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はじまり【月の下へ戻る】




光のない世界では、周囲を見渡すことすらかなわない。










一面に広がる、黒、黒、黒——。



少年は眼前の闇に戸惑い、そして怯えた。

一寸先には何があるのか。

視覚はその場所において全く役に立たず、些細な情報さえ汲み取ることができなかった。


今いるところは広大な大地なのか、はたまた密閉された室内なのか。それすらも、彼には判別ができない。


そもそもなぜ自分はここにいるのか。

何の前触れもなく訪れた漆黒に、彼は真っ先に自身の目の異常を疑った。いや、目だけではない。耳もだ。

息を殺しても周囲からは物音ひとつ聞こえない。

静寂の中、心臓の鼓動がやけに目立った。



——ここは、どこ?



恐怖と孤独を紛らわせようと口を開いた。

何もない場所では、自分の声しか慰めになりそうなものが思いつかなかった。


だが……。



「キィ……ゥ」



彼は自らの口から出た音を、しっかりと両耳で聞いた。それは想定していたよく知る声ではなく。

どういうわけか高い鳴き声であった。



「キィ……、キュウ、ウ……」



おかしい。舌が思うように動かない。

声帯を震わせて出てくる音は、言葉には到底程遠い。

混乱する頭に蓄積していく不安を少しでも振り払おうと、少年は俯きながら勢いよく首を振る。

その時、彼はこの黒の世界で、初めて黒以外の色を目にした。


肌色に近い、明るい茶色。

足元に見えた、小さな獣の前脚ふたつ。


これはなんだ。

もっとよく見ようと顔を下方に近づける。

身をかがめるよりも先に獣の脚が目の前に迫り、彼は息を呑んだ。同時に背中の毛が逆立つ。


信じられない。

正体不明の獣の脚は、少年の意思に従い動かせた。


顔から前脚をゆっくりと離す。見えない地面に肉球が触れた。

少年はぎこちない動作で首を回して胴をひねり、自らがどんな姿をしているのかを恐る恐る確かめた。


前脚の付け根、腹の下、後ろ脚、ふさふさの尻尾。

脚を覆う、毛足の短いちくちくとした茶色の毛。脚先にある、黒くて小さな丸まった爪。


明らかに人の姿をしていない。

顔の構造までは把握できないが、こんな体、どう考えても現実にはあり得ないだろう。


自分はおかしな夢を見ているのだと思いたかった。

焦る気持ちを抑えつつ、目をきつく閉じる。

途端に黒い世界にあった小さな茶色い脚が見えなくなった。





ここは一体どこなのか。

なぜ、こんなところにいるのか。

この獣の体は何だ……。


こうなる以前の記憶はちゃんとある。塾が終わって家に帰っている途中だった。

名前もはっきりと覚えている。自分がどんな顔をしていたのかも、少年は頭の中で簡単に思い描けた。

自分は間違っても四足歩行の獣などではない。

ならばこの状況はなんだ。


途方もない暗闇の中に、ひとり佇む。

恐怖で体が震えた。鳥肌がたつように背中の毛が逆立っていく。

こんな体、知らない。



——僕は人間のはずなのに……。



ここでじっとしていてもしょうがない。

少しでも事態を好転させるため、周囲を探索しようと恐る恐る一歩を踏み出してみた。

少年の意思と獣の肉体は正確に連動し、出された前脚に手繰り寄せられて後ろ脚も動く。


これは本能で成し得る行為なのか。

自然にできてしまった四足歩行に彼は遅れて驚愕し、再び立ち止まった。


意地で人間としての二足歩行に挑戦しようとしたが、小さな後ろ脚ふたつではとても全身の体重を支えられそうにない。

地面をはいつくばる獣の歩き方のほうが、格段に動きやすかった。

なぜ、そんな移動方法を知っているのか。



——違う、僕は人間だ!



