ジョン=へイグ 後
ローネ=カーマインにとっての楽しみは幾つも存在する。
美味しいお茶の葉と好物の茶うけが冷蔵庫に入っている日の午後の紅茶の時間や、偶にランザが見つけて来る、色違いの新種の異種や美形の探索者の綺麗な遺体を買い取る瞬間。
買い物も大好きであり、リスムに出た時品の良いアンティーク品を見つけた時等、支出を考えずついつい購入してしまうのは悪い癖だ。酒場のアズさんとのお話も楽しい、彼は何時も私の前では引きつり笑いだけど。
球体人形造りばかりに熱中していた時は、趣味を幾つも持つ事はしなかった。高みを目指すのには、わき目を振る暇など無いと考えていたからだ。
だが今は違う、優れた作品を作る為には、経験という要素が必要だと分かったからだ。毎日を楽しく過ごす事こそが、心に余裕を持つ秘訣が。
余裕のある心は、想像力と独創性を育み作品を生む上で最高の土壌となる。
さて、毎日を楽しむうえで、かかせない今日のお茶の時間だ。ランザ君もセルシィちゃんもいただいていかなかったが、良い茶葉とお菓子があるのだ。
紅茶の銘柄はマリアージュフレール、お茶菓子はリスムのアクアビット銘菓が世に送り出すハーブミルフィーユだ。
ハーブミルフィーユは、どれだけハーブをつぎ込んだんだと疑いたくなるようなえげつない緑色をしているが。食べると、他のケーキが物足りなくなるような濃厚な甘みを持っている。
食べると胃袋が汚染され、他では満足出来なくなるというリピーターが絶えなくなるのだ。確かに他の店のミルフィーユより美味しい、まあ別に私は別のケーキも美味しく食べられるが。
品の良いアンティークの杯に紅茶が注がれ、お茶菓子も準備が出来ればここからは私の至福の時間だ。来客用の部屋ではなく、自室の丸テーブルの前に腰を落としカップを手に取る。
「お客様は、ちゃんとチャイムを鳴らしてくれなくては困るわね」
私室の扉の前で立ち尽くす男は、静かに立ち尽くしていた。
何時の間に入られたのか、防犯ブザーも防御ユニットもまったく反応してくれなかった。
艶のある黒髪にペンキを被ったような白のメッシュをいれ、学生服によく似たボロボロの上着と白のシャツ。腰に然したるは、見事な紅と蒼の二刀の鞘。
反り返る刀身は、最果ての国で製造された優美な切れ味を誇るカタナと言われる武具であろう。
男の年齢は顔は、パッと見て二十代後半にも思えるがよくよく観察すればまだ二十代前半、或いは十代とも言えるかもしれない。
「お客様であるのなら、ここに来て一緒にお茶でも如何?商談であるならば、一階の応接室まで行ってほしいわねぇ。
それとも、その二刀で危ない事をしようとしている狼藉物なのかしら?困ったわねぇ…男の子はあまり興味は無いのだけど」
このような探索者のような荒くれが集まる街にいる以上、トラブルは三軒先に離れた時たま顔を合わせるご近所さんのようなものだ。
ランザ君やセルシィちゃんのように荒っぽい事は得意分野ではないけれど、多少の心得程度なら持っている。
男はしばらくこちらを見た後、扉の脇に下がり頭を恭しく下げた。
「ならば女の子のお相手はどうかな?ボクで良ければ、一緒にお茶でも飲もうではないか」
安物のスーツを身に纏う中世的な言葉使いの女性。何故か人目見るだけでローネは『成程ね』と根拠もなく思ってしまった。何を成程ねと思ったのかは、我ながらイマイチよく分からないのだが。
「お客様なら、呼び鈴を鳴らしてくれないかしら?」
「その件に対してはまずは謝罪だ。ボクは呼び鈴というものが大嫌いでね。
今修理の業者が必死に修理してるので、そこは了承してほしい」
女性は部屋の中を見渡した。双子の少女の『作品』を見つけて、小さく微笑みガラスケースを黒い手袋をした手のひらで触った。
右は碧眼左は黄眼、右はロングで左はショート、右は優しげで左は活発。そんな右と左を繋げる細やかな裁縫後のような縫合跡。
別々の人間を縫い合わせた異界の芸術。中央の本来なら額のある位置にある碧と黄の瞳を繋げた第三の瞳が、冷たく女性を見下ろしていた。
「興味があるかしら?
