10.華闇の御社(下)
日の元の民にとって、御社は日常の生活と密接に結びついた場所である。
新年や節句など暦に関わる行事の他に、生まれ月、入学や卒業、就職といった人生の節目。さらには冠婚葬祭の儀式や子どもの誕生の報告。引っ越しで生活環境が変わる際にも、去る土地とこれから住まう土地の御社へ赴くのが慣例だった。
神前での決意表明。成就祈願。日々への感謝。様々な理由で、人々は御社へと参拝する。
御社はそれだけ民の暮らしに根付いているのだけど、実のところ、わたしは御社に対して後ろめたさがあった。
これはあまり大きな声では言えない話。
わたしは母と、これまで御社参りに一度も行ったことがない。
幼いころはそれがわたしの常識だった。
小学校の授業で御社参りについて学んだ際に、初めてわたしは自分の家の非常識さに気づかされた。
わたし自身、家庭外での御社参りには入学時や卒業前など、先生の引率で同学年の生徒たちと何度も赴いている。
その時の御社という場所に特別おかしな点は感じられず、参拝の作法は学校で教わったもので事足りた。
御社自体に恐怖を呼び起こさせるものはない。むしろこれまで参ったどの土地の御社も、敷地内の空気は街中よりもはるかに澄んでいた。
なぜ母はこれまでに幾度と引っ越しを繰り返してきたというのに、御社への挨拶は一度もしなかったのだろう。
彼女が仕事で忙しかったことも理由のひとつだとは思う。
しかし今にして思えば母はどこか、御社に怯えて、あからさまに避けていたようにも思える。
どうして、と。
考えたところで理由は見つからず、ぐるぐると巡る思考の中で不意に須藤さんを思い出してしまった。
あの日の昼休み。
空を睨んだ彼の敵が天上の神々だというなら、母が御社を忌避する理由と、何か関係があるのだろうか……。
辿り着きかけた答えは、即座に否定して頭の隅に追いやった。
物事の負の要素ばかりを拾って繋げてしまうのは、わたしの悪い癖だ。さすがに考えすぎだろう。
不安を払拭するために、二人に気づかれない程度に軽く頭を振った。
母が御社参りへ行こうとしなかったのは、義父と出会うよりもずっと昔からだった。
ならば現在直面している問題とは、きっと関係がない。
御社へと続く田畑に囲まれた一本道を歩いていると、進む先に微かな灯りが見えた。
風で木の葉が揺れる真っ黒な山の前に、誰かが立っている。
墨で花の模様が描かれた提灯を片手に持ったその人は、近づいたわたしたちに優雅な所作で頭を下げた。
「お待ちしておりました」
低く落ち着いた声音。
歳は四十後半から五十くらいか。白の着物に濃い色の袴を履いた、装束姿の男性だった。
腰まで伸びた髪を後ろで緩く束ねた彼は、提灯が照らす薄明かりの中で柔らかく微笑む。
「夜分にすまない」
「とんでもございません。宮城様より、お話は伺っております。それに我々華闇にとっても、此度の件は大変ありがたいことです」
明将さんと知り合いなのだろうか。少なくとも、互いの態度から初対面というわけではなさそうだ。
装束姿の男性がこちらに視線を移す。
緊張で身を固くしたわたしを安心させるようなゆっくりとした動作で、彼は提灯を持たない方の手を自身の胸に当てた。
「初めまして。華闇の本山よりこの地へ遣わされ、土地守りの任を拝命しております、一樹と申します」
「あっ、……奥園、朔です」
しどろもどろに名乗り返すと一樹さんの目尻の皺が深まった。
「朔さんですね。深淵の方をお連れいただきましたことを、華闇として感謝致します。さあ、どうぞ御社へお入りください。闇泉へとご案内します」
「それは……」
「いいのか」
闇泉がどういう場所なのかわからず反応ができないわたしとは対照的に、雪根さんと明将さんが驚きの声をあげる。
三者がそれぞれの意味で固まる中、一樹さんは目を伏せながら深く頷いた。
彼はわたしの背後へと焦点を合わせる。
視覚では捉えられない虚空を眺め、黙礼をした後に再びわたしへと顔を向けた。
「深淵と深いご縁を結ばれた方に、闇泉への立ち入りを拒む理由はありません」
おそらく一樹さんには、闇の世界から見守るみんなの気配が感じ取れている。
「朔さんはこれまでに、華闇から巫女にならないかと誘いを受けたことはありませんでしたか?」
「い、いいえっ。わたしなんかは、……一度も」
