8.華闇の御社(上)
日の元の神様はこの国の周辺海域の天候を操り、民を護っている。
神様が日の元にとって脅威とみなしたのは外つ国の人間か。もしくは、外の世界の別の脅威か……。果たしてわたしたちは何から護られているのか、詳しいことはわからない。
だけど日の元の神様は、外つ国よりもたらされる「何か」が、この国にとって悪いものだと判断しているのだ。
神様の考えは古来より神託として地上に伝えられ、日の元の民はそれを当然のように受け入れてきた。
外つ国の排除が神様の意思ならば、物事の良し悪しを決める思考を神様は持っている、ということにならないか。
外つ国が日の元の民にとって「悪いもの」と判断できる独自の基準も同様に——。
そもそも神様はどうして、地上に干渉して日の元を護ろうとしているのか。
神様が日の元を愛しているから?
それとも神様自身の……天上の都合なの?
天上にいらっしゃる神様とは一体……?
神様も人と同じで、生きているの?
心地よい眠りの途中で、意識が肉体から離れていく。
重力による縛りが消えて、慣れた気配に導かれる。身を任せていると次第に五感が溶けていき、別の種類の感覚が研ぎ澄まされた。
そんな状態がしばらく続き、気がつくとわたしは静寂と黒が支配する、闇の世界に立っていた。
「お、ま、え、は〜!」
ここに来れたことに喜んでいると、そばにいたユウの気配が強くなった。
怒気を孕んだひょろ長い影に至近距離で見下ろされてぎょっとする。
「夜は外に出るなと俺は伝えたはずだが、この耳は節穴か? 自分から危険に突っ込んでいきやがって。しかも反省してねえだろ!」
「痛い痛い痛い! ……痛い? のかわからないけど、多分痛い!」
頭部に感じる強烈な刺激に逃れようともがくも、ユウは許してくれない。
ユウが与えてくるのは痛覚じゃない。強烈な圧迫に近い感覚だけど。気分的には頭の左右を拳で挟んでぐりぐりされているみたいだ。
やられている自分を客観的に想像してしまい、精神的にも非常に痛かった。
お仕置きか。この苦行はお仕置きなのか。
闇の世界でユウの力に敵うはずもなく、されるがままだったわたしを誰かが強く引っ張った。
「おやめなさい。八つ当たりなんて矮小なこと、朔にしないの」
「……アイ」
「久しぶりね、朔。あなたが無事で何よりだわ」
存在を認識した途端、影が若い女性の形に変化する。
柔らかい気配に抱き込まれてほっとした。
アイは胸の膨らみや、腰のくびれがある、女性を象った存在だ。性別に関してはわたしが彼女に抱いた印象によって決まっているわけだけど。
今よりずっと子どもだったころ。アイは自分とは歳の離れた、しっかりとした大人の女性だと思っていた。アイの形はそんなわたしの想像が作り出したものだ。
みんなの影は、出会った時のまま変化していない。
彼らは老いることのない、永遠を生きる存在だと、わたしが既に認識してしまっているからだ。
闇の中で、月日とともにわたしだけが成長していく。
大人の女性であるアイの影に、わたしの姿は段々と近づいている。
だけどわたしがどんなに大きくなっても、アイのようになれる気はしない。
アイは優しくて、包容力のあるヒトだ。
彼女の姿には、幼いころのわたしが母に抱いていた心象が強く影響している。当時は何度、アイをお母さんみたいだと思ったことか。
あのころの母は、今よりずっと優しかった。
アイはわたしを甘やかすのが上手い。
「好きな子をいじめるなんて、子供の真似事かしら。図体がでかくて力があっても、それだけじゃあ、ねえ?」
「ああ? そうやって、てめえらが甘やかすからそいつは忠告無視して自分から危険に突っ込んでいったんだろう。俺が怒って何が悪い。それに今のうちにこいつをしっかり躾とかねえと、取り返しがつかないことになってからじゃ遅いんだよ」
「まあ! 躾ですって!? あなたは朔のことを何だと思ってるの!」
そして彼女は、ユウと非常に仲が悪かった。
怒りの感情に比例して増幅したユウの力はわたしにとって強すぎる。