彼女達は、双子の少女の作品なの。腹違いの双子なんだけど、姉は活発な妹を羨ましく思い、妹はおしとやかな姉に憧れていた。
そんな二人の思いを尊重して製作してみたのだけど、出来てみれば素晴らしすぎて部屋に飾らざるおえなかった力作ね」
「ふむ…噂通り歪んだ感性をお持ちのようだね。
おっと…失礼。自己紹介がまだだったね。ボクはネイ=リリネウム、しがない企業の役人だ。
彼はボクの助手であるナギ君だ。融通は利かないが有能でね、何時も助けてもらっている。
君はローネ=カーマインだよね?少しお話をしに来たんだ」
「お茶を共にしてくれるお客様は歓迎するわよ?
そうなれば、早く追加の紅茶を淹れないとね」
「お構いなく…と言いたいところだが頂こうか。
ただ、いきなり押しかけてそこまでしてもらうのは失礼だな。台所が分かれば、ボクの助手に淹れさせよう」
「あら、お店以外で誰かが淹れてくれた紅茶を飲めるなんて素敵だわ。
台所は隣の部屋で、葉やカップなら先程出したから見れば分かる所にあるわよ。お菓子や食器も分かる所にあるから。くれぐれも、割らないようにね?」
ナギと呼ばれた男が一例して部屋を出ていく。テーブル越しに反対側の椅子に座ったネイは、にんまりと粘着質な笑みを浮かべた。
「それで、本日はなんのお話をしに来てくれたのかしら?」
「いやいや、実は今ボクは外周りという名目で仕事をサボっていてる立場でね。せっかくだから、旧友がお世話になっているというお友達の元に挨拶しようと思ったんだ」
「旧友?」
「ランザ=ランテ君と言えば分かるかな?
元牙狼の戦斧で現地下探索事務所所長。通称『屍漁り』の自堕落な男だよ」
紅茶の香を楽しみつつ一口飲んで唇を湿らせる。何時ものように上品で優しい味だ。
このままお菓子にフォークを向けたいが、お茶すら用意されていないお客様の目の前でそれは流石に失礼ではないだろうか?
少し考えた後、お菓子を我慢して前を向き直す。このお客様とのお喋りに興じよう。
「ええ、彼は良い友人で善い取引先ですわ?
貴方はそんな彼の旧友と言ったのかしら?」
「そうさ、旧友で親友で盟友で戦友と言った間柄だよ。同じ敵と戦い同じ釜の飯を食べたね。ランザ=ランテ以上にランザ=ランテを理解したね」
このような台詞を本人の前で言ったとしたら、彼は口より先にハルベルトを突き出して来るだろう。
本人不在の中の言いたい方だい、この思いもよらない友人宣言は彼にとっては陰口を言われる事以上に不快で吐き気をもよおす程胸糞悪い話であろう。
ランザ=ランテにとってのこの発言は、さしずめ『いとも容易く行われるえげつない行為』と言えるであろう。
「戦友さんでしたの。それはそれは…さぞ彼とは素晴らしい思い出があるのでしょうね」
「それはそうさ、彼はボクの友という名の大切な存在さ。輝かしい思い出が山程あるよ」
紅茶のみを先に飲みきる。それと同時にタイミング良く、ナギが盆に新しいティーポットとミルフィーユを乗せ入って来た。
手際よくカップにお茶を注ぎ、大量のミルクとこれまた大量の砂糖を注ぎいれる。ああ、あんなに入れてしまったら風味が台無しとなってしまうのに。
「そんな彼が今、ある危機に挑んでいる。
マブダチであるボクの依頼を、快く受けてもらえてね」
「あら、彼が興味がある品物で吊ったのではなく?」
釣るではなく吊る。死地に赴かせる為に、道具を餌に人を動かしたならそれは吊るといった方がしっくりと来るだろう。
「人聞きが悪いなぁ。その言い方じゃ、まるで僕が悪人みたいじゃないか」
