奏。機械の心
六月の湿った空気が流れる。梅雨の時期を思わせるじっとりとした風だ。季節はゆったりと春から夏へと変化していくのを肌で感じる。空はどんよりとした曇天模様で、今にも雨が降ってきそうだ。幸い、奏は傘を持っているから濡れる心配はない。
奏は空を見上げ、嘆息した。今日も雨か。憂鬱な空気にやられて、自分まで暗くなってしまう。梅雨の時期に晴れ渡る空を見ることは珍しい。いつもジメッとした空気が肌にまとわりついて不快感が上がっていく。
夕刻、学校にいる人間はまばらだ。部活動に精を出している人間はこの学校ではわずかしかいない。奏もその一人だ。何をする気も起きず、ただ学校と家を往復するだけの生活。正直に言って嫌になるほど退屈な人生だ。
なにか大きなことが起きればいい、と思う。
梅雨空を晴れ渡すような、太陽のような出来事が発生すればこの鬱屈とした空気もどこかへ飛んでいくのに。
だが、世界は大きな変化をもたらさない。何時まで経っても退屈な時間は退屈な時間として進んでいく。奏にそれを変えるだけの力はない。ライトノベルでよくある能力が使える学生でもなければ、何かに突出した才能を持つ訳でもない。ただのどこにでもいる学生だ。
髪は腰まで長く、艶やかな黒に染まっている。女子特有の体のラインも浮き出ていて、女性としてとても魅力的なものがある。しかし、彼女には他人を寄せ付けない真っ黒に染まった目があった。誰しもが近寄りがたい、そんな雰囲気を彼女は常にまとっていた。
その目は絶望に染まったかのように淡白で、何を見ているのかすら定かではない。そのため友人と言える人間は誰もおらず、奏は孤独だった。
奏自身、孤独を貫いている間、何を考えるでもなく、ただ学校にいただけだ。寂しいとも、悲しいとも。まるで感情を見せず、その姿はまるでマネキン人形のような平坦な感情が刻まれている。
学業成績は常に目立たない中盤に位置し、運動でも目立った活躍をしない。彼女は目立つということは嫌いであり、学業に対しても否定的だ。
こんな勉強、何の役に立つの?
彼女が常々疑問に抱いているものだ。学校というものに意味を求めていない。ただ親から行けと言われたから行っているだけであり、そこに彼女の意志というものは微塵も含まれていない。
彼女はまるで機械だ。言われたことを言われた通りに実行する。自分から動くことなどほとんどといっていいほどにない。自発的な行動というものが彼女には欠如していた。勉強をしろ、と言われれば勉強をし、寝ろと言われれば寝る。それが佐伯奏という存在であった。
帰宅を促す下校のチャイムが昇降口に鳴り響いた。そして奏はようやく外に出る。自分から出るのではなく、下校を勧められたから出る。彼女には自分で決めるという能力も欠如していた。
奏の顔はまるで何も感じていないかのような無表情で、世間を達観しているように見える。
この世界に何の意味があるの?
