歩さんには会えず、朝食は穂高さんが持ってきてくれたおにぎりと味噌汁を食べた。
その時に、昼食を用意できる余裕がないとのことで、しばらくの間は学食を使ってほしいとお金の入った封筒を渡された。
「経費で落とすから、領収書は忘れずにもらってきてね」
穂高さんの口調は相変わらず穏やかだけど、有無を言わせない圧があった。
身支度を整えて部屋を出る。
一階の廊下で朝から慌ただしく動く赤兎班の人たちとすれ違った。
その中のひとりに、昨日腹部に重傷を負って倒れていた人の姿を見つけた。彼は怪我などまるでなかったかのように、しっかりとした足取りで仕事に勤しんでいる。
出来るだけそちらに顔を向けず、廊下の床を見ながら玄関へと足早に向かう。
視線が痛い。居たたまれなさに奥歯を噛み締めた。
赤兎班の人たちの明らかな敵意によって、疑念は確信に変わる。
昨日の襲撃は奥園、義父が関係しているのだと、彼らは疑っているのだ。
大破された玄関から、駐車場に出て車に乗り込む。
朝の送迎担当は、篤志さんと啓斗さんだった。
昨日久しぶりに会えた、明将さんと雪根さんを期待していた自分がいて、密かに肩を落とす。彼らはきっと、忙しいのだろう。
移動中は、篤志さんですらいつもの調子でわたしに話しかけてこようとしない。車内に気まずい空気が充満する。
隣に座る啓斗さんは、寝不足なのかしきりに目を擦っていた。運転席の篤志さんも、赤信号で車が停まる度に自分の肩を揉んでいた。
二人とも、明らかに疲労している様子だった。
学校に到着して校舎に入る。
朝礼までに時間的な余裕もあり、校内に生徒はまだ少ない。
廊下に響く自分の足音を聞きながら、重い足取りで教室に向かう。
「おはよう。昨日は大変だったみたいだね」
教室のわたしの席では、須藤さんが椅子に座って待ち構えていた。
「……どうして、それを」
自然と漏れた自分の声にはっとして周囲を見渡す。
幸いなことに、教室に人はいなかった。誰かに話を聞かれる心配はなさそうだ。
彼と一緒にいるところを目撃されない。そのことに安堵するのと同時に、強烈な違和感に襲われた。
いつも朝、わたしが登校した時には既に席に着いて、ひとり本を読んでいる生徒が今日はいない。
廊下からはたくさんの話し声が聞こえてくるのに、この教室に入ってくる生徒はなく、これが偶然なのか判断に困った。
この男が、何かをしているんじゃないか……。
須藤さんは当惑するわたしに構わず、わたしの席で片肘をつきながらこちらを見上げた。
「忘れてないかい? 君はあくまで奥園氏の娘として赤兎に預けられているんだよ?」
「……どういう、意味ですか?」
「せっかく楽しいお祭りが見られるはずだったのに。告げ口は関心しないな」
ぎくりと、体が硬直する。
「朔ちゃん、あいつらに言っちゃったでしょ。それなりに手の込んだ奇襲を仕掛けたつもりだったんだけど、君にはわかっちゃうんだね」
知られている。
わたしが雪根さんに伝えたことは、全て。この男に。
「……どうして……」
「知っているのかって? そりゃあ、戦争で敵の情報収集は基本中の基本だからだよ」
戦争。敵。
言われて自分の認識の甘さを思い知る。
奥園と赤兎班。
やっぱりふたつの関係は、取り締まりを受ける側と、取り締まる側というありふれたものじゃない。
それでもわたしはまだ、どこか楽観視していた。
化け物を使役して敵を殺す。普通の人に到底できないことが、義父の仕業のはずがないと。
須藤さんが留美香の婚約者候補だというなら、彼のことは当然義父も認識しているわけで。
その事実によって、義父と須藤さんは繋がりがあるのだと、証明されてしまった。
異様な気配の化け物を使って人を殺す人たちが、ここにいる。
