11.光の姫(上)
わたしが頑張らなくてもよかったんだ。
週が明けた月曜日。
学校へ行くための身支度を整え部屋を出た。駆け足気味に階段を下りて正面玄関へと急ぐ。
待ち合わせ場所は、先週までと何やら様子が違っていた。
そこで待っていたのは明将さんたちではなく、篤志さんと啓斗さんだったのだ。
「おはよう」
「おはようございます」
「しばらく朔ちゃんの送迎は、俺たちがすることになったから」
「そうですか……。よろしくお願いいたします」
篤志さんに促されて車内へと乗り込む。
運転席には篤志さんが、わたしの隣には啓斗さんが座り、車は学校へと走り出した。
隣に座る啓斗さんは不機嫌を隠そうとしない。
狭い空間のぎすぎすした空気は伝播するのが非常に早かった。
啓斗さんに嫌われているのは自覚済みなので、わたしはとにかく彼にこれ以上の刺激を与えないように、息を潜めて車中の時間をやり過ごす。
「アキたちが外されたことが気になる?」
そんなわたしの心情など構いもせず、篤志さんが話しかけてきた。
わかってはいたけど、この人は空気を全く読まない。読めないのじゃなくて、読もうとしない。
他人の機嫌や場の雰囲気に呑まれることなく我を通せる、自分をしっかり持っている人。
話をふられたら、無視するわけにもいかない。
「……わたしが聞いて、いいことではないかと」
宮城さんの人選に、部外者が口出しする権利はない。
明将さんと雪根さんはわたしにすごく気を遣ってくれていた。もしもそれが原因で二人の立場が危うくなっているなら……、とても申し訳ないと思う。
黙り込んだわたしに、運転中の篤志さんは前方に顔を向けたまま明るく話す。
「アキたちは今、別件で出ていて、今週の中頃には戻ってくるはずだ。そしたらまた俺たちとは交代する予定。だからそんなに落ち込まなくて大丈夫だよ」
「そう、……でしたか」
「あいつらも宮城さん相手に結構ねばったみたいだけどね。今回の仕事はあの二人が適任だったってだけだから、気を病む必要はないよ。アキたちはなんだかんだで他より能力が高いからなあ」
「篤志さん、喋り過ぎ」
「いいだろ別に。本当のことなんだから」
啓斗さんが咎めたところで、篤志さんは悪びれる様子がなかった。
高校へ到着しわたしが下車すると、篤志さんの運転する車はすぐに来た道を引き返して行った。
車中でどことなく、篤志さんが焦りを隠していたように見えたのは、わたしの思い過ごしだろうか……。
色々なことを話して気を紛らわせている、そんな印象があったのだ。
明将さんと雪根さん同様、彼らも本当は送迎の他に仕事があるのではないか。
そんなことを考えながら学校の敷地を半周して、正面の門から校庭へ入った。
日常の変化は続く。
授業の間の小休憩で、お手洗いから自分の教室へと戻る際、廊下で会いたくない人に出くわしてしまった。
「やあ、朔ちゃん。奇遇だなあ」
……須藤さん。
完全に油断していた。よりによってこの人と顔を合わせてしまうなんて。できることなら話しかけないで欲しかった。
無視して逃げるわけにもいかず歩を止めた。
須藤さんは爽やかに笑う。とても胡散臭い笑い方だ。
「こうして話すのも久しぶりだね。最近、何か楽しいことはあった?」
「……いいえ、特には」
「本当? 前から結構時間が経ってるけど、話のネタのひとつや二つぐらい見つけられたんじゃないの?」
この人はわたしに、何かを探ることを求めていないんじゃなかったのか。
「……お話するような出来事は、何も」
「へえ。そうなんだ」
含みのある喋り方は、確信があるのか、それともただの揺さぶりか。
彼はどこまで、わたしの赤兎本部での生活を把握しているのだろう。
「もう……、いいですか?」
話が終わったならすぐにでも教室に戻りたい。この場所はまずい。
だって、ここは——。
「ちょっと! どうして雷也とあんたが一緒にいるのよ!?」
……遅かった。
留美香の所属する教室の前だから、できれば立ち止まりたくなかったのに。
教室から飛び出て来た留美香が須藤さんの腕を掴む。彼女はそのままわたしを睨んできたけれど、強気な態度には怯えが見え隠れしていた。