彼女が度々世界に投げかける疑問である。
奏の周りは世間の暗闇から逃げるように明るく振舞い、楽しそうに駆けていく学生を眺める。
(一体何が楽しいの? こんな世界が)
何故笑えるのかがわからない。何故悲しめるのかがわからない。何故悔しがるのかわからない。奏には全てが理解できなかった。
壊れると思うのなら、最初から触らなければいい。無くなってしまうなら得なければいい。それが奏の考え方だ。それ故、彼女は何かを得ようとはしない。金も、友情も、愛情も何もかもを欲しない。完璧なまでの無欲だ。
じっとりと雨が降り始めた。機械的な動作で傘を開く。雨が降ったら傘を差しなさいと言われたからそれに従うだけだ。
雨に濡れるアスファルトの水たまりに何の躊躇いもなく足を突っ込む。それは雨で遊びたい訳ではなく、ただ単に水たまりを避けなさいと言われていないからだ。ビシャビシャに濡れた革靴を何とも思わずそのまま進んでいく。彼女には不快感というものがない。それどころか感じる全てがない。彼女を機械と言ったが、それはあながち間違いではない。
いつもと同じ道を通り、いつもと同じ家に辿り着く。家はこの辺では一番大きく、大きな門が建てられている。ところどころに意匠が施されており、噂によればこれ一つで家が建つほどの値段らしい。
そんな豪華な門を何とも思わずに潜り抜け、すりガラスで作られた玄関を開ける。玄関先には流木で作られた芸術品が鎮座している。これも名のある芸術家が作ったもので、価値は計り知れない。奏にはただのゴミに見える。親からどんな講釈を受けても、まったく値段に釣り合うようには思えない。芸術を理解するという目も欠落していた。
濡れた足で構うことなく、玄関を上がる。ヒノキの一枚板で作られた豪華な廊下だ。住み込みで働いている従者が着替えの靴下とタオルを持って出てきた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
何の臆面もなくいつものように返事を返す。何ひとつの感情も混ざっていない。ただの挨拶だ。
「靴下をお取り替えしてください」
靴下を脱ぎ、タオルで拭かれる。渡された靴下を言われた通りに交換し、部屋へと入っていく。
部屋の中は本棚とベッド、それと机があるばかりで実に閑散としている。奏にとっての趣味というものはなく、ただ漫然と本を読む事が多い。これは父親に「お前も本を読みなさい」と言われたからであり、彼女自身が望んで本を読んでいる訳ではない。
本棚に収納されている本は実に種類豊かだ。経済学の本から絵本まで、実に多彩なラインナップを誇る。これはただ単に書店員に勧められている本だからという理由で購入したもので、彼女の意志は微塵も介入していない。
本棚から適当に最近買った本を取り出してベッドに腰掛けて読みふける。内容はイマイチ理解できていないが、それでも読む。彼女の時間はほとんど読書と勉強に振り分けられる。それ以外に時間を潰すものがなかった。
親は厳格で、テレビやゲーム、ましてパソコンといえるものは人生を堕落させるという持論を持っていて、それが如実に影響されている。
彼女には娯楽もなければ趣味もない。ただ生きているだけだ。人というものは何か目標に向かって生きているものだ。常に目の前の何かを見つめている。それがなんであれ、だ。だが彼女にはそれがない。黒く濁りきった目がそれを証明している。
しばらく本を読んでいると、
「晩御飯のお仕度でできました」
と従者が知らせにきた。本に青い栞を挟んで立つ。従者に誘導されるがままに食堂へと歩いて行く。
「席について、お食べ下さい」
言われた通りに席につき、食事を始める。食堂は大人数での食事があっても大丈夫のようにテーブルは異常なほどに長い。そこの隅にぽつんと奏が座り、何も言わずに食事を進める。両親は共に働きに出ていて食事を一緒にすることなど滅多にない。いつも奏は一人で食事を摂っている。
それを寂しいと思ったことは一度もない。彼女が生まれてからずっとこの態勢だったからだ。孤独というものに慣れきってしまい今では何の感情も湧かない。
食事を食べ終わり、席を立つ。従者が食器を片付けている間に奏はまた部屋に戻り、本を読み始めた。
従者がまた現れ、お風呂が湧きました」
渡されたパジャマと真新しい下着を受け取って、浴場に向かう。このときも本は手放さず、半身浴をしながら本を読み続けた。
そして時間はめぐり、短い秒針が十二時を告げる頃、また従者が現れて、
「そろそろお休みになってください」
というので本棚に本を戻して、ベッドに横になる。眠くはなかったが、照明を消して目を閉じていると徐々に眠気が現れてくる。
そして夢も見ない熟睡へ。
朝、目覚まし時計のベルが鳴って、奏はゆっくりと起き上がった。ベルを手で軽く叩き、大人しくさせる。
今日も空は曇天模様だ。
何も変わらない。
何も得ない。
つまらない生活がまた一日始まるのであった。