だから、赤兎班は奥園を敵とみなして排除しようとしているのか。
義父と、外つ国から来たというこの男を。
「あなたは、なんなの!?」
「俺のことより、朔ちゃんは自分の立場をもう一度考え直すべきでしょ。義理とはいえ、君は奥園氏の娘なんだよ」
須藤さんが立ち上がる。無意識に後退り、彼と距離をとった。
いつも余裕の笑みをたたえていた男が、真顔でこちらに大きく一歩を踏み出す。
「調子に乗って邪魔をしすぎると、君のお母さんも無事ではいられなくなるよ」
駄目だ。どろどろに濁った彼の瞳には、真実と虚偽が入り混じって本音が探れない。
でも、この男は人ひとりの命を奪うことを簡単にやってしまう。内に見え隠れする惨たらしさは、十分すぎるほど伝わってきた。
「……やめて。お母さんは……」
「うん。だったらいい子にしてよっか。俺を楽しませてくれるのは嬉しいけど、自分がどちら側の者なのかは、忘れちゃ駄目だよ」
いつの間にか須藤さんは目の前から消えていた。
生徒が続々と教室に入り、何事もなかったかのように学校の一日が始まろうとしている。
活気にあふれる周囲の話し声に、わたしを貶す言葉がいくつかあった。
それらを気にする余裕はなく、ふらつく足取りで席に着いて頭を抱えた。
赤兎班の内情は奥園に筒抜けになっている。
一体どこから情報が漏れているの。
須藤さんが化け物を使って監視しているのか。
内通者……はあまり考えたくはないけれど……。誰かが赤兎班を裏切っている、ということもあり得るのだろうか。
疑心暗鬼が加速する。
ひょっとすると、奥園は花歩さんの秘密も把握しているかもしれない。
……どうしよう。須藤さんのことを明将さんに話すべきか。
でも、わたしが赤兎班に利がある行動をしたら、今度は母が危ない。
ひとりじゃどうにもならない。
わたしは誰を頼ればいいの。
わたしは……、誰の味方をすればいいの。
母に無事でいてほしい。
明将さんたちに、危険な目にあってほしくない。
どうすればいいのか、わからない。
*
昼休みになっても食欲がわかず、穂高さんから預かった封筒の中身は使用しなかった。
そして迎えた放課後。
改めて封筒を開けてみる。
お札が揃って五枚ほど。中には一日の昼食代とは思えない額が入っていた。
今になって昼食時に学食を利用しなかったことにじわじわと不安が込み上げる。
食欲がなかったからお金は使用しなかった。
そう言って穂高さんは納得してくれるだろうか。
反抗的だと、思われはしないか。
朝に本部で会った班員たちの冷たい視線を思い出す。
これ以上、彼らを刺激するようなまねはしたくないのに。わたしはいつも空回りしてしまう。
考えているとさらに気が重くなって、胃がきりきりと痛んだ。
呼吸を深くして不調をやり過ごそうとしたその時、わたしの手から封筒が消えた。
「何、このはした金。これがあんたのお小遣いなの?」
目の前には、同じ学級の女子生徒が五人立っている。真ん中の女子がわたしの持っていた封筒を開けていた。
彼女は面白そうにお金を抜き出して、お札を周囲に見せびらかす。
「返してっ」
それはわたしのお金じゃない。
「いやよ。あんたがいるだけで教室の空気が不快になるの。慰謝料として貰っておくわ」
女子生徒が頭上高くお札を掲げる。周りを囲う女子たちは、焦るわたしを楽しげに笑った。
教室に残っていた他の生徒たちは皆、関わるまいと視線を逸らす。そんな中、彼女たちに歩み寄る影があった。
「金品の強奪は見過ごせないな」
背後から聞こえた声に、女子たちは驚いて振り返った。
「——っ、樋渡くん!?」
彼女たちに声をかけたのは、留美香の許婚候補のひとり。留美香からは佐と呼ばれている彼だった。
短いながらも癖のない黒い髪と、整った顔立ちがどこか人形を彷彿させる人だ。