余計なことを言うなと、言わずして目が語っている。
わたしは何も喋る気はないので、それは須藤さんに訴えるべきである。
わたしの目の前で、須藤さんがとろけるような笑みを浮かべて留美香の顔を覗き見た。
「ごめんって、寂しかったのか?」
「……ばか! 違うわよ!」
留美香は顔を赤くして、彼女と一緒に教室から出てきた男子生徒の陰に隠れる。
以前にわたしの髪を整えてくれた人だ。
そういえば、結局髪の毛を染める必要はなかったな……。
こちらが現実逃避をしている最中も須藤さんは留美香をからかうのをやめない。
……わたしは一体何を見せられているのだろう。
「待って待って。まだ話は終わってないでしょ」
わたしから留美香へと興味の対象が移ったとみなし、そっとそのばを立ち去ろうとしたのだが、須藤さんは逃がしてくれなかった。
彼が声をかけてくるだけで、留美香の顔が般若になる。正直怖い。
「……わたしにはもう、話すことがありません」
「須藤、これ以上彼女を巻き込むな」
以前に留美香が佐と呼んでいた彼が、わたしに助け舟を出してくれた。
それに対しても須藤さんは面白そうに口の端を釣り上げる。
「おっ、なんだ。佐は朔ちゃんに乗りかえるつもりか。だったら留美香は俺が貰っていいよな」
「誰もそうは言ってないだろ」
二人の視線が交わり、火花が散った。
一触即発の空気を察した生徒たちが遠巻きにこちらを窺う。
皆が固唾を飲んで動けないでいると、眉を寄せた留美香が二人の間に立った。
「喧嘩は嫌よ」
はっきりとした物言いに、須藤さんが仰々しく頭を下げた。瞬時に張り詰めた空気が霧散する。
「はいはい。仰せの通りに、お姫様」
「そういうの、やめてって言ってるでしょ」
口では拒絶しながらも、留美香はまんざらでもなさそうだった。
とても居心地が悪いのだけど……わたし、いなくなったらだめかな。
場違いな状況に困惑するわたしに、佐と呼ばれていた彼が哀れみのこもった視線を送ってくる。無闇に話しかけてきて留美香を刺激しないあたり、彼は空気が読めて他人を慮れる人のようだ。
そんな彼とは真逆で空気を読まず、他人に対して気を使わない須藤さんが、わたしに向き直って望んでもいない説明をしてくれた。
「留美香の縁者だし、朔ちゃんは知っておいたほうがいいかもね。俺と佐は、ライバルなんだよ」
「らい、ば……?」
……らい、ばる? ……雷晴?
どんな字を書くの? ……また知らない単語だ。
「競争相手ってこと」
須藤さんは留美香の腰に手を回し、彼女を自分の方へと引き寄せた。
「許婚候補なんだよ、俺たち。留美香の心を射止めたほうが、将来留美香の夫になれるってわけ」
廊下にざわめきが起こる。
予想外の告白にわたしも目を丸くした。
留美香が慌てて須藤さんの口を塞ぐ。
「ちょっ、雷也! こんなところで何言ってんのよ!」
「いいだろ別に。本当のことなんだから」
既視感がすごい。今日は暴露の日なのだろうか。
飄々とした調子を崩さない須藤さんに痺れを切らし、留美香がもう一人の彼に詰め寄る。
「ちょっと佐! あんたも何か言いなさいよ!」
「むやみやたらに部外者を巻き込むな」
「そうじゃなくてっ」
いいや、そうだと思う。
うんざりとした彼に同情を禁じ得ない。
そうこうしているうちに授業開始を知らせる鐘が校舎に響いた。
「授業が始まる。教室に入ろう」
彼が留美香を教室へと誘いながら、さっさと行けとわたしに視線を送ってくる。
これは、逃してくれているのだろう。
好意をありがたく受け取り教室へと逃げ帰る。
そんなわたしを目敏く見つけた須藤さん。彼はわたしの平穏を許してくれなかった。
「朔ちゃんまたね。俺に話したいことがあったらいつでもおいで」
「雷也!」
過剰な愛情表現は拒絶して、その気はないとみせかけていても、須藤さんがわたしに話すのは許せない。留美香の乙女心は複雑だ。
須藤さんも佐という彼も、留美香自身で選んだ許婚候補ではないだろうに。
おそらく奥園の現当主である義父が、次代の奥園当主にと実の娘に割り当てたのだと想像できた。
