Doll.5 人形
一匹の黒猫が家に居つくこと二週間、少年はさすがにその生活変化にも慣れてきていた。朝は凶暴な黒猫の魔の手から逃れ、昼は自ら率先して昼食を作り……もちろん、どんなときだってメリルに猫の毛垢が付かぬよう目を光らせて。
この日の少年は、メリルの体をきれいにしてあげていた。お湯に浸けてきつく絞った布巾で肌の上を拭ってやるのだ。少年は割れ物を扱うように優しく撫でる。
「……最近、なかなかしてあげられなくってごめんね。気持ち悪かったでしょう」
新しく乾いた布巾をその手に持ち替えて、余分な水分を吸い取った。彼女の洋服をそこに着せて髪を丁寧に梳き、三つ編みにしてやる。
「さあ、できた。可愛いよ、メリル」
左頬にちょこんと口付けをしてサンディはにっこりとした。
「…………」
その様子を眺め、ネコは顔を歪める。何か、変なものをみたというように。
二つの黄色の目が少年を振り向かせた。
サンディはネコのうねった髪の頭をみおろし、困ったように笑う。
「変な顔してるんだね――メリルは繊細な肌質だから、極端に熱い湯なんかは得意じゃないんだ。僕はもうずっとこうするしかないんだよ。メリルが…心を開く日まで、ね」
少年の話の半分もきかないでネコは別の部屋に消えてしまう。
ここしばらく、ネコは不機嫌なのだ。原因はなんとなくわかっている。サンディのメリルへの接し方があまり普通ではないからだろう。彼女はサンディの妹でもなんでもないし……。
と、玄関の方からコンコンコン、と木の板を叩く、乾いた音がした。
「……だれ?」
部屋に行っていたはずのネコが居間のサンディにきいた。
「さあ? きみのお客じゃないのか」
「いや、それはないと思う。あいつ、もうくるはずないから。よっぽどじゃなきゃ一回失敗したことをもういっぺん繰り返すようなマネはしないさっ」
もう、機嫌が直ったらしい。気分のころころ変わるヤツだな、と少年はあきれた。
「くる人なんて……あの人以外ないかな? でも、ずいぶん久しいし……」
「なんだ、おまえ心当たりがあるのかー? ボクあっちの部屋でメリルを――」
「駄目! メリルには近づくなっ。別に、ここで座っていたって構わないから」
こいつを訪ねるヤツなんていたのか。ネコは茶器を戸棚から出しながら、複雑そうに眉根を寄せる。あいつの知り合いとなると、やっぱり変なヤツっぽそうだな。面倒くさいから一言も口をきかないでいよう。
「――どうぞ、鍵は掛かっていないですよ」
どうも金持ちらしい中年の男が重い体を揺らして戸をくぐり、ネコをじっとみた。おや、このちみっこい子はなんだろな、とでもいいたげな目。
ん? こいつ、ひょっとしてボクの国の人間か? 茶髪に藍の目、背が低めなんてオルリアンらしい。微弱だけれど全身から魔力のにおいがしている。
ネコは男を睨みつけた。といっても、外見のせいで凄みは全くもってない。
「隣、いいかね?」
男はまろやかな声音でネコに訊ねた。仕方なく顎を引いて是の意を示した。
「……おじさん、何ヶ月ぶりでしょう。その後、お変わりありませんか?」
少年は男を『おじさん』などと呼び、きらきらした目で身を乗り出した。席はネコと男の向かいに当たる。
ネコはサンディと男とを代わる代わるみた。なんだこいつら。
「お、おじさん?」
「――私はセオルド・オルター。“セオ”とサンディに呼ばれることもありますよ」
「ど、どういうかんけーなんデスカ」
少年はメリルを抱えて自分の近くに連れてきた。彼女が傍にいないと落ち着かないらしい。
「僕の両親と親しくしていた人だよ。で、僕の小さい頃からなにかと面倒みてくれていたんだ。本当は……こんな僕のことなんか気にしなくてもいいくらい、すごい身分の方なんだ」