「うふふ、ごめんなさいね。それではお友達を括り付けた友人は、本当に挨拶だけの用事なのかしら?」
「お近づきの記しに、一つだけ教えてあげようと思ってね。
ボクは良く知っているのさ、例の『ジョン』と呼ばれている存在がいったいどういう物なのか教えてあげよう」
両手を広げながら語るネイの目の前の皿とカップから、既にお茶とミルフィーユが消えいた。
「確かあれは、新種ではないのかしら?」
「信じるか信じないかは君しだいさ。ボクは一から十まで語らないかもしれないし、ただの戯言であり戯言である狂言なのかもしれない。
お茶の席の、楽しい楽しいお話さ、まあ聞くだけ聞いてみてくれないかな?」
「「「「「「「」」」」」」」
「へえ…それは面白いわね」
□ □ □
縄張り争いという戦争は、敵も味方も無い虐殺会場になっていた。
とっさに身を伏せたが、運が良いのか天井の液体が直撃する事はなかったが、青色のゲルのような液体は周囲ぼエネミーを無差別に包み込み溶解し始めていた。
ゲルは捕まえたエネミーを外周からズルズルに溶かしていくと思ったが、ジョンは皮膚や頭髪等真っ先に溶かしてしまいそうな場所を溶かしたりはしていなかった。口、肛門、鼻孔、耳孔、眼球等穴という穴から体内に侵入していっている。
エネミーは狂ったような悲鳴をあげ暴れるが、中身を溶かして捕食されているせいかその動きは驚く程の速さでしぼんでいき、僅かな痙攣にまで陥る様子が見ていて分かる。
果敢にも棍棒を振り回すダズもいたが、不定形の粘液相手には効果がまるでない。滝の流れにナイフを突き立てたところでなに一つ変わらないのど同じだ。か細い抵抗も無意味に終わる。
内部を捕食された獲物は、水死体のようにぶよぶよの皮膚しか残らず、そのうちその皮膚も消滅するように吸収されていく。これが、ジョンの捕食方法、装備しか残らない理由だ。
死んだら死んだで仕方ないと考えてはいたが、捕食されて死ぬのは割に合わない。ジワジワと殺されるくらいなら、パッと死にたいものだ。
しかしそれすらも叶いそうにない、周囲をグルリとゲルに囲まれてしまっては、逃げ出す事すら困難を極める。
この粘液の塊が一度踏み込んだ得物を簡単に逃がすとは思えない。なにか打撃は元より、斬撃も効果があるとは考え難い。
だが考えろ、どの道死ぬとしても思考停止よりは価値がある筈だ。今は一人ではないのだから。
「ウォ!?なんなんスかこれ!先輩生きてるッスか!?」
間の抜けた叫びが聞こえた。この唯一この餌場の外にいたセルシィが駆けつけて来たらしい。
ゲルの一部がそれに反応したのか、鉄砲水のようにセルシィに向かい襲いかかった。
「捕まるな!捕まったら死ぬぞ!」
「いや訳分からないッスけど!でも当るつもりも無いッスよ!」
尻尾を地面に突き立て縮め、バネのように筋肉を跳ね上げ跳躍。鉄砲水のようなゲルを上空に回避しインテリアのように設置されていた巨大な蛇の彫刻に手をかける。
蛇によじ登り、勢いを殺さず追撃してくるゲルを見て大きく舌打ち。サブマシンを引き抜き乱射するが分厚い粘液に弾丸が呑み込まれて止まり効果をなしていない。
効果が無いと判断して蛇の彫像の上を疾走。追いすがるゲルから逃げながらこちらに顔を向ける。
「生きててなによりッス。だけどこのままじゃお互い今にも死にそうッスね!」
下のゲルも、何時こちらに襲い来るか分からない。恐らく周囲のエネミーが全滅したら此方に向かって来るのだろうが、どうにも制限時間はそこまで長くはないような気がする。
「そうならないように動くぞ!それ、ぶっ壊して落とせ!」
