Doll.11 衝動
彼らは性懲りもなく出かけてゆく。東に髪の伸びる人形があるらしい、ときけば迷わず東へ、南に火を噴く踊る人形が、ときけばすぐさま南へ赴く。
僕が熱を出して寝込んでもちょっとした肺炎に罹っても、彼らは僕なんて放って置く。
そんなわけだから、その日も僕は家に一人いた。セオおじさんはまたしても一緒について行ったみたい。鼻がむずむずしてどうも塩梅の悪い朝だった。
――僕はあの日以来、両親の部屋に入り浸るようになった。
あの部屋だけは怖い感じはあるけど不思議と居心地がいいのだ。薄暗いこぢんまりとした空間に、張りつめた彼女たちの視線。時間の流れさえ変わっている気がしてならない。ゆっくり、ゆっくりと狂うように時間が溶けてゆく。紅茶に注いだ冷たい牛乳と甘くて白い砂糖のように絡んで混ざってゆるやかに流れ落ちてゆく。
あまりにやってくるからか、彼女たちは僕をどうとも思わなくなった。僕は君たちの友達を殺してしまったのに、ね。もう忘れちゃったのかな、そんなこと。それとも結局は後に引きずらないくらいの浅い関係だった?
――僕はこの部屋の隅々までを知っている。
……――わけでは、なかった。
僕がいつものように棚の側面に背をもたせ掛けて静けさの余韻に浸っていると、不意にこつん、と美しい響きがした。硝子戸に茶器をぶつけたような……なんとも形容できないや。
それはちっとも僕を不快にさせないので、みてこようか、音の出どころを、と突き当りの壁を探った。
――? なんともない。ただの壁じゃないか。
また音がきこえた。今度は上から。屋根裏というのは考えてもみなかった! 急いで梯子を取ってきて、そこまでよじ登る。するとそこにそれは、いた。
僕と同じくらい大きく頑丈そうな硝子の箱の中、目だけが青く輝いている。
「なに、どうしてこんなところにあるの。にんぎょ」
……両親は大の人形好きのはず。こんなに掃除のなってない、かび臭い場所に誰が置こうと考える? ないだろう。
そう思って不審がりつつも、うんしょ、と箱を下におろした。
灯りのあたることで目以外の部分もはっきりみえる。うんときれいな人形だと一見してわかる。ど素人な僕にだって。
一つ変わっていたのは、その頬が薄赤くなっていて、きらきら血管がみえるようであったことだった。こんなに精緻な造りのものは僕は知らない。
硝子箱の傍に立ってそっと正面からみつめる。睫が黒曜石に彩られ、それが藍の瞳に翳りを落とす。頬がぷくっとまろやか。唇がちょこん、おしゃまな感じにきゅっと絞られて可愛らしい。
なんだか、口づけたい衝動に駆られた。それで、僕は部屋を出ようと思った。この空気がいけないんだ。そのせいだ。
だけどそうもいかないらしい。後ろに視線が集中してきているのを感じて僕は身震いした。
「――ね、そこのあなた。わたしを、ここから、だしてくれないかしら」
よく通る声で彼女は僕の退出する気を削いだ。ふう、もうここから抜け出せなくなるかもしれない。そう思った。
「そこから……?」
ただの保存用の器でしょう、なかったらすぐ劣化してしまうってことだろう?
「ええ。おねがい。わたし、もういいかげん、こんなところ、あきあきしているの」
……どういうことだろう?