表情は乏しくとも、微かに寄った眉間の皺が彼の不快の感情を相手に伝えていた。
「ちっ、違うのよ樋渡くん。この子が珍しい財布を持っていたから、見せてもらってただけよ」
彼女は急いで封筒にお札を戻し、それをわたしに押し付ける。
「じゃ、じゃあ、わたしたちはこれで」
返事を待たず、逃げるように帰っていった。
傍観していた生徒たちも、気まずそうにそそくさと教室を出て行く。
これは、助けてもらったと考えていいのかな。
「……ありがとうございます」
戸惑いながらも告げたお礼に、彼は反応を示さない。教室の戸へと目をやって、静かに口を開く。
「裏門まで送っていく」
「でも……」
「奥園と赤兎班の諍いは把握している。だから俺には隠さなくていい」
小声で、しかも早口で告げられた言葉に驚愕し、返答に迷う。
彼は留美香の許婚候補らしいから、奥園の内情に詳しいのだろうか。
それとも、これも何かの罠だったりするのか。
「……留美香、は」
「須藤と先に帰った。街へ遊びに行くのだろう」
「あなたも留美香の許婚、候補なのに。わたしと一緒にいてもいいのですか」
「その件も含めて話したいことがある」
彼はなかなか動けずにいるわたしに顔を向け、微かに視線を落とす。
「奥園の婿選びについては、君も無関係ではない。知っておくべきことだ」
*
皇立院の生徒の多くは家から車で通学している。
そのため学校の表側には送迎車の待機できる場所が確保されていて、下校した生徒たちはほとんどがそちらへと進む。
放課後に学校の裏側へと流れる生徒は基本いない。
駅に行くにも表の正門を使用した方が格段に近いからだ。
生徒たちの動線に入らない校舎の裏側へと続く経路は、教職員の気配にだけ注意を払えば歩きながらの内緒話ができた。
「知らされていないかもしれないが」
そうわたしに前おきして、彼は話しだした。
「君の母君が再婚した当初は、留美香の婿に須藤を、俺の嫁に君をというのが、奥園当主の意向だった」
開口一番。なんでもないことのようにさらりと告げられた内容に、わたしは今日一番の衝撃を受けた。
わたしに、婚約者?
初耳だった。義父からは何も聞いていない。
「普段は奥園当主に従順な君の母君が、この件にだけは猛烈に反対されたんだ。分家も彼女を後押しする形で当主に抗議した結果、話は白紙に戻った」
そこから奥園当主、つまり義父は分家の希望を汲み取る形で、彼——樋渡さんを留美香の許婚候補のひとりとした。
便宜上は留美香が未来の夫を選ぶことになっているが、そこに奥園当主の意思が深く関わるのは言うまでもない。
義父は、留美香の夫に須藤さんを当てたがっているという。
よほど上手く立ち回らない限り、樋渡さんは留美香と結婚できない。
彼の説明に気が遠くなる。まさか知らないところでわたしも奥園のお家騒動に巻き込まれていたなんて思いもしなかった。
わたしの婚姻を反対してくれた母には感謝しかない。
同時に母が心配になる。義父に逆らって、二人の間に軋轢が生じたりはしなかっただろうか。
樋渡さんについても、行動の意図が読めない。
留美香の夫の座を狙っているなら、わたしを助けるのは愚策とならないか。
「……あなたは、どうしてわたしを助けてくれたのですか」
「君のためではない。俺も結局は自分のためにしか行動していない」
遠い目をして、彼は空を見上げた。
「昨今、旧家は掟に縛られた籠の鳥だと揶揄する風潮があるらしいが、俺はそうは思わない。自分の家と、この血に誇りを持っている」
彼の鞄の持ち手を握る手に、力が入る。
「……奥園は、なんとしてでも取り戻さなければならない」
憤り、苛立ち、怒りの混ざった声だった。
彼からようやく、人らしい感情の色が見られた。
取り戻すとは、一体誰から?