義父に決められた囲いの中でも精一杯恋をして、彼女は自分を生きている。
その生き様が羨ましくないといえば嘘になるが、所詮はないものねだりだ。
留美香と境遇が入れ替わったとしても、わたしはきっと留美香みたいに真っ直ぐに生きられない。
ひとまず留美香について、現状は佐と呼ばれていた彼に任せてもよさそうだ。
わたしにとっての目下の問題は、——須藤雷也。
赤兎班の内情で、わたしが知り得たことを教えろなんて……、以前話をした時は何も求めていないと言っていたのに、どういう風の吹き回しなの。
赤兎の本部で暮らすようになって知ったことはたくさんある。
赤兎班の班員には、妖を狩る力がある。
彼らは闇の世界、深淵を知っていた。
さらには深淵で生きているのは、闇の神様だってことも……。
しかし世間に公表していない秘密はあっても、どれもが奥園とは関係のない話だ。闇のみんなに関わることを簡単に口外できるはずがない。
おそらく須藤さんの目的は、わたしを困惑させることにある。あの男は場をかき回して、人が慌てふためく姿を高みから傍観して楽しみたいだけなのだろう。
一番厄介で、どうしようもない種類の人だ。
彼の興味がわたしではなく留美香に留まり続けてくれるのを祈るしかない。
教室に入り、自分の席につく。
休み時間の前よりも、周囲の視線が気になった。
「あんた何様? 自分が留美香さんと同じになれると思ってるの?」
「連れ子のくせに、調子乗り過ぎ」
同じ学級の女子が、席の近くに来て口々に言い放ち去っていった。
それから間も無くして教科担当の先生が入室し、何事もなかったかのように授業が始まる。
机の下で両手をきつく握った。
先生の声は、ほとんど頭に入らない。
調子に乗ったつもりはなかった。
自分が偉くないのは十分すぎるほど承知している。
危うい状態で保たれていた均衡が、とうとう崩れてしまった。
孤独だけど静かで平和だった教室には……、もう戻らない。
なんだか最近、こんなことばかりだ。
*
もともと腫れ物扱いだったわたしに無視は効果がないと、彼女たちが気付くのは早かった。
同級生の陰口は、日を追うごとに声量が大きくなる。同級生はわたしよりも留美香の反応を気にしていて、彼女が気に留めないのであればと攻撃は段階的に拡大していった。
悪口や机の落書き。今のところ、赤兎班の人たちに知られる規模になっていないのがせめてもの救いだった。
これ以上、事態をややこしくしたくない。
学校へいるのは昼間の限られた時間だけ。
夜になれば、たとえ闇の世界に渡れなくても、大切な人たちの気配を感じることができる。
そう言い聞かせて、自分を慰めた。
結局、明将さんと雪根さんは週末になっても姿を見せず、学校への送迎は篤志さんたちがずっと担当していた。
篤志さんですら初日以降、明将さんたちの動向を教えてはくれなかった。
彼らがどこで何をしているのかわからなくても、とにかく無事でいてほしい。
わたしの送迎担当が変わった頃から、赤兎本部の空気も張りつめて緊張をはらんだものになった。廊下ですれ違う班員は常に何かに警戒しているようだった。
わたしの知らないところで、奥園関係の動きがあったのだろうか。
そして再び、週が明けた月曜日。
学校生活は身を小さくして耐えきった。
放課後になって、篤志さんの運転する車で赤兎の本部へ帰る。
学校と本部の行き来を繰り返す生活はずっと同じなのに、精神的な疲労が激しい。
本当に、わたしは何をやっているんだろうと、最近は様々な場面で考えてしまう。
車が本部の建物へと近づく。
帰りたくない。腹の底から込み上げてきた不快感は、あえて息を止めることによって誤魔化した。
どうしてだろう。眩しくもないのに、今日は見知った建物の灰色がすごく目に痛い。
「……なんだ?」
運転している篤志さんも異変に気づいたようだ。
怪訝そうに本部を凝視する。彼のその目からはいつもの明るさが消えていた。
篤志さんは車を本部の敷地に入れず、駐車場の前の道で停車した。
「朔ちゃん、悪いけどまだ降りないでね」
言われても、動ける気がしない。
気持ち悪い。……この気配は何?