「ずっとこの、はこのなか。あのひとたち、ちっともかまってくれない。ひかりのささない、せまいへやにひとりきり……もう」
……あのひとたちとは僕の両親のことか。
美しい彼女は僕の方を、大きな涙の粒を目にありありと浮かべて、みつめた。懇願しているらしい。少なくても同情心で惹いてやろうという企みがこの子にあるとは思えなかった。ただ、僕はちくり、胸が痛むような心地でどうしようもなかった。
この可愛らしい娘も僕を愛してはくれないのか。僕をすきになってくれる人はどこにもいやしないんだ……。
「だしてあげるよ、そこから」
心はじくじくと疼いて声さえも震える。だけど、彼女があんまりほろほろ泣くものだから、不憫にも思ってしまうのはおかしなことじゃないでしょう。本物の涙が彼女の瞳をいっそう輝かせている。それってとてもきれいだけれど、彼女が、目の前にいる子どものように枯れた思いに飲み込まれて、その艶々とした玉のような美しさを損なってしまうのは惜しいという気さえした。
「でもね、その代わり……あのひとたちを想う場所を僕の方に空けておくれよ。僕なら、ずうっと君の傍にいてあげるよ」
「……ほんとうに、ここから、だしてくれるなら、やくそくするわ」
僕は、やくそくね、といってにこっと笑った。なんて久しぶりだろう、こんなに自然に笑えるなんて。
――そうして僕は硝子の板を壊して彼女を取り出した。外からは分からなかったが、この硝子、内側に図形か記号めいたものがびっしりと彫られていた。
彼女が僕のいるこの世界に馴染んだこのとき、何故だか胸騒ぎがした。近い未来、僕にとって良くないことがあるという。でもそれは一瞬のことで、僕は彼女の満面の笑みに気を盗られてしまった。
今までの名前では正式に僕が所有することにならないというので、新しく名付けることになった……これは硝子箱を粉々にする少し前の出来事。
「メリル、はどうかな。花の名前からとって」
「あなたのなまえは?」
「僕? 僕はサンディってよくおじさんに呼ばれてるけど」
「サンディ。おひさまのような、なまえね――」
これで、良かったんだ。彼女はとてもまばゆい光を放って僕の目を眩ます。僕の心は地面より何十センチか上を漂い始めた。今はまだ無理だろうけれどもいつかきっと振り向いてくれる日がくるだろうと将来を展望したりもしてみた。
真夜中、二時とちょっと過ぎ、戸口を叩く音が立て続けに五回あった。僕はそのときにはもうメリルと眠ってしまっていたので、悪態づいて彼を出迎えた。
セオおじさんはみるからに真っ青で僕の顔をみつけるなり両肩に手を置き、息を詰まらせていった。
「……君の――」
僕にはそれで十分すぎるくらい分かった。彼がこれからなにを伝えようとしているのか。こんな夜更けにはるばる異国から特急で馬車を走らせて。
「君の、両親が……」
ああ、いわなくていいよ。おじさん。これ以上、僕を底に突き落とさなくたっていいじゃないか。両親は死んだ。僕のあずかり知らぬ遠い異郷に。とうとう僕を想わず散ったなんて、いわないで。最後は僕の名を呼んだとかそんなことも噓だって知ってる。どうか、慰みの美化された、月並みな言葉で僕を労わろうなんて、同情なんて、してくれるな。
「帰って。おじさんが後のことは全部やってくれるんでしょう? 僕ならいいんだ。なんともないんだ。だから、早く片付けてきてよ。あいつらの醜態なんてみんなにみられたら、そっちの方が恥ずかしい!」
「でも、サンディ……」
「早く行けったら! ほんとに僕のこと想ってるんなら、一か月は顔をみせにくるんじゃない!」
おじさんはまだ少しためらう素振りをみせていた。僕はいらいらして、こんなこと後にも先にもこのときだけだけど、ひどい言葉で怒鳴り散らしたんだ。
僕は行き場のない怒りとよく分からない切なさとでいっぱいいっぱいだった。もうこんな思いはちょっとだってしたくないと思った。
神様はいじわるだ。いつだって僕の願い通りにはしてくれない。
あの知らせのあと、僕は気持ちを鎮めてから彼女の許にいった。相変わらず美しい彼女。主人がどうなったかなんてつゆにも思わずぐっすり幸せそうに眠っているんだろう。僕もそんなふうになににも構わず生きられたら……。
「メリル……君……あれから全然起きてくれないね」
彼女は目を開けたまま本当の人形になってゆくようだった。かわいそうに、箱から救い出してから、彼女の小さな心臓は拍を弱めてゆく。彼女の瞳は時々しか僕をみていない。遠くに逝ってしまった僕の両親を追いかけているのかもしれない。
「僕、ずっと傍にいるよ、本当だよ……だから、声を」
きかせてほしい。会話をしたい。独りにしないで。
それからひと月程して、僕はなんとか気を持ち直した。
今はムリでも一緒にいてあげればきっと長い月日とともに彼女の心も優しく蕩けることだろう。
そう思い込んでからというもの、僕はおじさんの反対を押し切り彼女と二人ぼっちで暮らし始めた。初めはやっぱり、メリルはすぐ心を開いてくれるだろうと甘く考えていた。だけれども、次第に不安になり始めた。
もし、ずっとこのままだったら?
どう考えたって僕と彼女の関係は傍から見れば普通でない。そんなの僕だって分かっている。僕は人間だし彼女が人形であることは事実なのだから。こうやって一人で人形に話しかけている光景は不気味だ。でも、僕がそれをきっぱりと口にしてしまえば、彼女を異質なものとして独りにさせてしまう。独り愛されず生きてゆくことの苦しみは僕には痛いほど解る。だから。
だから、必要以上の外出は控えて、ほかの人たちにもメリルとの生活のことを一切口外せず、彼女とずっと一緒にいてあげなくちゃ。
僕は、そう、思ったのだ。