わたしは成長するにつれて、闇の世界で直接触れるユウの力に耐えられなくなってきている。
不可抗力だし、彼に非はない。
次第に闇の世界から疎外されていく自分が嫌になる。
こんな理由でユウたちの側にいられないなんて、認めたくない。
力に押しつぶされそうな苦しさは、まだ我慢できた。
ユウとアイの痴話喧嘩とも言える言い争いを聞いていると、周囲の闇がまた一段と濃くなった。
温もりと慈しみに溢れた、大きな存在に包まれる。
それは深い霧の中のような。もしくは息のできる水の中をたゆたうような。
形のない、意思だけの存在。
彼もまた闇の住人のひとりだ。
そのヒトにユウたちみたいな人型の影はない。
というよりも、あまりにも大きく、深く、とても濃い黒色を纏う彼の具体的な姿を思い描くには、今も昔もわたしの想像力が足りてない。
「……ウミ」
名前を呼ぶと、周囲の気配が揺れた。
ウミから伝わってきたのは、心配と憤り。そしてわたしが無事であったことへの安堵と慈愛。
言葉ではないたくさんの感情が直接心に響いてくる。
「……ごめんなさい」
ウミの意思は規模が大きすぎて、言葉に変換されて届くことはない。だけどたとえ彼と会話ができなくても、思いは通わせられる。
むしろ意思の伝達方法が言葉じゃない分、ウミの気持ちはわたしの中に抵抗なく入り込んでくる。皮肉や遠回しの気遣いはない、真っ直ぐな愛情を前にして、気丈に振る舞えるわけがない。
ユウの言いつけを破り夜にひとりで闇の子を探しに行ったことを、間違いとは認めたくない。
でも、それが正しい行動だったと言い切れないのも、十分承知している。
わたしが無茶をしたせいで、みんなに心配をかけてしまった。
ユウが怒るのも当然だ。
ただ、わたしは——。
「……みんなの役に、立ちたかったの」
わたしにしかできない。
あちらの世界に手を出せないみんなに代わって、地上に落とされた闇の子を助けたかった。
「なんで、ウミが相手だとお前は聞き分けがいいんだ」
「積み重ねてきた徳の差でしょう。羨ましいならまずは好きな子をいじめるその癖を治しなさいよ」
ユウの不満に、アイが言い返す。
ウミに包まれていると、二人の声もぼんやりと霞がかかったように聞き取りづらい
「……朔」
ウミの気配が薄くなった。
わたしの正面にアイがきて、両手で頬を包まれる。
「わたしたちも朔が大好きよ。力になりたいって思ってくれる、朔の気持ちはとても嬉しくて、愛おしいわ」
アイとわたしの額が合わさる。
人でないはずの彼女から、人の体温を感じた気がした。
「……でも、だからこそ。あなたには自分の身を一番に考えて欲しいの。向こうで朔が無事でいられないと、意味がないのよ」
言葉とともに伝わってくる感情には、哀感の色が混ざっていた。
「……うん。ごめんなさい」
みんなをこんなに悲しませてしまうなら、わたしは行動を改めないといけない。
気を落として反省していると、ユウの気配が強まる。
「今日はやけに素直だな。向こうでクソウサギにいじめられたか?」
「そんな言い方をするから、あんたは嫌われるのよ」
抱きしめてくれるアイの腕の中で、違うと否定した。
ユウとの遠慮のないおしゃべりは、いつもわたしに元気をくれる。
「そういうわけじゃないの。むしろ、赤兎班の皆さんには良くしてもらっていると思う」
花歩さんや雪根さんはいつも気を遣ってくれているし、明将さんもわたしを奥園の人間ではなく、一人の人として見てくれる。
未来に対する不安は大きいけど、生活に慣れてしまえば奥園の家と居心地にそこまで大した差はない。
わたしの言い分に、ユウが腑に落ちないと言わんばかりに首をかしげた。
「何言ってやがんだ。地上にいるウサギは一匹だけだろう」
「一匹って、ユウの方こそ何言ってるのよ」
ウサギの数え方は一羽二羽だ、とか。
人に対して一匹なんて言い方はどうなの、とか。
いろいろ言いたいことはあったけど、それ以前の問題がある気がする。
ユウとわたしの会話は、成立しているようで何かが噛み合っていない。
「赤兎……、アカウサギって、組織の名称を示しているんじゃないの?」
