ユア視点 過去(2022/12/2)
私の両親は、農家で主に小麦を作っていました。他にもいくつかの野菜も作っていましたが家で消費する分くらいしか作っていなかったので何を育てていたのかあまり思い出せません。ただ、私の記憶がある頃は、不作ということもなくそれなりに生活ができていました。しかし、そんな生活は、長く続きませんでした。
私が5歳の時両親は、『街に買い物に言ってくる』そう言って乗合馬車に乗って出かけて行きました。普段はたまに買い足しに街に行って夕方頃に帰ってきていたので少しの間お留守番だと思い、両親を見送ってからは近所の子と遊んでいました。夕方になれば両親に会える。とそう思っていたからです。
しかし、その日の夕方になっても両親は、帰って来ませんでした。おかしいな? とは、思ったけど、たまたま遅くなったのかな? とそんなことを思って待っていたけど夜になっても帰ってきませんでした。流石におかしいと思ったけど、既に外は真っ暗ということもあってその日は、寂しく1人で寝ました。
そして次の日になっても帰って来なくてどうしようと思っていたら夕方くらいに扉を叩いて来たのでもしかして帰って来たのかと思い急いで扉を開ける近所のおばさんが訪ねてきました。悲しそうな顔をしながら私の両親が亡くなったことを聞かされました。
その話を聞いた後は泣いたことは覚えていますがその後については覚えていません。ただ泣き疲れて眠ったようで目が覚めたときには朝でした。それからはボーっとして過ごしていましたがだいぶん落ち着いた頃にどうして亡くなったのか聞くと盗賊に襲われて亡くなったということを聞きました。
そんな辛いことがあってから心の傷が癒える前に別の問題に直面しました。食べる物が無くなったのです。家にあったパンやら干し肉、野菜などを適当に食べていましたがそれらが無くなったのです。私はどうしたらいいのか分からず近所のおばさんに相談しに行くと家にある小麦粉でパンや干し肉と交換してくれると言ったので家にある小麦粉と交換してしばらく生活していました。そしてとうとうその小麦粉も尽きてしまいました。これでは食べ物と交換ができないと思いおばさんに伝えると街にある孤児院に行けば何とかなるかもしれない。そう言われて私は、街の孤児院に預けられました。
今思うとあの時のおばさんの様子はおかしかったと思う。
そんなことがあって孤児院に入ったけど、孤児院での生活は、とても過酷な環境でした。孤児院の生活そのものが過酷だったわけでは、ないけど年上の子達の暴力が酷かった。今まで遊んでいた子達にそういうこがいなかったからどう接していいのか分からなかったのも、あるかもしれない。でも小さい子達にそんなことをするのは、いけないと注意したことが気に食わなかったようでその後は、暴力が私にだけ多く振るうようになった。
最初の頃は、慣れない痛みで動くこともできないことも多くあったけど、次第に回数が減っていき少し楽になった。回数が減って楽になったというのは、変なことかもしれないけど……。
孤児院では、院長先生には優しくしてもらって年下の子達とは、それなりに仲良く過ごしている。ただ、年上の子達は、会うと相変わらずだったが……。
それからしばらくの間は、孤児院でのお手伝いをしていることが多くたまに年上の子達に暴力を振るわれる。そんな生活が続いた。
そんなある日いつものように院長先生に頼まれたことをやっていると誰かの泣き声が聞こえたので声がした方に行って見ると3歳ぐらいの女の子が年上の子達に殴られていた。
「何をしているの!」
そう言って女の子に近づくと顔や腕など所々腫れていた。年上の子達が大きくなり殴る力も強くなったようで最近ではこう言った傷が増えてきた。
「どうして、小さい子にもこんなことするの!」
私はどうしても我慢できなくて彼等にそう言うと後ろから冷たい声が聞こえた。
「お前には関係ない」
そう言われると後ろから何かを感じて振り返ろうとしたら後頭部に強い衝撃を受けて私は意識が無くなった。
そして目を覚ますと知らない部屋にいた。
「ここはどこなの?」
そう思って体を起こそうとした。
「痛っ!」
体を動かそうとすると至る所が痛くて上手く動けなかった。どうしてこんなに体が痛いの? と思ったが心当たりがない……。そもそもどうしてここで寝ているの? と思ったが痛くてうまく考えることが出来なかった。それからしばらくして痛みが落ち着くと何があったのかを思い出そうとした。
「……そういえば」
と意識が無くなる前の出来事を思い出した。小さい女の子をいじめていたからそれを止めに入って後ろから殴られた。多分、その衝撃で意識が無くなったのだと思う。その後は、何があったのかは分からないけど体中が痛いから多分殴られ続けたのかもしれない。そんなことを思っていると誰かが部屋に入って来た。