むきになって、後ろ脚にできる限りの力を込めた。

前脚で地面を蹴って体を立たせるも体勢が安定せず、その状態を長く維持できそうにない。

右へ左へとよろけ、ついには耐えきれず前のめりになる。

顔面からの転倒を防ぐため、とっさに前脚を地面に付こうとして——彼は、落ちた。


前脚を着地しようとしたところに地面がなかったのだ。

そもそもここは闇の世界。地上と上空の境目すら見分けられないというのに、地面に穴が開いていたとしてもわかるはずがない。


突然の浮遊感に胸の奥がぞわぞわして、頭が真っ白になる。

息ができない。


少年に迂闊さを悔やむ余裕はない。

すぐに全身に力を入れて目をきつく閉じ、衝撃を覚悟してできるだけ体を丸めて小さくなる。尻尾が顔に触れた。


よほど高いところから落ちたのか、まだ地面に衝突しない。

時間の経過とともに、頭は冷静さを取り戻しつつある。

相当な高低差のある落下だ。もう助からないかもしれない。

身近に感じた死の気配にきつく歯を食いしばった。


それからしばらくの時が流れ、極限の緊張状態による疲れが出始めたころ、彼ははたと気づく。

いつの間にかあの、落下の感覚が消えていた。

頭を上げて、ゆっくりと四つの脚を胴の下でもぞもぞと動かす。

体を支えるために必要な地面は、彼の下に確かにあった。


あの落下は何だったのかと思うぐらい、呆気ない底への到着だ。そもそもいつ地面にたどり着いたのかもわからない。

辺りは依然として闇のまま。

振り出しに戻ってしまった。


足元に地面が見えないのも相変わらず。そんなところに、自分は四本の脚で立っている。


少年の勇気は、先ほどの落下で完全に砕かれた。

一歩でも動けば、再び奈落の底に落ちてしまうかもしれない。

そう思うと、もうここから動けない。





いつまでそうしていただろう。

暗闇の中では時間の感覚があやふやだ。

おおよその常識とかけ離れたことが起こっている。全て悪い夢だと思いたかった。


ここには自身の他に誰かいないのか。

いたとして、それは助けてくれる者なのだろうか。

助けを呼ぼうにも、口からは言葉が出ない。代わりに発せられるのは、キュウ……、というなんとも情けない獣の鳴き声のみ。


物音ひとつ聞こえない、全体像のつかめない闇の世界。

こんなところに、果たして出口はあるのか……?


不安が心を侵食する。



——しっかりしろ!



己を奮い立たせたところで、見える景色は変わらずの黒。

どうすることもできない現実に体がガクガクと震えた。


なんでもいい。何か行動をしなければ。

こうしていても状況は変わらない。

頭ではわかっていても、一歩が踏み出せない。


……しっかり、しないと。

僕は弱い人間ではないはずだ。



いまは、人間かどうかすら怪しい。





    *





いつ気が狂ってもおかしくない虚無の空間。

うずくまる少年の元に、やがて変化が訪れる。


といっても、目に見える出来事があったわけではない。視界は依然として獣の肉体しか映さず、辺りは真っ暗のままだ。


しかし彼にはわかった。


近くに何かがいる——と。


少年はいつの間にか、四方八方を無数の気配に取り囲まれていた。

姿は見えない。足音もない。だけど少年を囲う何かは、強烈な存在感を与えてくる。

重くのしかかる圧力に押しつぶされそうだ。


こちらの様子を窺っているのか。それらは一定の距離をおいて近づいてこない。

得体の知れない存在に怯え、情けない鳴き声で彼は唸った。



「ちょっと、怖がらせないで」



その時。どこからか、子供の声がした。

はっきりした口調、聞き取れる言葉。驚いて辺りを見渡したが、人間の姿はどこにもない。


少年がきょろきょろしながら焦る。刹那、腹部に圧迫を感じて脚が地面から離れた。

胴に触れる指の感触。

びくりと四肢がはねた直後に硬直する。恐怖と驚きに身を固くしていると、毛の流れにそって背中にゆっくりと重みが動いた。


そんな状態がしばらく続いて、ようやく推測に至った。



——僕は誰かに持ち上げられて、背中を撫でられている?



