洞窟
洞窟の中で、あれこれと悩みながら、かぎたろうとのんびりお話をしているうちに外は暗くなってきました。
傷はまだちょっと痛みますが、だいぶ腫れも引いてきました。
「ところで、かぎたろう、あのさつきを刺したとげとげのやつはなんなの?」
もう寝る気満々で寝そべりながら、さつきは猫に聞きました。
「刺されると健康にいいやつちゃうん?知らんけど?」
「そうなんやあー」とおもわず安易に納得しちゃうさつきちゃんでした。
「ええこと教えといたるわ。」
ふと猫がつぶやきます。
「え?何々?かぎたろう。」
「地獄を天国に変える方法っていうやつやな。」
「え!めっちゃ知りたい!」
「もともとな、地獄っていうのは健康ランドっていうの知らへん?」
「初めて聞いた!」
「針の山とかあるやん。
あれはな、もともと肩こりとか腰痛とか血行の治療をするためのやつなんよ。
だから、刺さったらすごい健康になれんねん。」
「そうだったんだ!」
「血の池も、あれ、ええねんで!血の巡りがよくなるんよ。しかも、高級赤ワイン使ってるんよ。」
「入りたい!」
「舌を引っこ抜くやつあるやん。
あれも、舌の様子を見て、内臓の異常がないか確認しとるねん。」
「ああ、舌と内臓は直結してるっていうもんね!」
「鬼がおるやん。
こん棒でマッサージとかしてくれるで!あのとげとげがまたええんや!
ま、地獄を天国に変えるというより、もともとそういう場所やってことや。」
「ああ、さつき、地獄に行きたくなってきたー!
かぎたろう、どうやったらいけるの?教えて?」
「おいおい、おまえ、今うちゅうにいくための試験中やろがい。
うちゅうはええんか、うちゅうは?」
「うーん、地獄も楽しそう。ちょっとくらい寄り道していいかな、ね?
行き方知らない?地獄への。」
「せやなあ、地っていうくらいやから、穴を掘っていったらつくんちゃうかなあ。」
「かぎたろうは、穴掘れる?ここほれにゃんにゃん!」
「わしは犬ちゃうからちょっとそういうのは無理やなあ。」
「あらまあ役に立たないねこちゃんねえ、そのしっぽのカギは何のためにあるのかしら?」
「仕方がない、そこまでいうのならいっちょ掘ってやるにゃんか!」
と、かぎたろうは初めて猫らしく鳴いてそのしっぽをシャベルのようにして穴を掘り始めました。
しかし、しばらくしてそれは絶望的に穴を掘ることに適していないことに気が付いた一人と一匹でした。
万事休すです。
しかし、さつきは、こんな時に限って都合よく物事が運ぶことを知っていました。
なので、かぎたろうの額をなでながら寝そべって待つことにしました。
「ねえねえ、どこかのだれかさん、私は地獄に行きたいの!だれか連れて行ってくれない?」
そう言いながらかぎたろうの背中を枕にして眠りこけてしまいました。
かぎたろうも、いつのまにかすやすやと眠ってしまいました。
翌朝目が覚めた時は、さつきの足の腫れも引いて、こころなしか前よりも動きやすく足取りも軽やかになっていました。
しかし、あたりは真っ暗です。
一晩経って、
さつきは、そういえばここが洞窟だということをすっかり忘れてしまいました。
そして、外にどんな世界があったのかも、今自分が何をしていたのかも、
それまで何をしていたのかもすっかり忘れてしまっていました。
自分というものが何なのかすらわかりません。
ただ、言葉だけはわかります。
自分の名前がさつきだということも。
隣には、何か黒いものが寝ているだけです。
ひょっとしたら、あのとげとげの草は、記憶をけしてしまう草だったのかもしれません。
洞窟の薄暗い部屋は、そこそこ快適でなんとか暮らしていけそうです。
目の前に何か黒いものが見えます。
さつきが、動くとその黒いものも同じ動きをします。
その黒いものは、上に丸と、その下に細長いものと、その細長いものの上側とした側から二本ずつの長いものが出ています。
よくみると、それらの長いものの先にもさらに細長い五本の何かがあって、動いています。
「ははーん」
さつきは思いました。
「そうか!この黒いうごくものがさつきなんだな!」
お察しの通り、もちろんそれはさつきの影であって、さつき自身ではありませんでした。
しかし、記憶をなくした今、薄暗がりの中でさつきは影のことを自分自身だと思い込んでいるのです。