「ああ? 組織? どういうことだ?」
いや……、それはわたしも言いたいんだけど。
行き違いにその場にいる全員が沈黙し、微妙な空気が流れる。
闇の世界とわたしの生きる世界。
ただでさえ常識が違うのだ。どうやって情報の擦り合わせをすべきか思案していると、ユウが話を打ち切った。
おそらく考えるのが面倒になったのだろう。
「まあいい。次に俺たちのことで奴がとやかくぬかしてきたら言ってやれ。地上への過干渉についてはてめえにとやかく言われる筋合いはねえ、とな」
「そんなの言えるわけがないでしょう」
彼は人質という立場を何だと思っているのか。
闇の世界にも力の優劣や序列といった大まかな概念は存在した。
わたしの知る中で最も力が強く、みんなへの発言力を持っているのはウミだ。
しかし、だからといってウミが闇の世界の統治者という感じでもなく、みんなの力関係はそこまではっきりしていない。
一番声が大きくて、いつもみんなの連携の中心にいるのはユウだけど、誰もユウを敬ったりはしてないし。
ユウも自身に対するぞんざいな態度を、当然のことと受け止めている節がある。
導く者がいなくても、彼らは闇の世界の平穏のために協力し合っていた。
みんなは基本的に、世界の維持に全力だった。
闇の世界に、発展を望む者はいない。
前進がない世界では、流行や最先端の技術を追いかける必要はない。情報を拾い続けなくても、社会から置いてけぼりにされない。
闇の世界では、夜に繋がる地上の気配を感じることも立派な娯楽だった。
ユウたちの命に寿命はなく、みんなはこの先もずっと変わらず、漆黒の中に存在し続ける。
平穏と引き換えに進歩を捨てた。闇の世界は、そういうところだ。
望んでいなくても子供から大人へと変化するわたしは、いずれみんなを追い越してしまう……。
…………。
………………朝だ。
少し前までみんなと一緒にいたはずなのに、気づいたら戻ってきてしまっていた。
夢を見ていたかのように、別れ際の記憶はおぼろげだ。
寝台の上。うっすらと開いた瞳に光が眩しくて、手の甲で目を隠す。
「あー……」
やってしまった。
体に乗った布団の重み。
窓の外にいる鳥の鳴き声。
空気を吸い込んで膨らむ肺。
様々な感覚に意識を向けながら、気だるい体を起こす。
また、みんなにさよならを言えずに戻ってきてしまった。
あの世界へと行けるのは、昨夜が最後だったかもしれないのに。
せめてお別れの時は、ちゃんとみんなにありがとうとさよならを言おうって決めていたのに。最近のわたしは、戻ろうと決めて自分の意思で肉体に戻れる確率が、半分にも満たない。
明らかに、みんなとの距離が遠ざかっている。
別れを間近に感じるたびに、わたしは過去の選択が正しかったのかを、自分自身に問いただすのだった。
*
皐月も終わりに差し掛かると、柔らかな日差しに鋭さが混ざりはじめた。
山の明るい緑は色濃く染まり、風に冷たさを感じなくなった。
赤兎の本部、わたしの寝泊まりする部屋の窓から見える田んぼでは、稲が順調に青々と成長している。
季節が変わろうとしている今も、わたしの生活に変化はない。
義父や母からの連絡はなく、現状を知らされないまま、赤兎の本部と学校を行き来する生活が続いていた。
今日も明将さんと雪根さんに連れられて、学校へ行くために本部の玄関口から外に出た。
ちょうどその時。正面の駐車場に見慣れない車を見つけた。
朝の出勤や通学の時間帯。来客にしては早すぎる気がする。
「戻ってきたか」
明将さんが車に向かって手をあげる。
わたしの斜め後ろで、雪根さんも軽く会釈した。
「よーお。お疲れさん」
運転席にいた男性が扉を開けて車を降りる。
よく響く声の、活気にあふれた人だった。
とても明るく、眩しい人。男性の顔を見ようと試みるも、なぜか目がちかちかして視点を合わせられない。
失礼じゃない程度に目を細めて、ようやくその人の容姿を捉えることができた。
薄い茶色の髪をした、人懐っこそうな垂れ目が印象的な人。どことなく顔立ちが穂高さんに似ている気がする。
続いて助手席にいた人も車を降り、明将さんと雪根さんに目礼した。
