Doll.9 ネコ
「――あれ? おじさん、いない」
少年はさっきまでは楽しい夢の中にいたのだった。少年と彼女と猫とが賑やかに家中を追いかけっこする内容だった。そこでの少女は活発で、おしゃべりな子だった。少年も心から笑っていた。
そんな甘ったるい余韻を霧散させてしまうように首を激しく振った。
夢と現実は別物だ。
「えっと……寝ちゃったのかな」
軽い酩酊感。少年はだるい気持ちで椅子から立ち上がる。メリルの許に……。
背中が痛い。もしや酒を摂取しすぎたのか?
少年はよろよろ数歩動き、呟いた。
「メリル、一体いつになったらきみは目を覚ましてくれるの……? 僕もう」
胸まで嫌な痺れが走る。少年は身体の異常に険しい表情になった。変だぞ。
「……メリル? あれ、きみ、どこに?」
メリルがいない。あの愛しの人形が見当たらない。いつから? なんでいない? どこにいってしまったの。
少年は急に息が詰まる思いがしてきた。ぶるり、全身を震わせて思い当たるところ全て探したが、みつからない。少年の寝入る前より若干ずれているものの、他はなにもなくなったりしていない。メリルだけ。
「メリル、メリル、僕はこれからどうしたらいい?」
――十中八九セオおじさんだ。あの人、しょっちゅう僕のメリルをみつめてた。それに、彼は蒐集家だ。ずっと前から目をつけてたのかな。僕が酔いつぶれるくらいから、もう様子がおかしかったもの。僕だって一度も疑わなかったわけじゃないけど、信じて――たのに。
「何がいけなかったんだ? ねえ、嘘だろ。これは夢なんだ。そうでしょう、メリル……」
彼女と離れるなんて今までなかったのに。例え外出するときだって心はメリルに寄り添っていたというのに。
「――っああああああああ……あ、ああ」
声の限りに叫び少年は頭を抱えてヘタヘタと座り込んでしまった。と思うと爪を頭皮に食い立ててかきむしる。血が指にこびりついてもずっと。
だが、その手を何かが包み込んだ。ちいさな葉のような手なのにそれはとても温かだった。
「――ど、どうして戻ってきたんだ……」
この家にいるのはおかしい、とばかりに少年は身をよじって後ろの人物をみあげた。
彼は隠しに入れてあるハンケチを取り出して、そっと少年の紅い手の指を拭いてやる。そうしてあらかたきれいになったところで肩をすくめた。
「あんなんで、しょーもない偏見屈の魔法の国に誰がスキこのんで戻るっていうんだ。ばーか」
「? どういうこと、猫さん」
黄色い目の瞳孔が縦に細くなり、少年をみすえた。地べたに座ったサンディと立っているネコとは目線がほとんど同じなのである。
「心配でさ。あのまま帰ったらおまえがなにしでかすかな、なんて考えてみたらコワくって、それで裏庭からさ、ジャマせずみていたんだ。大丈夫そうだと目を離していたら……何故かわめいているヒトがいるじゃない? もう、ホントにせわのやけるヤツだよ」
とりあえず頭かくのはやめよーよ、と出来るだけ優しいと思える笑みを浮かべてネコは、少年の手の甲を撫でた。
「チ、出てるよ。頭皮がボロボロになってアナが開いちゃうんだからね!」
「うん……ごめん」
「それで、どうして泣いていたの。サンディ」
少年はネコが入れたゲキマズ紅茶を文句一つ零さず飲み干した。ぼんやりした表情が一転、鬼気迫るものになって少年は悲痛の目で彼をみる。
「猫さん――メリルが、メリルがっ」
「ボク当ててみせようか、つれさられちゃったんだろ」
蒐集家がメリルを野放しにしておくということがあるだろうか? 価値も満足に解らぬ弱冠十五歳の餓鬼にくれてやるものか?
ネリはセオを怪しんでいた。特にメリルへ対する、あの視線。異常な熱っぽさが男の両目の奥にこもっていたのだ。
「おじさんだと思う。酒を飲まされたし……」
「え? サケ? ミセーネンだって知っているはずだよな。それは、どう考えたってあのおっさんが怪しいと思うゾ」
「うん……」
サンディは胸を押さえてうつむく。
気持ちが沈み、海底を彷徨っているようだ、とネリは少年を観察して思った。
「……そんなにあのコがいなくちゃ、ダメ?」
「願ったから、傍にいてくれるはずだったんだ」
「今度はキチンと話してくれるんだね?」
「いわなかったから……怒って出ていったんでしょ、ネコは」
「まあね。ボクは仮にもモリバンだったんだ。そういうこと知らないでいて、なにができる?」
この世界の外側では子どもたちのはしゃいでいる声がいくども木霊していて、それが隔たりを超えてやってくるようだった。少年は顔を上げてネコをみつめた。
「僕、きみを裏切る真似ができるのはあと一回くらいしかない。そしてそれは今じゃないんだ……ちゃんといわないといけないね」
「……裏切る? それはそうとして、あのおっさんはオルリアン民だったよな? ボクの移動魔法でなら半日でいけるけど、おまえはこれないんだ。それは解っておいてほしい」
「どうして?! つれってってよ……」
ネリは少年がそう反応することがよく分かっていた。だけれどもしかたないのだ……。
「あいつの前で自分の気持ちを制御できるって? 計画に支障をきたした場合、おまえはなにか別の策を提示できるって? ……そんなこともできないクセにダダをこねるな! 子どもめ」
「でも……」
「それに、ヤツはボクの姿を覚えているだろう。本来のボクにならないと、ダメだ。おまえをつれていくとなったらいつも以上に負担のかかるカラダが保てるはずない。中距離だし」
「きみ、魔法は負荷がかかるの?!」
「若ければ若いほど負担が少なくてすむ。そういうわけだよ、このみためは」
「……言動からして子どもだけど?」
それは、やっぱりしかたないのだ。意識していないと思考が子どもじみてしまう。疲れるからネリは意識していなかっただけのことだ。今は頭を一時的に活性化させているからそこまで子どもでないはずだが。
「リチャルドさんもそういうわけで……おちいさいの?」
「んにゃ、ありゃあ元からチビ……きかれていそうでコワいなあ!」
しばしの沈黙。
「……セオはまだこの国の中なのかな?」
少年は飲み終わって空の茶器をつつく。
「都に外国人用窓口がある。オルリアン出身の魔術師が担当していて、そいつに帰りたいっていったら送ってくれるんだ。もしくは、隠しているだけでヤツも移動魔法を使うだけの魔力をもっているか」
「そうなの……」
雲行きがどんどん怪しくなっている。雨の匂いが室内にいても感じられるようだ。
「ま、アセっていてもしかたないヨ。それに、オルリアンならボクの領域だしさっ」
ネリは少年の気が変わらないうちにさっさと本題に進めなければならないと思った。それで雰囲気を明るくしようとまた自分の精神の意識を手放した。つまりは今までの話口調に戻ったのである。
「……じゃあ、僕の幼少期から話そうかな。メリルに会うより前の、ちょっぴり面白くない話を……ね」
かくして少年は過去を語り始めた。