「怯えないで。安心して、あなたはちゃんと帰れるから」



先程と同じ声が語りかけてきた。

落ち着いてはいるが、よく聞けばまだあどけない、女の子の声だ。

どうやら少年は彼女の腕の中に納まっているらしい。


はっきりと確信が持てないのは、自身を抱きかかえる手はおろか彼女の顔すらも、少年には目視することができなかったからだ。


触れてくる少女の手には、体温がない。だけど柔らかい人肌と、撫でられる指の感触はあった。

自分を抱えるものは、きっと人の形をしている。

少年は僅かに芽生えた希望に縋り、少女に身を預けた。



波に漂うかのように、体が揺れる。

少女の声をした正体不明の何かは、少年を抱きかかえどこかに向かって歩いている。


そんな彼女の後ろを、無数の気配がついてきた。



「ああ、彼らは気にしないで。みんな、あなたが心配で様子を見に来ただけだから」



少女の言葉に、気配がざわめく。

目には見えない何者かたちの存在感が急に増した。

妙な圧迫感が体を締め付ける。

なんとなく、気配たちは「それは違う」と否定している気がした。


くすくすと、少女が笑う。



「みんな、素直じゃないだけ。本当はすごく優しいのにね」



聞こえよがしに彼女は明るくそう言い放った。


自分たちはどこへ向かっているのか。

行きついた先で、ここから出られる保証はない。

だけど不思議なことに、彼は身を委ねる彼女に対しては警戒心を持てなかった。



「自分の手が見えるでしょう?」



少女に促されて、前脚を見る。

短い茶色の毛に覆われた、小さな爪がある獣の足だ。



「だったら大丈夫。この場所で自分のことが見れるのは、あなた自身が光を持っている証拠だよ」



……わたしには眩しすぎるくらい。


寂しそうな呟きを、彼は聞き逃さなかった。

励ましてくれる彼女に寄り添おうと、少年は彼女の顔があるであろう位置に前脚を伸ばそうとした。



「光があるから、あなたは地上に戻れるの」



しかし少女に触れる前に、移動していた彼女の足が止まり少年は地面へと降ろされた。


見上げれば、髪の長い少女の黒い影がぼんやりと揺れていた。

身体の大きさからして、年は10歳前後か。少年とそう変わらなそうだ。


少女はゆっくりと前方を指差す。

つられて目を向けると、遠くに小さな白い点が見えた。



「見えるかな、境目。あそこまで行けば、外に繋がっているから」



1歩、2歩……。


少女が少年から距離を取る。

小さな女の子の影は見えるのに、相変わらず付近にいる大勢の何者かたちは気配だけしか認識できず、目に映ることはない。


少年は白い点へ進むべきか迷いながら周囲を見渡し、答えを求めて少女を見上げた。

そして、ふと気付く。

少女の肩にも小さな気配があって、何かが乗っているのだ。自らの肩の上を撫でる仕草をしながら、少女は獣姿の少年を見下ろす。



「大丈夫。もう落ちたり、つまづいたりすることはないよ。あなたの足は、ちゃんと地面を踏みしめることができる」



少女の言葉に背中を押され、彼はゆっくりと進み出す。

未知の場所へ進むのは怖い。彼女も共に来てほしい、と切実に思った。

同時に、それは叶わぬことだと、心のどこかで不思議とわかってしまった。


少女が示した小さな点は近付くにつれ、鋭い光線になる。

目を開けていられないほど、強い光だった。


……そうか、と。唐突に湧いた答えに少年は納得し、一瞬脚を止めて少女を振り返る。

おぼろげにも少女の輪郭を捉える事が出来たのは、あの光があったからだ。


光の点は次第に大きくなってゆく。

闇を照らす唯一の光に向かい彼は無我夢中で走った。





    *





まるで、狐に化かされたようだ。


激しく息を切らせた少年は、いつの間にか見知った夜の公園にいた。


肌をなでる風。

あちこちで響く虫の声。

月明かりに照らされた遊具や植木。



「…………戻れた……?」



口を開けて出た音は、声帯を使って発せられた自身の声だった。

汗ばんだ手のひらは、人間のもの。

怯えながら振り返った背後には、垣根に挟まれた砂利道が続くだけ。


おかしな夢を、見ていたのだろうか……。


早く帰らないと母に怒られる。とにかく家を目指そう。

額の汗をぬぐって歩き出す。


人気のない遊歩道をふらふらとした足取りで進みながら、ふと少年は夜空を見上げた。


晴れた夜空に、満点の星が広がる。

星々の瞬きを霞ませる、まんまるの光にはっとする。


確信はない。だけど唐突に理解した。


暗闇の世界で、自身が必死にすがって駆けたあのまばゆい光。


闇の中だったから、眩しいと思った。

光にあふれたこの世界では、あんなに小さく弱いものなのに。


あのとき、しるべとなった丸くて白い小さな点。




——あれはきっと、満月の光だったのだ。






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