馬鹿と天才は紙一重
とある国のとあるところに、1人の天才科学者がいた。
彼は数々の大発見をし、数々の大発明をし、巨万の富を得た。
彼は嘆いた。彼の発明によって悲しみにくれる人々がいることを。
「何故だ…… 俺の発明はみんなを幸せにするためものなんだ!」
彼は考えた。何故人々が悲しんでいるのかを。そして気づいた。彼の発明品が戦争で使われてしまっているからだと。彼の発明品が軍事転用され、多くの人々がその家族を殺され、そのせいで悲しむ人がいるのだと。
「そうだ…… 世界から戦争を無くせばいいのだ! 戦争が無ければ悲しむ人もいなくなる!」
彼は考えた。どうすれば世界から戦争が無くなるかを。彼は天才だった。これは天才にしかできない発明だった。これは天才であるが故の発想だった。彼の頭に電流が走った。その瞬間彼はしっぽを踏まれた猫のように飛び上がり、その勢いのまま実験を始めた。寝食を忘れ、昼夜を問わず、研究にあけくれること1ヶ月。実験室から出てきた彼は「やったぞ!やったぞ!」と叫びその場で小躍りしてからぶっ倒れた。
助手に叱られながら休養すること1週間。体調も回復した彼はその発明品を大々的に発表した。
『死の薬』
それこそが彼渾身の大発明だった。このニュースは光の速さで全世界を駆けめぐり、多くの人間を震撼させた。あまりに恐ろしいその名詞は数多の非難の声を生み、大きなうねりを生み、
世界中の報道関係者が津波レベルで彼の研究所の門前に押し寄せることとなった。
『マッドサイエンティスト』『生ける死神』
彼への誹謗中傷は数知れず、新聞もテレビも勿論週刊誌も彼を格好の餌として叩いた。
研究所が報道関係者で十重二十重に取り囲まれても彼はいつも通りコーヒーを飲んでいた。助手はびっくり仰天して右往左往したあげく気絶し、交通整理と近隣住民の安全確保のために機動隊が出動しても、彼は冷や汗1つかくことなくそれどころか不敵な笑みまで浮かべていた。
陽も暮れ始めいいかげん報道関係者が疲れてきた頃、やっとこさ彼はソファから立ち上がり、家の外に出て報道陣の前に姿を現した。フラッシュの点滅にご注意くださいとテロップで画面を覆い尽くさないと網膜が爆発するレベルのフラッシュがたかれ、そして彼は全世界に向けこう言い放った。「この発明で世界は平和になるのだ!」と。
そして彼は再び世界を震撼させた! なぜなら死の薬を米軍に売ったのだから──
『死神と悪魔が手を組んだ』『科学者が虐殺に手を貸した』
ありとあらゆるメディアが彼を罵った。平和とは逆のベクトルの行為ではないかと助手ですら疑問を抱いた。
米軍は全部隊に死の薬を配備した。中国がここぞとばかりにアメリカを煽った。北朝鮮がミサイルを発射し、日本は「遺憾の意を表する」とコメントした。すると本当に戦争が止んだ。戦場で米軍の捕虜になればあの薬で殺されると全武装集団が怖気づいたからだ。米軍は世界の警察だ。死の薬を手にしたアメリカと敵対したい勢力など世界のどこにも存在しなかった。
彼は喜んだ。地球上の全戦争が止んだからだ。これで誰も殺されない、これで誰も悲しまない。俺は遂に世界を平和にする発明をしたのだと狂喜乱舞した。彼を「全人類の敵」と呼んでいたマスメディアは今までの論調をかなぐり捨てて彼を賞賛し、助手は流石は天才科学者だと胸をなで下ろした。
国際的テロ組織が、過激派組織が、独裁国家が、自分たちも死の薬が欲しいと研究を始めた。しかし彼らがどんなに人材を集め資金を投入してもそんな薬など作ることはできなかった。ただただ札束をドブに捨てただけだった。地球上の何人たりとも誰も天才科学者には敵わない。三人寄れば文殊の知恵とは言うが三万人寄っても彼には勝てないのであった。かくして彼は世界中の武装勢力からその身を狙われることとなった。彼の研究所の前には新しく交番が建てられ、警察による24時間年中無休の警備体制が敷かれた。
薬を自分で作ることもできず、科学者を拉致することもできない武装勢力は考えた。どうすればあの薬を手に入れられるかを。やがて彼らは気づいた。科学者から奪えないなら米軍から奪えばいいと。ある者はパラシュートで空から、ある者はトンネルを掘って地下から、ある者は車を使って正面から、米軍の補給基地を襲った。そして当然の結果だが失敗して米軍の捕虜となった。米軍は見せしめとして捕虜に薬を投与した。薬の効果は本物だった。一般市民も、武装勢力も、当の米軍も驚愕した。『死の薬』は敵対者を驚かすための偽物では無かったのだ。彼らもその薬が放つ恐ろしさに心の中では偽物だろうと思っていた、いや思っていたかったのである。