家名のことか、企業のことか。彼の言う「奥園」は、何を示しているのか。
「すまない。取り乱したな」
小さなため息をつき、彼はわたしに視線を移す。
「赤兎班に伝えてほしい。奥園の分家には継承が成されていると」
「……継承ですか?」
分家には……、と。
彼の言い方は、まるで奥園の本家は代々受け継いできた何かを、次代に残すことに失敗したかのようだ。
そして奥園の分家は、その事実を良しとしていない。
「それだけ言えば、赤兎班ならわかるはずだ」
具体性に欠ける話ながら、これだけははっきりした。
彼の忠義は奥園本家、すなわち義父にはない。あくまで自分の信念で動いている。
奥園も一枚岩じゃない。
派閥。権力闘争。内部蜂起。さまざまな言葉が脳裏に浮かんでは流れていく。
「ひとつだけ。……その伝言は、誰の得になるものですか?」
確認しておかないと。
ただでさえわたしは不安定な場所に立っているのだから、慎重になる。
人の頼みを考えなしに引き受けて、取り返しのつかない事態に陥るのだけは絶対に避けなければならない。
「あなたが自分のために動くのと同じで、わたしは、わたしと母のために動きます」
この地上で誰よりも大切な人を、わたしは守りたい。
奥園なんて関係ない。でも、母が奥園当主である義父につくなら、わたしは分家の味方をするわけにはいかない。
わたしの宣言に別段心は動かさず、彼はそうかと納得を示した。
「ならば、赤兎班には伝えない方が賢明かもしれないな」
さらには助言まで。
「最初から、君に期待はしていない。頼らずとも、俺が自分で動けば済むことだ」
話しているうちに学校の裏門まで行き着いた。
人気のない閑散とした道に、一台の車が停車している。赤兎班の車だ。
「この話を、誰に伝えようが君の自由だ。どのみち、当主は分家の動きにとっくに勘づいているだろうから、後はなるようにしかならない」
諦めているのか、達観しているのか。
真意は最後までわからないまま、裏門を抜けたところで彼は校舎へと戻っていった。
迎えは穂高さんと柊さんだった。
明将さんたちじゃなかったのかと密かに落胆しつつ、彼らの待つ車へと乗り込む。
走り出した車の中。空気は異常にぴりぴりしていた。
「時期が悪いね。昨日の今日であちら側の者と接触しているのは、流石に怪しんでしまうよ」
隣に座る穂高さんが、いつもより低めの声でわたしに言った。
あちら側とは、奥園の勢力だろう。
おそらく、裏門まで送ってくれた彼についての言及だ。
「……あの人のこと、ご存知なんですか?」
話した内容から推測するに、奥園の分家筋にあたる人だと思う。
今さらだけど、わたしは彼から彼自身の説明を受けていないことに気づいた。
信号で車が停車する。
「むしろ朔ちゃんからそんな問いがくることに驚きだよ」
「樋渡佐は奥園の筆頭分家の後継だ」
運転席の柊さんがこちらを横目で見て、穂高さんよりもさらに低い声で告げた。
筆頭分家。
……ああ、だから。
どおりで彼は奥園についても詳しいわけだ。
留美香の許婚候補なのも頷ける。
筆頭分家の跡取りとされる彼の嫁に、義父がわたしを望んだ理由も、理解できた。
義父はわたしを使って分家を抑え込み、義父の同志である須藤さんを、奥園本家に招き入れようとしていたのだ。
改めて思い知る。
奥園当主——義父にとってわたしは、やはり単なる駒のひとつでしかなかった。