おやおや、動くくろいものの隣に、もうひとつの関西弁を話す小さいくろいものが。
「おおおおおおう、おあああああおおおおおおうううううう。ううううううああああああいいいいいいああああああああ。」
その声は、壁からではなく、自分の横から聞こえてきます。
そして、それは関西弁とは全く分からない鳴き声でした。
どうも、今いる洞窟の場所は、音が響いて響いて仕方ない場所にあるみたいで、
すべての音が正確に聞き取ることはできなさそうです。
さつきも、「おはよう!」
と言おうとしても、
「うううううううおおおおおおおおおおううううううう」と変換されてしまい、意味不明です。
寝ている間に誰か知りませんが私たちをこんな場所まで持ってきたうえ、記憶まで消してしまったようです。
仕方がありません。
何とかなると思いながら、
さつきは壁のくろいものをうごかしながら、自分のことを伝えました。
となりの黒いものも反応を返してくれました。
お互いにちゃんとわかってるようで、嬉しくなってきました。
さつきの身体の感覚があったかくなってきたりあっちいったりこっちいったりします。
さつきが、「黒いもの」が消えたところに行った時のことでした。
さつきは、「自分自身が消えてしまった!」と思ったと同時に、
さつきに何か白いものが刺さるのがわかりました。
次に、思い出したように、さつきは光というものが目に当たったのだと理解しました。
そして、あの黒いものは「影」であって自分ではないこと。
目や目の奥にあるいろんなぶわぶわしたものが自分のようなのだと気が付き始めました。
さつきが動かそうと思ったらついてくるものもさつきです。
となりにいた猫の様子も少しわかりました。
わずかな光を灯す虫が入った透明な容器が洞窟の中に置いてあったのです。
そこに、不思議なもうひとつの影が見えました。
この洞窟では、音がまったく通じないのでその影は身振り手振りでさつきたちに何かを伝えようとしています。
その影が、近づいてきて、ぐっとされた時、
さつきは、そのぐっとされたものがからだであり、そしてそれは「さつきのからだ」何だということを思い出しました。
その影は、さつきの腕を優しくつかんで、引っ張っています。
さつきは、あの黒いものだけが世界のすべてだと思っていたので、身体があることに気が付いてまるでいろんな感覚が痺れてくるみたいで不安でした。
さつきは、足を動かし暗闇を登っていきます。
となりで、かぎたろうもひたひたとついてきます。
長く長くどれくらい長いかなんてわかりません。
さつきは「時間」が何かすら忘れてしまったのですから。
さつきはひたすらその暖かい手にひかれて足を動かしていきました。
息が苦しくなり、足が動かなくなります。
そんなとき、その暖かい影はさつきの口に何か放り込んでくれました。
口の中で新しい感覚が広がり、さつきの口からは水のようなものが溢れ零れ落ちます。
そして、さつきはそれがとっさに何か赤ちゃんのような恥ずかしいことだと思いましたが、その優しい影はさつきの口を何かやわらかいもので押さえて、水を吸い取ってくれたのがわかりました。
さつきは「おいしい」という感覚を思い出しました。
そして、その口にほおばったものは、空気に乗ってさつきの鼻の中にまで入ってきました。
これも、身体の感覚や舌の感覚とは違うものです。
さつきがごっくんすると、身体に力がみなぎってくるのがわかります。
「この手についていけば大丈夫」
そう思って這い上がっていきます。
しばらくすると、耳にちゃんとぼわぼわしていないきっちりとした「音」が聞こえてきました。
だけどあたりはすべて真っ暗闇です。
「さつき、大丈夫?さつき?ねえ。」
どこかで聞いたことのある懐かしい声でした。
「うああああ、うあい!」
まだ上手くしゃべれません。
それに、まだ記憶は戻ってきません。
「ありがとう。謎の人。ここはどこ?さつきは誰?」
「ああ、よかった。聞こえているし、話せるようにもなったね!」
「声」がはっきりわかりました。
「あー、よかったわー、一時どないなるかとおもったでえ。」
かぎたろうのことは覚えています。
隣ではひたひたと足音が聞こえています。