世間から見えないところでは暴風雨が吹き荒れていたが、普通の人からすれば世界はこの上なく平和だった。その平和は圧倒的な力の誇示によるものであったが。死の薬は戦争を抑止する最大の武器になった。原爆は使用すれば地球環境を大きく破壊してしまう諸刃の剣であったが、死の薬は投与しても一切環境に影響を与えない。こうして、扱いも危険な核兵器は用済みとなり、世界から核の脅威は一掃された。とある北の独裁国家は地団駄踏んで悔しがったが所詮負け犬の遠吠えで、世界中が核廃絶の達成に沸いた。もちろん唯一の戦争被爆国である日本でも広島や長崎で記念式典が開かれ、原爆の被害者と遺族たちは涙を流して喜んだ。そうして世界はまた少し平和になった。核の廃棄方法を巡って論争が巻き起こったが、そんなことはこの喜びに比べれば些細なことでしかなかった。
全世界の人間が彼を賛美した。『現代の天才科学者はアインシュタインを超えた』とすら呼ばれるほどになった。彼は有頂天になった。ありとあらゆる人々が彼の前にひれ伏した。世界は彼の偉業に最高の栄誉をもって報いた。ノーベル平和賞と化学賞を同時に授賞したのだ。彼はスウェーデンのストックホルムで自らの研究成果の素晴らしさを自信満々に演説し、彼のスピーチを聴くために会場に詰めかけた大勢の聴衆はスタンディングオベーションで最大級の賛辞を贈った。
ノーベル平和賞の受賞理由が『死の薬の発明』だとはなんたる皮肉であろう。このときその事実に気づいていた人間はいったい世界で何人いたのだろうか?
止まない雨は無いように、終わらない晴れもまた存在しない。
事態は急展開を迎えた。死の薬を保管していた武器庫がテロ組織に破られてしまったのだ。米軍は戦闘機をスクランブル発進させてテロリストを追跡し、その拠点を空爆したが、薬を取り戻すことはできなかった。時のアメリカ政権はこの事実を隠蔽しようと画策したが、テロリストによる犯行声明によってその試みは失敗に終わった。世界は混乱に包まれた。アメリカは恥を忍んで他の国々にも協力を要請し、欧米の複数の大国が最新鋭の装備と大量の人員を投入してテロリストを捜索したが、彼らの行方も薬の行方も知れないままに終わった。
そして悲劇が起きた。テロリストが『死の薬』を実際に使用してしまったのだ。犠牲となったのはテロリストに拉致された哀れなアメリカ人だった。彼らはあろうことか使用する様子をネットで生放送した。その映像はホワイトハウスの知るところとなった。アメリカは激怒した。すぐさま艦隊を派遣し、テロ組織を壊滅させた。
テロ組織の基盤となっていた国は焦土と化したが、薬は四散してしまった。テロ組織はアメリカが攻めてくることを悟ると、もはやこれまでと自分たちはその薬を飲んで自殺し、残りの薬は他の反政府ゲリラやマフィアにバラ撒いていたからだ。
もはや薬の流通を止めることは不可能だろうとジャーナリストは書きたてた。
もっと悪いことに、テロ組織制圧のために部隊が出払っていた米軍基地からまたもや大量の薬が盗まれてしまった。今度こそ薬の流通を止めることが完全に不可能になった。
世界中の様々な武装組織に薬が行き渡ってしまったために、米軍は他の国の軍隊にも薬をむしろ積極的に提供した。こうして奇妙な緊張状態が出来上がった。どの勢力も一歩も動けなくなり、これが本当の冷戦だとすら言わしめた。ときどき数人の兵士が敵の捕虜になり、薬を投与されたあとに返還されるという出来事が生じた。各勢力はそうなってしまった仲間を救うため懸命に治療したが命を救うことはできなかった。当たり前である。誰も天才科学者の技術を上回ることはできないのだから。そして皆がやっと気づいた。そういえば解毒剤は無いのか?と。
結論からすれば解毒剤は存在する。所持しているのは天才科学者だけだが。天才科学者は解毒剤を提供することはしなかった。解毒剤があると知れれば死の薬は戦争の抑止力とはなり得ないからである。解毒剤は手に入らないと知ってなお、愚かな人類は殺し合いを続けた。