「了解ッス!」
走りつつセルシィが彫像の支えとなっている柱を尻尾を叩きつけ破壊していく。あの彫像を落とせば足場となりここから逃げ出す橋に出来る筈だ。
長さも大きさも十分だ、ゲルに直接足を捕まれなければどうにでもなる。
しかし、セルシィが幾ら素早いといっても、グニャグニャに蛇行する蛇の背中は走り辛い。距離を詰められたら、セルシィが食われると同時に俺達の命が終わる。
「しまっ…」
鱗の彫刻に足をとられセルシィがよろけた。転びこそはしなかったが、この僅かな時間ロスが圧倒的な速さで迫るゲルに対して命取りとなる。
「信じて走れ!なんとかする!」
「りょ…了解ッス先輩!」
今日はこいつをよく投げる日だ。ハルベルトの熱装置をオンにして投擲準備。
筋肉が痛むが無理な行為ではない、なまったと言っても昔とった杵柄だ。問題無く飛ばす事が出来る。
「フッ!」
投げられたハルベルトが、蛇の腹部に直撃。石像の一部にヒビが入り、熱が伝わり石が発火したように赤く輝き始める。熱伝達を阻害する物質でコーティングした持ち手でさえ火傷してしまう熱量だ。
粘体水生物に効果があるとしてら、物理的な打撃や斬撃より科学的な変化のような物の方が少しは効果がある筈だ。
ゲルが刺さったハルベルトに直撃した瞬間、ビチビチと小さな塊に分裂しながら地面に落ちて行く。
しかし、一時しのぎとなっても所詮はそれまでか、堆積を縮めながらもそのまま直進していった。
「の…野郎!」
もう策が無い。あの石像が落ちて来る前にセルシィが追いつかれてしまう。あの馬鹿な女は、この地下で死ぬべきではない。俺とは違いまだ若い、人生だってこれからなのだ。
だとしたら、効果があるかは微妙だが、策が無いからとなにもしない訳にはいかない。
「おい!そんな蜥蜴食った腹壊すぞ!俺を先に食いに来い!
味の保証はしないが、腹壊さないだけマシな筈だ!その馬鹿食わずに降りて来い!降りて来れるのならな!」
こいつはなにに反応して動いている?声か?動きか?それともどこかに瞳がついている?
最初は俺より、動き回るエネミーの連中に向けて落下した。
その次は、大声をあげるセルシィに反応して襲いかかっている。
ある謎は残るが、動きと声に反応して捕食しにかかっているであろう事は多分間違ってはいないだろうと思う。
ならば大声で、少しでも此方に気をそらせるであろうか?やるだけやってみたが、効果があるのかどうかは神のみぞ知るといったところだ。
服の裾を掴まれ、小さな力で引っぱられた。
振り向くと、少女の蒼色の瞳が此方を見上げ小さく首を左右に振っている。
『それは困る』とでも言いたげな悲痛な表情だ。俺を心配しているというより、保身を考えているような雰囲気を出している。
当たり前か、俺に来るという事は、この少女の近くにまでジョンが近づいて来るという事だ。少女の死期がグッと縮まってしまうのだ。
「怖いか?まあ、そうだろうな」
だが、ここで手をこまねいていればもれなく全員死んでしまう。最低限俺が溶かされても、落ちた彫像の上を伝いセルシィが少女を助けて逃げればいい。
いや、まあセルシィは少女を助けないかもしれないが。そうだとしたら、セルシィだけ逃げてくれればそれで良い。
なおもオロオロ顔の少女見て、一つだで策を思いついた。まあ裂くというかなんというか、ただの焼けっぱちみたいなものだが。
ジャケットを脱ぎ、なるべく重くならないように使わない道具を逆さに引っくり返して空にする。サイズはかなりぶかぶかになるが、今はこれを使うしかないだろう。