まるで大気の中に大量の砂糖を無理矢理溶かして、物体も気体も関係なくぐちゃぐちゃにかき混ぜたみたい。
重くて粘着性のある空気が、赤兎本部の一階に充満している。
気配の元を探れば探るほど、気持ち悪いネバネバがわたしにまでまとわりついてくる。
「……うっ……っ」
急な吐き気に膝の上の鞄を抱きしめてうずくまった。
「……おい」
「朔ちゃん?」
啓斗さんと篤志さんの声が、とても遠くに聞こえた。
返事をしている余裕がない。
何かが本部の入り口に集結している。
身構えた瞬間、大きな破裂音とともに正面玄関のガラスが内側から割れた。
枠組みだけになった出入り口からぬっと、それは出てきた。
無色透明な肉体だ。先にある景色が歪むことによって、何かがそこにいるとわかった。
宙に浮くそれには飛ぶための羽根や翼がなかった。まん丸と太った芋虫のような形をしたそれは、水飴を練るように体内をぐるぐると渦巻かせながら、尺取り虫の動きで空を渡っていく。
それから感じる気持ち悪さに胃の中身が逆流する。
両手で口を押さえた。
玄関が壊されたというのに、建物から誰かが出てくる気配はない。車中にいるからか、人の声も聞こえなかった。
「くそっ、誰も追えないのか!?」
「篤志さん!」
「わかってる! 朔ちゃんはそこに居て」
奥園の関係者とはいえ、義父の捨て駒であるわたしは、赤兎班にとっても優先順位がかなり低い存在なのだろう。
もしくは逃げたところで、わたしには地上のどこにもいく場所がないことを、彼らはよくわかっている。
篤志さんたちはわたしを置いて車を降り、透明な化け物を追いかけた。
しばらくすると、徐々に気持ち悪さとの折り合いがついてきた。
吐き気に慣れて、胃の不快感は依然として残るが悪化もない。
生理現象で溢れた涙を手の甲で拭い、深い呼吸を繰り返して自分を落ち着ける。
赤兎の本部は未だに静まり返っていた。
顔を上げて周囲を見渡していると、一台の車が猛烈な速さで駐車場へと入っていった。
「あっ」
乱暴に駐車された車から明将さんと雪根さんが出てきて、急いで建物の中へと駆けて行く。
およそ一週間ぶりに見た彼らの姿に胸を撫で下ろす。
よかった。二人は無事だったんだ。
安心したのも束の間。
今度は微かにカサカサという音がして、恐る恐る車内で音の正体を探した。
座席の下など、見回ったところで虫一匹いない。
それでも音はまだ聞こえている。
沢山の固い爪が地面を引っ掻いているようで、背筋がぞわぞわして落ち着かない。
ふと思い至って、自分の耳を両手で塞いで目を閉じた。
じっと意識を集中させると、その「音」は耳を通さずにはっきりと感じ取ることができた。
やっぱり。これは空気の振動によって発生している音じゃなかった。
さっきの芋虫の化け物と、形は違えど同じ種類の何かが、ここに近づいている。それもひとつじゃない。
四方八方から均等な距離を保ち、良くないモノが少しずつ包囲網を狭めている。
一度気づいてしまえば意識するのは容易い。赤兎本部を中心とした大きな円が少しずつ狭くなっていく。
外から、何かが迫っている。