戦争はいかに敵の領土を削るかではなく、いかに敵の兵士を捕まえて殺すかが問われるようになった。国際連合では死の薬の使用を禁じる国際条約を締結することを提案したが、安保理で常任理事国が揃って拒否したため頓挫した。
古今東西、人類はあらゆる技術を戦争に用い、戦争のために開発された技術が国を富ませた。天才科学者の力をもってしても、ついぞ軍事利用を食い止めることはできなかったのである。死の薬を悪用して、死の雨を降らせることが可能になってしまった。死の雨が降ったところでは、生き者は全て死んでしまい、大地の草木も皆枯れてしまった。空から散布するだけでいいので非常に効率的で、サリンよりも放射能よりも強力な大量殺戮兵器の完成である。
この惑星上に地獄絵図が描き出された。いや、地獄という言葉では生ぬるいかもしれない。大勢の人々が死に、大勢の人々が悲しみにうちひしがれた。多くの大地が砂漠と化した。多くの人々が飢えと渇きに苦しみながら死んだ。『終わりの始まり』というのが最も正しいであろう。
人心は荒み、国土は荒廃した。古の歌人は国破れて山河ありと言ったが、国破れて山河なしというのが今の状況であった。それでも戦争は止まなかった。もはや戦争をしている当事者たちも何故戦争をしているのかわかっていないようだった。それでも戦争は止まなかった。ただただ惰性のままに何億もの人々が何故自分たちが殺されるのかもわからないまま死んでいった。
多くの人々が痛み苦しみにもだえながら息絶え、母は子をかばいながら死に、子が母を呼ぶ泣き声だけが響いた。生き残った人々は亡くなった人々を弔ってはいたが、あまりにも多くの人間が亡くなりすぎて悲しむという感情を忘れてしまった。生き残った人々は黙々と遺体を集めて火葬して日々を過ごし、自分が死ぬ番が来るのを待った。
天才科学者は嘆いた。自分の作り出した薬が何億人を殺し何十億人を悲しませたからだ。それでも彼は生きていた。生きることが自分がディストピアを生み出したことに対する償いであると思ったからである。彼はこれ以上人が死なないようにと、遂に解毒剤を世界中に行き渡らせた。もはや賞賛の声も批判の声も無く、沈黙だけが彼に答えた。ニュースと言ってもまた人が死んだことしか報じることが無いのでマスメディアは活動を停止していたのだ。
しかし、人々の精神は既に崩壊していた。人々は生きることよりも死ぬことを望んだ。将来を悲観した者は崖から飛び降り、ヒステリーをおこした者は壁に頭を打ちつけて死んだ。残った者は恥も外聞も捨てて己の欲望のままに生き、街は犯罪で溢れた。知恵の働く者は『死の薬』をマフィアから入手し、死にたい人々に高値で転売してボロ儲けした。政府は薬の転売を取り締まろうとしたが、あまりに犯罪が多すぎて警察は機能しておらず、政治家は転売ヤーから賄賂を渡されて黙認する始末であった。せめて解毒剤を投与してできるだけ命を救おうとした病院もあったが、荒廃した街の中では救急車も使えず救える命が失われていった。救われた人は改めて薬を飲んで自殺してしまった。終わりの見えない治療の果てに医者や看護師は疲弊し、彼らも薬を飲んで自殺した。
大人たちがこんな有り様で、どうして子供たちが健全に成長できるだろうか。学校ではいじめが蔓延した。なぜか死の薬を持っている子供たちの中で薬が効く直前で解毒剤を飲むチキンレースが流行した。給食に薬を混ぜて、生死を賭けたロシアンルーレットに教師すらそれに参加した。薬を飲んでの一家心中は後を絶たず、街には遺体が散乱した。
心ある者は既に皆死んでしまい、希望の光などとっくの昔に潰えた。世界がこのまま終焉に向かうことは明らかだった。もうトロッコは最後の分岐を通過してしまっていた。
天才科学者はまだ生きていた。彼は研究所の窓から街の惨状を見つめていた。街から人の気配が消えた。なんのことはない。人口が激減したからだ。彼は自らが人類を、ひいては地球を破滅に追いやったことを理解した。
天才科学者は自分が作った『死の薬』を飲んで自殺した。
そのあとのことは、神ですら知らない。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ~
_人人人人人_
> POISON <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
──すいません。