「ほら、やるよ。加齢臭とかいうなよ?その臭いを発する年齢に行くまでまだまだなつもりでいるからな」
場合によっては手荒な真似をする事になるので、流石にこの格好という訳にはいかないだろう。
肩に上着をかけてやり、手早く前を閉めて上半身と下半身を隠してやる。別段この年齢の小娘に食指は反応したりはしないが、これで目のやり場に困る事もない。
頭の上に軽く手を置いて撫でてやる。サラサラとした触り心地の良い髪質だ。
「娘が生きてて、これくらいの年齢だったら、ゆっくりと頭を撫でるくらいしてやりたかったなぁ。
まあ言っても仕方がないか、ちょっとだけ我慢してくれよ。大丈夫、失敗しても所詮は死ぬだけだから」
少女を持ち上げてお姫様抱っこのように抱きしめる、こうしておけば不愉快なゲルが足元を這っても少しくらいは持つだろう。そろそろ周りのエネミーも消化しきる頃だし、セルシィを追うゲルが此方に来るなら時間はもうない筈だ。
頭にしがみつかれた、高い所は嫌いなのか?……随分と冷たい手のひらをしてやがるな。『死んだみたい』なんて比喩表現がしっくり来るような冷たさだ。
まあこんなところにいたら、身体くらい冷えても当然か?俺と同性同名である牙狼戦斧にいた馬鹿狼も、常に身体が霊堂保存をした屍のように冷えていた。体温の低い人種というのは、人類総数に対して割合こそ少ないが存在はする。
上を向く、もう彫像を支える支柱の殆どが崩されていた。あと一本、セルシィを追うゲルは彼女から離れ俺の方に向かって来ている。
あのゲルが胴に喰いついて来るのが先か、彫像が落ちて来て一時的な道が出来るのが先か。もしも彫像が先だったら、胴にゲルが喰らいつかれた瞬間この少女をなんとか彫像の上に投げる。
足元からまとわりつかれても、上半身は覆い尽くされるまで僅かな時間のみだが自由に動かせる。
さて、改めてなんでこんな事をしているのか、我ながら少し分からなくない。こうなった以上、少しくらい深く考えてみても良いだろう。
屍漁りと呼ばれていた通り、俺自身は特に人を積極的に助けに行く人柄ではない。どちらかと言えば、むしろ相手が死ぬのを待ってから出かけて遺品と遺体を持ち帰るだけだ。
容姿や五体満足の良い遺体は良い金の種になるし、質の良い装備やアクセサリー等は高く売れる。逃亡奴隷がいたら逆に捕まえて横流しするかご主人殿に金を積ませて再度売買するのみだ。
偶に賞金首を追ったりしているが、別段正義の為ではない。売ればしばらくのんびり出来る金が手に入るというだけだ。
セルシィを死なさないように動かす配慮だって、助手がいなくなれば面倒事が増えるという意味で、俺が死んでも生かそうと考えるのだってこんな男の人生に付き合わせてしまった詫びの意味もある。
なら俺は、何故この少女の手を取った?金にもならず、言葉の通じず、何故か全裸で、こんな怪しげな場所で普通に考えれば有り得ない生存者。見捨ててしまうのが安牌である筈だ。
……一つだけ心当たりが思い浮かんだ。
今これを考えると、我ながら納得のいかない事象に適当に理由をつけて無理矢理納得したくなっているのではないかと少し自分を疑ってしまう。
なにせ、初めて見た時は『初めての行方不明探索者発見』くらいしか考えていなかった。無意識化で考えてしまったとでも言うのか?それとも台詞が過去の娘と重なったからか?
さてさてさて、さてさてさてさて、あまり納得はしたくないが、さりとて他に思い浮かぶ動機も無い。論理も糞も無いような理屈が、こんな面倒な事態を呼び寄せた原因だとでも言うのか?