いきなりの質問に焦ってしまった。
もしかしたら、これまで御社とは関わりの薄い生活をしていたと、勘づかれたかもしれない。
慌てるわたしを一樹さんは特に気にした様子はなく、ただ穏やかに微笑むだけだった。
「そうですか。それもまた、ご縁なのでしょう」
一樹さんに先導されわたしたちは御社の建つ山に踏み入れた。
石畳の一本道は階段状になっていて、道の左右に生えた木々が夜空を覆い隠す。そんな中で、提灯のぼんやりとした灯りだけが行き先を示した。
時々吹く風で木の葉の揺れる音と、わたしたちの足音が真っ暗な参道に小さく響く。
石の階段を登りきると、御社の表門に着いた。
中央の両開きの扉は固く閉ざされていて、わたしたちは隣に設置された関係者用の小門を潜り敷地へと足を踏み入れる。
御社は地面に小石が敷き詰められ、随所に松の木が植えてある広々としたところだった。
表門から一直線に伸びる石畳の道の先に、天上の神々を祀る瓦屋根の重厚な建物——華殿がそびえ立つ。
御社参りに来た人々が神への祈りを捧げ、華闇の人たちが神事を執り行う場所だ。
一般的な参拝の道は辿らず、敷地の外周に沿って社務所の裏を通り、華殿を避けて進んでいく。
[これより奥は参拝者の立ち入りを禁ずる]
そう記された立て札の横を通り過ぎ、一樹さんはわたしたちを御社の奥へと招き入れた。
水路にかかる小さな橋を渡ると、再び木々が生い茂る場所に出た。周囲を見渡せば太い幹の広葉樹の間に、いくつかの家が建っている。
「……ここは」
「わたしたち、御社に関わる者が住まう場所です。闇泉はここを越えた先になります」
一樹さんの説明に要領を得ず返答に困っていると、再び穏やかな声が届く。
「表の華殿と、裏の闇泉。本来はその二つを合わせて、御社と称するのですよ」
「一般に開かれているのは華殿のある表部分だけだからな。裏への立ち入りは華闇の許可が必要になる」
明将さんが補足で説明してくれた。一樹さんも、明将さんに首肯する。
「深淵の方々は安寧と静寂を望まれますからね」
なんだろう。わかりそうでわからない。
もどかしさが胸の深いところから込み上げてくる。
わたしはとても重大な事実に、気づきかけている。これは、わたしが知ってもいいことなの……?
御社に勤める人たちが住むという場所を通り過ぎ、再び水路にかかった橋を渡る。
向こう岸に足を踏み入れる手前で、一樹さんは提灯の火を消した。
木々の間の細道を進むうちに、一段と闇が深くなる。
あちらの世界から見守ってくれている、ミィとアイの気配をはっきりと感じられるようになってきた。
「お二人とも、足元は大丈夫ですか?」
小道は石畳が敷かれているとはいえ、所々で木の根が盛り上がっている。
視界が頼りにならない暗闇で、彼らがすたすたと歩けるのがとても不思議だった。
「まあ、これだけ深淵に近い場所だとな」
「ここだと朔がいつも感じている気配というものも、少しは俺たちも体感できるよ」
雪根さんはそれを証明するかのように、小道にせり出した木の枝を簡単に避けた。
「鳳の赤兎班の人たちは、皆様一度は華闇の本山にて修練を積まれますからね」
一樹さんが朗らかに笑う中、明将さんと雪根さんからはどことなくげんなりとした空気が伝わってきた。
修練とは、そんなに厳しいものだったのだろうか。
「華闇の本山とは、中央霊山にあるという」
「はい。御社の総本山のことです」
土地守りたちは皆、華闇の本山より派遣されている。
特別な事情を抱える土地でもない限り、御社は家系や血筋で管理・継承されることはないと授業で習った。
そんなことを話しながら歩いているうちにも、闇の気配はどんどん濃くなっていく。
やがて小道の果ての行き止まりに、泉が姿を現した。
辺りを木々に覆われ、近くまで来なければ見つけられないであろう、小さな泉だ。
水面が風で揺れている。泉の深さは、暗くてわからない。
先頭に立つ一樹さんが鳩尾の前で指を組み、深く深くこうべを垂れる。
そこにいる誰もが言葉を忘れ、厳かな空気に息を潜めた。
しばらくして一樹さんはゆっくりと頭を上げて振り返った。
「深淵の方を、お預かりしましょう」
差し出された手に、闇の子が包まれた布を渡す。
不安はなかった。
一樹さんが本来持っているはずの、生き物特有の光が極限まで抑えられている。彼が闇の子に触れても、あの子は消滅しないと確信できた。