尊敬と申し訳なさの折入った、そんな目でサンディは、セオという男をみる。
「まあ、そういうことですね。オルリアン王国を知っているかな? 私はその出身ですよ」
この国の東側、海を越えた先に二つ大陸がある。とっても大きな土地だ。オルリアンは魔法大国で、その下にある猫みたいな地形の陸地はソニアン王国。
「ああ、リチャルドさんがこの家に来たばかりだ」
そうか、そうだったっけ。そんな感じで少年は誰にきかれるともなしに呟く。だがセオなる男はぎょっとしたようにサンディをみた。
「彼が――ここに?」
「ボクを家に連行しようとした、おせっかいヤローだい」
「む? 貴方は、魔術師なのですか。では少し失礼でしたかな」
「いや――」
そんな改まれても困る。ボクはヤツらのように優秀な人材じゃあないんだから。
「いいんです。この人、気にしてませんよ。ぜーんぜん」
……おい。代弁するなよ。
セオはあまり魔術師というものをよく思っていないようだ。少年はそのことを会話の端々に感じ取っていた。現に、もうネコの方をみたりきくことをしない。ネコも分かってしまったのか、口を挟むことなくじっと話に耳を傾けるばかりなのだった。
「おや……大事にしているんだね」
男はメリルをちらとみて目を細めた。
「はい。僕の大切な女性なので……それよりもおじさん、両親の部屋なんですが」
こいつ、ワザと打ち切ってないか? そんなに避けたい話題か? ――ネコの目が光った。
「ご夫妻は本当に人形収集に凝っていらしたからね。別に私が引き取っても良かった。今からでも――」
「いいんです。もう二人は事故で死んでしまったし、この子達は僕のものだ。そんな親のだったなんての気にしていたら、埒が明かないよ」
少年はゆるく首を振って俯いたので、顔に陰影が浮んでいた。
「そうかね」
「それにしてもケリー氏は見事な審美眼を持っていたよ。ここのはどれも特上だ。人形に魂でも宿っているのではと思うほどの逸品だね」
夕食前に、三人はサンディの亡き両親の相部屋に入った。
寝台の上に、横に、衣装棚の両脇にすらある人形の目がずらり、入ってくる者たちをみつめる。ネコはぞぞっと身体に走る悪寒に顔をしかめた。
なんて数だ。不気味だな。それに、なんて凍えるような寒さだろう。
「……命を持つ人形、君はいると思うかね? サンディ」
「そうですね、いたらずっと大切にします。傍に置いて、片時だって離れたくない」
「それはそれは。愛されて幸せだろうね、その人形は」
夕食が終わってもまだ、セオと少年は話し込んでいるようだった。しかも二人ともメリルを熱心にみつめて。
特に、セオという蒐集家は何度となく彼女をみつめ、怪しげな笑みを浮かべる。
「美人だ。前にみたときよりも数段綺麗な少女ですね」
サンディはメリルへの賛辞を我がことのように照れる。
「では、そろそろ、お暇しましょうかね。夜も随分更けてくるし」
ようやく帰るのか! ネコは長居するヤツが好かないのだった。あいつの世話してたんだかどうか知らないが、とても変なヤツだ。いつかとんでもないことをしでかしてくれそうである。
「さようなら、またお会いしましょうね。セオ」
「しばらくしたら、ね」
二人は玄関口で軽く挨拶すると笑った。少年の片脇にはメリルがいた。それでセオは腰を屈めて彼女の頬にキスした。そうした後で少年にも触れるくらいのキスをして、暗い夜道をゆっくり帰っていった。
「……キス魔ドモめ」
この国はやたらキスする習慣があるらしい。いや、あの男はネコと同じ出であったか……。
「僕が変態みたいにいうなよ。メリルに嫌われてしまう」
「おまえ、ホントによくわかんないなあ。でもおかしいぜ! メリルは――……」