『妻を少女にしたら、こんな感じの容姿なのでは?』
妻は森妖族だった。長耳で長命なかの種族は若い時代が長い。彼女が生まれた年等俺の先祖が3代も遡る。
文明疎い森暮らしだったので、過去の写真が残っているでなし。娘の容姿からなんとなく察するしかないと言えるのだ。
森妖族は、子供を産んだ瞬間長命という人生に幕が降りその後は人間のように年毎に老いていく。それでも人間よりは長命ではあるが、永遠に近い寿命ではなくなるのだ。
妻がその人生を選んでくれた。俺も妻を愛していた。顔等思い返せばつい昨日あったかのように脳裏に浮かべる事が出来る。
髪の色や、やや程度しか尖っていない耳等、妻との類似点は少ない所もあるが顔立ちは『こんな感じなのだは?』と少し考えてしまうくらい似ているのだ。
だから助けた?妻の容姿と、最後に助けを求めた娘の記憶に従って?随分センチメンタルな存在になってしまったもんだ。
「落ちるッスよ!先輩!」
上手く考えがまとまった瞬間、巨大な彫像が地響きを上げて落下した。
落ちてしまえば、触手のようにゲルを繋げて迫るジョンより、重力に従い落ちた彫像の方が早かったようだ。
「こっちッス!急いでください!」
曲がりくねる蛇の通路の向こう、ゴールである頭部の位置で彼女は大きく手を振っていた。尻尾を上手くバネのようにクッションにして落ちた衝撃を殺したのだろう。便利な尻尾だ。
「捕まっていろ!」
この一時的に落ちた道も、何時ジョンのゲルが覆いつくし通行不能になるか分からないだろう。
走り出した瞬間、背後で大量の粘液が落下したかのような水音。背後を向いている暇はない、全力で走り抜けるしかない。
蛇の尾からスタートした逃走路は、丸い胴体が曲がりくねり鱗の細工のせいで非常に走り難い。こんな通路を、よくセルシィは走り抜けたものだ。
だが前に進むしかない。我ながら半信半疑の動機ではあるが、助けると判断するなら助けるしかないのだ。
もう無力ではないつもりだ、ほんの少しくらいは運命とやらに掛け合うだけの力は持っているだろう。
まったく面倒だ、十人殺すのは簡単なのに一人救うのはこんなに厄介で難しいものなのか。
「先輩間に合いませんよ!その餓鬼捨てちまってくださいよ!」
「そんなすぐ後ろなのか!?」
「死んじゃうッスよそれじゃあ!餓鬼捨てて飛んでください!尻尾伸ばしますから捕まるッスよぉ!」
こういう時の事を考えた上でのお姫様抱っこだ。この少女を捨てるしか方法がないとしたら、最初からこうするつもりだ。
「受け取れ!帰ったらお前が勧める漫画とアニメ全部見てやるから!」
「へ?うお?はい!?」
セルシィが伸ばした尻尾に少女を放り投げる。放物線を描き飛んで来る少女に、セルシィは慌てながら尻尾で巻きつけ引き寄せた。
ゲルのいない通路に二人は転がり、ひとまずは安全圏に避難する。セルシィが慌てて起き上がり此方を見た。少女もあどけない表情をこちらに向けている。
「なにやっっってるッスか!馬鹿先輩!今そっちに」
「来るな馬鹿野郎!」
衝撃で硬直したようにセルシィが固まる。自分でも分かるが、俺はもう手遅れだ。
振り返ると、ゲルが壁ののようにせりあがっていた。まるでこれから襲い来る大津波のようだ。
ランザ=ランテ、波乱に満ちた詰まらない人生は、ミイラ取りがミイラになって終わり。まったく面白いお話だ。
別段恐怖はない、どのみち今日まで生きて来たのが奇跡みたいなものなのだ。
特にやり残した事は…あった、セルシィに漫画とかアニメとか見る約束をたった今したばかりではないか。まあ咄嗟に浮かんだのがあの言葉くらいなので大目に見てもらおう。
死して死骸を残さず。火葬や土葬の手間も省けて、蟲が体内に巣食ってしまう気味の悪い心配をする必要もない。
死体を扱っていた俺が、自分の死体を心配する必要もないのは幸運だ。
軽く肩ごしに手を振ってやる。
セルシィには取り敢えずお疲れさん。少女には、ひとまず二度と地下に来ないように念じておいてやろう。
ああ…クソ、思い出を回想する暇もありゃしない。津波が俺に襲いかかりり…
その瞬間、轟音と烈風と共に時間が止まった。
因みに、時間が止まったというのは比喩である。