はじまりの場所
「・・・・?
にいちゃん・・・!?」
懐かしい風景、懐かしい手触りでした。
目で見る世界、
耳で聞く世界、
鼻で嗅ぐ世界、
舌で味わう世界、
体で触れる世界、
そのすべてがひとつになって、戻ってきたのです。
だけれども、にいちゃんは、その五つの合わさった世界のどこにも映っていないのです。
なのですが、そこに「いる」ことは、はっきりとわかりました。
さつきはこれがじぶんなのだ、
そう、こんなかんじだったのだと思い出しました。
その時です。
さつきの全身から何かとめどもなくあふれてくるものがあったのです。
そのときのことをどう表現したらよいのかわかりません。
「ひっ、ひっ、うぐっ、うわああああああああああん!」
さつきは、大声を出して泣いていました。
悲しかったのか、不安だったのか、
それとも、すべての感覚と世界が自分のところに戻ってきて安心したのでしょうか。
ひざを地面について、涙も鼻水もたらし、空に向かって顔を上げていました。
涙も声も止まりません。
さつきは、まるっきり赤ちゃんのようでした。
きっと、生まれたての赤ちゃんも初めてこの世界にやってきたときはこんな気持ちなのでしょうか。
そして、にいちゃんのみえないけれども、そばにいるところでのそれは恥ずかしいことでも情けないことでもなんでもなく、
本当の安心に包まれた嬉しいことなのでした。
「よし、よし、さつき。」
目にも見えず、触ることもできないにいちゃんは、おでこのあたりから触角のようなアンテナを出し、
そして、目をつぶって、微笑みました。
アンテナからあたたかい光が毛布の様にさつきを包みます。
周りの世界がどうなっているかなんて、どうでもよかった。
さつきの外にあったすべての世界は絵の具が混ざったようになって、
ただ、今ここには、自分自身が抱きしめられている感覚しかないのです。
お日様のような「うちゅうの綿毛」がさつきを包み込み、
さつきの心臓の鼓動と共鳴するように、ゆらゆらと心地よく海岸に寄せては引く波のように揺れています。
「うちゅうのはじまりの場所」にさつきはいたのです。
とてもとても心地よくて眠たくなりそうだったのですが、
その感覚は不思議で、
さつきが眠れば眠るほど、今まで眠っていた部分のさつきがくっきりはっきりと目を覚ましていくのでした。
目で聞いていました。
耳で嗅いでいました。
鼻と舌で世界を触っていました。
そして、ハートのあたたかさ。
これだけが、この世界で生きるための大切な空気や栄養分のようなものでした。
「どえらいこっちゃな」
と、かぎたろうが雲に寝っ転がりながらいいます。
しかし、その雲も空もかぎたろうの身体も砂が一瞬で落ちていくみたいにどこかに消えていきます。
だけれども、すべてがそこにあるのがわかります。
「やっと目をさましたかい。」
にいちゃんが言います。
音でも文字でもない言い方でした。
「ここは・・・?」
「うちゅうの始まりの場所」
「場所・・・?場所って何?
だって・・・ほら、ここには、空間もないし、時間も流れていない・・・『今』しかないじゃないの。
上も下もなく、北も南もない、長さや広さや重さだってない。
こんな不思議な『場所』ははじめて見たわ。」
さつきの言う通り、その「場所」は「何にもない場所」でした。
「ものが何一つおいていない場所」であることはもちろん、
本当の本当に「何もない」のです。
ただ真っ白とか真っ黒の空間が無限に広がっていて、それ以外のものが何にもないとかでもなく、
もちろん色もなければ、
上下左右、長さも広さも大きさもありません。
空間がないということはこういうことなのです。
そして、時間そのものがないのです。
ですから時計はもちろんのこと、星や太陽もその動きもありません。
「時間がない」といっても、ビデオを停止したようにずっと止まって動かない訳でもないし、流れてもいないのです。
「まったくわけがわからないわ。」
さつきは言いました。
「ちきゅうにいたころのすべてのものさしやものの見方がここではなくなってしまうのね。」
「ちきゅうだけでなく、うちゅうに存在するすべての尺度がここではないのだよ。」
音も文字もない場所でしたから、
さつきが何か話したところですべては無くなってしまうように思われますけれども、
なぜかそれらのすべては不思議な仕方で、にいちゃんやかぎたろうに届いていたのでした。
「あはは。
ちきゅうじんに、国境のない世界やすべての人が世界を分かち合っている世界をを想像するところまではできても、
空間も時間もない様子を想像してごらんなんて言ってもきっと難しいだろうね。」
「あ!」
さつきは大切なことを思い出しました。
「そういえば、今・・・今と言っても、ここには時間もないのだからどうかと思うけれど・・・
さつきね、試験中なの。
うちゅう留学のための。
ひょっとしたら、試験会場はここであってるのかしら?」
にいちゃんはにっと笑って言いました。
「うふふ、正解。」