わたしたちに背を向けて身をかがめた一樹さんは、手に乗せた布を泉に浸した。布が完全に水中へ浸かったところで、ゆっくりと包みが開かれた。
闇の子はまるで魚が優雅に泳ぐようにゆらゆらと水中を揺蕩い、やがて泉の底へと吸い込まれていった。
アイがもう大丈夫、子供は戻ってこれたと伝えてくれた。
「……よかった」
驚きの連続で泉を凝視するしかできなかったわたしは、ほっと胸を撫で下ろした。
その後、一樹さんに山の入り口まで送っていただき、わたしたちは御社を後にする。
別れ際、困ったことがあればいつでも相談に来ればいいと一樹さんに言われた。
明将さんを先頭に、三人で赤兎の本部へと帰る。
わたしの頭の中は、御社のことでいっぱいだった。
華闇は御社を管理して神を祀っている。
一般的に知られる、天上の神のための、華殿。それと対をなすようにひっそりと存在する、闇泉。
闇泉に祀られる神々は安寧と静寂を好む。故に華闇の許可のない人々の立ち入りは禁止されている。
闇泉はわたしのよく知る、闇の世界と繋がる場所だった。
否定のしようがない。
深淵とは、ユウたちが住む闇の世界を指している。
そうなるとわたしが仲間だと、家族だと、友達だと思っているみんなは……。
「深淵におられる方々は、神様なのですか?」
辿り着いた答えを、口に出さずにはいられなかった。
振り返った明将さんが足を止める。
「朔がそれを知らなかったことが俺にとっては驚きだ」
……やっぱり。
「神域とは天上だけにあらず。俺たちの生きている地上ってのは、天上と深淵の間にある緩衝地帯にすぎない。上下にあるどちらの世界が崩れても、地上に影響が出る」
明将さんは視線でわたしの背後にある御社を示す。
「天上と深淵と地上。三つの均衡を保ち、この地の安定を維持するのが、御社を管理する華闇の役目だ」
「それは、わたしが知っても……」
「問題ないだろ。宮城さんが御社へ行けと言ったのは、そういうことも含めてだろうからな。それに事実を知ったところで、どうにもできないだろ」
確かに。普通の人は、光や闇の気配を感知できない。証明できない真実なんて、最初からないものと同じだ。
「華闇の方たちは、闇の子を見つけた時はああして帰してくださるのでしょうか」
「だろうな。全てを救えるわけではないが、見つけたやつを見捨てたりはしないだろう」
明将さんの言葉に、胸が熱くなる。
嬉しかった。わたしの他にも、地上に落ちた闇の子を助けてくれる人たちがいるんだ。
……わたしだけじゃ、なかったんだ。
安心とは別にある複雑な思いは、そっと蓋をして隠した。
本部へ戻ったころにはもう、消灯時間はとっくに過ぎていた。
裏口から建物に入り階段を二階に登ったところで、わたしは明将さんと雪根さんと別れた。
「ありがとうございました」
「うん。朔もお疲れ様。よかったね」
「……っ、はいっ」
「さっさと寝ろよ。朔は明日休みだよな」
「はい。おやすみなさい」
小声でなされた会話には、全員の声に疲労感が滲んでいた。
感謝と申し訳なさが込み上げるなか、深くお辞儀をして三階の部屋へと戻る。
水を絞った手拭いで体を拭き部屋着へと着替えた。
歩き続けて固くなったふくらはぎを軽く揉んでから布団に入る。
体は疲れているのに目は冴えていた。
御社、華闇、深淵——。今日知ったことが頭の中をぐるぐると駆け巡りすぐには寝付けそうにない。
深淵の、闇の世界のみんなが神様と呼ばれる人たちならば、天上——光の世界も実在し、光の神様も本当にいらっしゃるということになる。
天上、地上、深淵——。世界の仕組みを、わたしは何も知らなかった。
たとえユウたちが深淵の神様であったとしても、今まで通りでいいんだよね。
お別れの日が来るその時までは、わたしがあちらの世界に行くことも、許されるよね……。
わたしはいつの間にか眠っていたらしい。
話したいことがあったのだろう。
眠りの中で、闇の誰かがわたしの意識を誘おうとしていたのをおぼろげに覚えている。
わたしはその夜、闇の世界に渡ることができなかった。
必死に伸ばされた手を掴もうとはしたのだ。
しかし触れたはずの手の影はすぐに薄れて消えてしまい、また別の場所に現れた。
そんなことを繰り返しているうちに、朝の光がわたしを導こうとする手そのものを消し去ってしまった。
