Doll.8 セオ
猫が去ってから何日が経ったのだろうか。
朝早く、戸口を叩くものがいた。何だか最近よく訪問客が多いよなあ、と少年は思いながら扉を開けてやる。セオだった。少年は嬉しいのとがっかりしているのとで泣き顔になっていた。猫が帰ってきたのかとかすかに思っていたのである。少年は驚くのだった。猫を気にかけるとは……! 自分にとって彼は最早どうでも良い存在ではなかったのか。今までメリルのことだけを心に生きていたのに?
「やあ、数日振りですね、サンディ」
少年は自分の名すら忘れかかっていた。だから、このときセオに呼ばれても誰のことだ? などと一瞬困惑した。サンディ。自分の名だ。アレキサンダー。親がつけた……それはどうでも良いこと。
セオは、少年がこうして自分自身に問うている間に、目ざとく寝台に載っている人形をみた。彼女はこないだサンディが心を尽くして縫った服を着せられていた。見事に彼女の風格を壊さないふうの服だった。春らしくうす黄味の布地で仕立てられている。
「……世の中には、思いがけず魂のこもってしまったモノがある。一方で、魂があるにもかかわらずがらんどうな者もいる」
「どうしたんですか、いきなりそんな」
それは僕とメリルとのことをいっているのか……?
少年は内心ひやりとした。セオが感づいているかもなんてことは何度か考えたことがある。彼はメリルのことを知りすぎている。そんなセオより短い出会いの猫にすらああして、半分気づかれたのだ。この人がすっかり解ってしまっても不思議なことではない。
何。常々思っていたことだよ、とセオは微笑んだ。四、五十代特有の妙に落ち着きのある笑みだ。
「あまり人形にばかり執着するものでもないと私は思うのだよ。ほら……君の両親のようになってしまう。分かるね?」
少年は記憶の奥底に沈んでいる箱を久しぶりに拾い上げた。彼の幼かった頃はいつもどこかへ行っていた二親。帰ってきたと思っても両親は仲良く部屋に閉じこもり、何やら白熱した論争を交わしていた。持って帰った人形についてである。
少年は頷いてみせた。
「どんなに美しかろうともいつまでも現を抜かしてはならない。アレと自分とは所詮、ちがうものなのだから……魅せられて手に入れようとして道を踏みはずすこともあるのだよ」
何故に今、この話を?
「――つまらない話をきいてくれてありがとう。年をとるとどうもいかんね……。さあ、お土産だよ」
少年には解らない。何故彼らはこうして教訓めいたことや過去話なんかを若者に零すのか。ただ、自分への忠告とも取れたし、セオの後悔からくる言葉なのかもしれない。セオもまた熱心な蒐集家だから。
「なんですか、それ」
セオが差し出した手には一本の瓶と一冊の本とがあった。
「ああ、オルリアン産の果実酒とソニアン(オルリアンのひとつ下の国)の伝承についての本だよ」
「あれ……おじさん、僕、未成年ですよ?」
「ま、今日くらいは羽目を外しても良いではないですか。本はどうする? 今読むかね」
そういうと男は灰色の分厚いのを少年の手に置いた。
「後で。ん――『白い魔物・灰色人間』なんだこれ……」
サンディは微妙な顔になった。題名からして差別的な意味合いが含んである、と思った。
「知らないのかい。あの国では稀に灰がかった髪や目、肌をした人間が生まれるそうだよ。常人とは見た目も異なる上、特殊能力を持っているそうだから、現地の人間からは忌み嫌われている」
「……白い魔物って人外の生物とでも?」
少年は浮かぬ顔で装丁の出っ張った飾り文字をなぞる。
「人だよ。ただね、真っ白なのさ。髪も目も肌も……どこもかしこも白い。情報が足りなくてそれ以上は良く分かっていない。多分、オルリアンが援助している、ツイン・クゥート島の血脈が流れているのではないかな」
「へえ」
あまり盛り上がれるような話でもないが話題もさしてないので彼はこの話を続けた。それをききながら少年は酒を注ぐ杯を出した。
「……いやなんでもちょっと飲みすぎじゃあないのかね」
話の中頃辺りでセオははっとしたようにサンディの顔を注視し、いった。顔が真っ赤で呂律も怪しくうつらうつらしていたのだった。
「でもおじさん『もっと飲みなさいな。遠慮はお止し』といったじゃありませんか……」
「限界をみきわめ断ることも人付き合いでは大切なことなのだよ、サンディ」
「セオ。僕、今……交流してるヤツなんかいないんですが」
猫は家へ帰ってしまった。また、メリルと二人、孤独な日々が来るのだ。
「あのお小さい魔術師はどうかしたのかい。さっきから姿をみせないけれども」
猫…………行ってしまった。メリルと同じ。皆離れてゆく。
どうして。
「……出てゆきましたよ。何日も前に」
「仲たがいの原因は」
「僕だと思うけど……なんでだろ」
どうして、彼女はずっと心を開かない。何で猫は僕から離れた。両親は、何故……。
「――どうして、みんな……僕を、通り過ぎてくんだ」
「君、酔っているね。それも悪い方に。もう寝たほうがいい。酒を飛ばさなけりゃ。私は帰る時分なのだけど、大丈夫かね……」
セオは少年が随分と負の思考に傾いてしまっていると気づき不安げに話しかけるが、当の本人は酔いつぶれていた。しばらく声掛けをしたが一向に反応がない。完全に寝落ちている。
始めこそ心配そうにしていたセオは、それが解ると笑った。悪意に満ち満ちた笑みである。
「――ちゃんと眠っているな……」
彼はすっと立ち上がって家中うろつきだした。そうしてかれこれ二時間は経った頃、少年の目が醒めるときにはとっくにいなくなっていた。