こちらは線の細い、赤毛の男性だった。表情の乏しい顔立ちは幼く、もしかしたらわたしよりも年下なのかもしれない。
彼はわたしを一瞥し、あからさまな態度で嫌そうに顔を背けた。
悪意のない純粋な拒絶だ。
あまり悪い気はしない。
むしろどことなく親近感を覚えた。
「まったく。お前らがもうちょっと仕事に手こずってくれたら、清たちがこっちの手伝いに来なかったってのによ。おかげで終盤、気は抜けないはサボれないわで、精神的な疲労度が半端なかったぞ」
「俺に言うなよ。つーかサボんな」
茶髪の男性の恨言に明将さんがつっこんだ。
「……清?」
知らない名前に首を傾げる。
「穂高さんの名前。こっちの人は穂高篤志さん。二人は従兄弟だから、家名が一緒なんだよ」
話についていけないわたしに、雪根さんがこっそりと補足してくれた。
「あの、それは、わたしが知ってもいいのですか?」
聞いたからには生かして返せないとか。そういう展開は勘弁して欲しいのだけど。
恐々とするわたしに、別に秘密でもないからそんなに怯えなくて大丈夫だと、雪根さんは笑いを噛み殺しながら答えた。
「大抵の場合、穂高さんといえば清さんの方を指していて、この人のことはみんな篤志さんって呼んでるよ」
「まあ、清のところが宗家にあたるから、それは仕方がないことなんだろうけどな」
雪根さんの小声を耳聡く拾った篤志さんがわたしの前に来る。
「君が奥園のとこの娘さん?」
「……はい。奥園、朔といいます」
名乗って軽く頭を下げる。
篤志さんを間近で見ると、剥き出しの電球を近づけられたみたいに一点に光が集中して、周囲への注意が散漫になる。
やっぱり、この人はすごく明るい。
「なんだ。わがままなお嬢様に手を焼いているかと思ったのに、大人しそうな子じゃんか」
「そうでもねえぞ。予想の斜め上に突っ走りやがるからな」
明将さんめ。余計なことを。
「アキ、そろそろ行かないと。朔が遅刻しちゃう」
雪根さんがさりげなくわたしの腕を引いて篤志さんから遠ざけてくれた。
正直助かった。光源からは目が離せたというのに、余韻がひどくて視界が白く霞んでいる。
「篤志さん、俺たちも宮城さんに挨拶しないと」
助手席にいた男性が抑揚のない声でそう言って、ひとり本部の玄関へと行ってしまう。
その後ろ姿に苦笑した篤志さんは、またなと手を軽く振って、建物の中へと男性を追いかけて行った。
登校中の車内はなんとも言えない微妙な空気となった。
出発前に初対面の人に二人会っただけだというのに、気疲れがひどい。
「朝から騒がしかったね。大丈夫?」
運転席にいる雪根さんの気遣いには、小さく頷いて応えた。
「これからもうちょっと本部に人が増えるけど、あそこまでぐいぐい突っ込んで来る人は篤志さんぐらいだから」
それは、慰めなのか励ましなのか。
今の環境にようやく慣れたというのに、知らない人が増えるという事実に気が重くなる。
現実逃避気味に窓の外の景色を眺めた。
晴天の空にまんまるの太陽が浮かんでいた。さんさんと輝く光は、まさにさっきの篤志さんのようだ。
「……なんというか、すごく眩しい人でしたね」
光の塊。わたしとは真逆の属性の人。
そんな意味を込めてなんとなく呟いたつもりだったけど、なぜか車内に緊張が走った。
足を組んで我関せずと隣に座っていた明将さんが目つきを鋭くした。
「どっちだ?」
「どっち、って……」
「朔が眩しいと感じたのは、篤志と啓斗のどっちのことだ?」
啓斗とは、篤志さんと一緒にいた男性の名前だろうか。
「篤志さん、……ですが」
それの何が引っかかるのだろう。
眩しいなんて、ただのわたしの主観でしかない。
明将さんは難しい顔で考え込んでしまって、質問の意図を聞き返す機会を見失ってしまった。
「……そっか」
運転席から聞こえた雪根さんの声にも複雑な心境が垣間見られて、なんとなく、赤兎班の内情に関わる内容なのだと理解した。
この件に、わたしが深く関わってはいけない。
その先は誰も言葉を発することなく、間も無く車は学校に到着した。