焦燥と恐怖に駆られながら、ひとり真っ白な世界を彷徨う。これはきっと夢だ。
足元が発光する水に浸かる。徐々に水位が増していき、わたしの体は光の海に飲まれて、——消えた。
真っ白な視界に飛び起きる。
いつもよりも明るい部屋。窓から差し込む光の強さに、起床時間はとうに過ぎてしまったことを知った。
完全に寝坊した。なのに全く眠れた気がしていない。
汗ばんだ体に外気が触れて寒気がひどい。
のろのろと寝台を出る。
部屋を開けると、台所前の机に朝食がすでに置かれていた。花歩さんが持ってきてくれたのだろう。
部屋に人が入っても目が覚めないなんて。
あんな夢を見るぐらいなら、いっそ物音で起きてしまいたかった。
身支度を整え朝食を摂り、厨房へ食器を返しに行く。
後片付けをしていた花歩さんには、体調を心配されてしまった。
寝坊の原因はただの夜更かしなので、心が痛い。
さらには花歩さんいわく、明将さんと雪根さんもまだ起きていないらしくて、その事実が心の痛みに拍車をかけた。
今日は休日なのがせめてもの救いだ。
食堂を後にして部屋に戻るために階段へ向かっていると、宮城さんが前方から歩いてきた。自然と緊張で体が強張る。
「……おはようございます」
立ち止まった宮城さんは鋭い視線をわたしに向けた。
「わかっただろう」
何を。とわたしが聞く前に彼はさらに続ける。
「お前がいなくても、深淵からはみ出したやつは元に戻せる」
……ああ、そういうことか。
宮城さんの昨夜の指示は、そこに行き着くんだ。
「これ以上は無駄なことはやめて大人しくしてろ」
彼は結局、これが言いたかったんだ。
「……無駄じゃないです」
思い出されるのは、妖に喰われて消えた闇の子の悲鳴。
考える前に、言葉が出ていた。
「ああ?」
宮城さんの声に苛立ちが混ざる。
ここで怯むわけにはいかない。
「助ける人が別にいるから、わたしは助けなくていい……。見捨てていいとは、思えません」
「聞き分けろ。少しは自分の利益を考えて動けと言ってんだ。深淵に味方したところでお前に得はないだろう」
違う。損得の問題じゃない。
利益がないなら闇のみんなとの関係を考えろ?
そんな要求、聞き入れられるはずがない。
「わたしが役に立ちたくて、助けたいと思うのは……っ。大切なのは……、奥園でも、あなたでもないっ」
表情をなくした宮城さんに睨まれ、怖くて足がすくんだ。
宮城さんが大股でこちらへと踏み出す。近づかれた分だけ震える足は後退したが、すぐに背中が廊下の壁に着いて身動きが取れなくなった。
突き刺さるような威圧感に呼吸がまともにできない。
圧倒的な支配者はわたしと目を合わせたまま、廊下の床を指さした。
「お前が生きているのは、深淵じゃねえ。ここ、地上だ」
鋭く釣り上がった二つの目にわたしが映る。
宮城さんの瞳の奥に、普通の人ではあり得ない業火が見えた。
静かな怒りに萎縮して動けない。
これ以上怒らせたら焼き殺されると、本気で思った。
「わかったなら日の元の民として、義務を果たせ」
身を縮めるわたしを置いて、宮城さんは立ち去ってゆく。
彼が背中を向けただけで威圧感が消えた。
全身の力が抜けて、廊下に座り込む。
ちゃんと息ができていることにほっとした。
「すごいね。宮城さんにあんな啖呵が切れるなんて」
いきなり声がかかり驚きに体が跳ねる。
上を見ると割と近い位置に、篤志さんと啓斗さんが立っていた。
篤志さんの言葉からして、宮城さんとのやり取りは全部聞かれていたのだろう。
「あんた何様?」
啓斗さんはわたしに対する嫌悪感を隠さない。
「アキさんと雪根さんの夜の時間を奪って。しかも宮城さんにその態度。あんたってそんなに偉いの?」
冷たく言い捨てて、彼はさっさと階段を登ってしまった。
啓斗さんの態度に篤志さんは肩をすくめて苦笑する。そして未だに立てないでいるわたしの前にしゃがんだ。
「大丈夫?」
「……腰が抜けて」
正直に告げると、篤志さんはきょとんと目を丸くした後にけらけらと笑った。
「そりゃ怖いでしょ。宮城さんには俺も怒られたくねえもん。とりあえず部屋まで送るよ」
彼が肩を貸してくれたおかげで、わたしはなんとか部屋へ戻れた。
篤志さんは相変わらず眩しかったけど。
優しさに救われた。




