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短編No.01-20

No.10 走馬灯の刹那にめぐる貴女

作者: 藤夜 要

 もう何十年、心に懺悔の雨が降り続けたのだろう?

 臨終の際に立って尚、私の心に降り続ける、後悔の雨。

 先に逝った貴女は、私を迎えてくれるだろうか。それとも、私が裏切った親友と共に、黄泉への扉を閉ざしてしまうだろうか――?




 貴女は親友の想い人だった。私もそれは知っていた。そして、貴女もまた、きっと私の親友の事を――。

 貴女が幸福であればそれでいい、私は、本当にそう思っていたのだ。貴女の姉君にあんな一言を囁かれるまでは。

『奪っておしまいなさいな――私は、妹からあの人を奪いますわ』

 あなた次第、と囁かれ、私は魔女の囁きに眩んでしまった。

『彼が、姉娘さんの求婚に訪れるらしいですよ』

 貴女の親御さんに、そう一言予告する、それだけの事だった。


 親友は、貴女の家の門戸をくぐったと同時に、求婚の言を発する事も出来ないまま、真意を告げられぬまま、貴女のご両親の姉君との婚儀を祝う言葉と、その喜びを口にされ、あれよあれよという間に、二人は夫婦(めおと)になりましたね。

 婚礼の日の、あのしとしとと降り注ぐ雨は、あれは貴女の涙だったのでしょうか。私は、今でもあの日の憂いだ笑顔で姉君に祝辞を述べる、貴女の儚げな姿を忘れられないでいる。


 傲慢にも、あの頃の私は貴女の心の梅雨を晴れさせる事が出来ると思っていた。

 貴女は私の罪を知っていたのだろうか。私が求めるままの答えを口にして、貴女は私の妻となった。

 一男一女に恵まれ、貴女は私に忠義を尽くし、私は貴女の笑顔と子供たちの成長を心の糧に、日々まい進して過ごして来た。


 おこがましい事に、私は貴女を幸福にしてやれた、と思っていたのだ。

 貴女の心の奥底に降り続けている、じっとりとした梅雨が明けていない事に気付いたのは、親友が病に倒れた、臨終の際での最期の逢瀬の時だった――。




 親友は、義兄として私達夫妻に最期の言葉を述べるというより、病に冒され朦朧とした意識の中で、健常である時には厳重に纏い続けていた全ての(きぬ)を取り去って、うわ言の様に繰り返した。

『ずっと、貴女を愛していた』

 と。

 彼が残した遺言状には、真っ先に貴女宛の言葉が添えられていた。

『誰よりも、我の支えとなってくれた貴女に、永遠の感謝と永遠の親愛を捧ぐ』

 あの裏切りの日から四十年も経つと言うのに、貴女の姉君と私は、その一言(いちごん)を目にし、鮮明に罪の意識を痛感した。

 姉君の流した滝の様な涙に比べ、貴女の流した涙が、失った恋を洗い流すかの様に細く長く、降り注ぐ長月の雨の様に続いたのは、私への遺恨の涙だったのだろうか。

 私は、真実を知るのが恐ろしくて、貴女にそれを問う事が出来なかった。

 募りゆく想いは、老いによる不安と相まって、貴女への執拗な固着と我侭となって顕れていった。

 私は確かに貴女を愛していたのに、貴女を大切に出来なかった。貴女に完璧を求め、老いと、病で身体が不自由になった事から来る不安や苛立ちが拍車を掛けて、私の世話を必死でしてくれる貴女に、十年近くも辛く当たった。


 私は、貴女という聡明な女性に相応しくない男だった――。




 貴女が私を置いて去る、という事を考えた事のない私だった。

 ある朝突然、眠る様に身罷った貴女を最初に見つけたのさえ、私ではなく息子の細君だった。

 最期の時を過ごす事さえ、貴女は私に許さなかった。――私は、そう思った。

 彼が見兼ねて貴女を迎えに来たのだろう、私はそう思って、泣く事さえ許されない身の程を知った。

 貴女を見送ったあの日も、彼を送った日と同じ、心の奥底まで凍えさせる冷たい雨の日だった。

 永遠の眠りに就いた貴女の(おもて)が微笑に彩られていた事。それだけが、私の救いだった。


 彼と再会出来たのだ、私からようやく解放されたと嬉しかったのだろう、罪深い私が出来る事は、貴女を笑顔で送ることだけ――そう思ったから、私は貴女を永遠に失った事を嘆く事が出来なかった。




 息子の嫉妬が原因で喧嘩をした息子の細君に問われ、一度だけ話した事がある。

「好いた者同士で結ばれねば、生涯悔やむ事になる」

 と。私への彼女の献身的な介護が息子の嫉妬の原因と知り、貴女を解放してやれなかった罪悪感から、せめて息子の細君を解放する事で懺悔になればと思ってそう告げた。貴女の話を、初めて私は他人に語った。そんな自分に驚いた。月日の流れを感じていた。

「だから、私に気兼ねをする事無く、君の自由にしたらいい」

 と、嘘偽り無い心でそう告げた。


 驚いた事に、息子の細君は、笑ったのだ。私の懺悔に近い昔話を聞いて、笑って彼女はこう言った。

「嫌だわ、おじいちゃん。時代は変わっているんですよ? 幾つになろうと、愛情がなかったら離婚が出来てしまう、今はそんな時代です」

 彼女は、貴女が私を見捨てずに、最期の時まで私の妻で在り続けてくれたのは、(いにしえ)の風習からの諦めではなく、愛情からだと自信たっぷりに断言してくれた。

 その言葉は、最初こそ他愛の無い嫁の私への慰みの言葉と思っていたが、時間が経つと共に、霧雨の様に、しっとりと私の心の中に降り注ぎ、優しく浸透していった。


 親友と貴女を裏切った、こんな薄汚い私の事を、少しでも貴女は愛してくれていたのだろうか?

 余命も少ないこの年になって尚、私は貴女の心に杞憂していた。




 私は最期の夢を見る。

 不思議な事に、その瞬間というのは自分で解るものなのだな、と、夢の中で私はぼんやりと妙な感心を口にしていた。

 走馬灯の刹那にめぐる貴女。この数十年の幾年月が、甘酸っぱい懐かしさと共に蘇り、私の中で乱舞した。

 そこに千千(ちぢ)にちりばめられるは、全て貴女の笑顔と言葉。


 ――母にならせて下さってありがとうございます、あなた

 ――私がこんな風に思えるのは、皆、あなたのお陰ですよ

 ――もう、あなたはそうやって、すぐに私に謝ります

 ――ありがとう、と喜んで戴きたいのですよ、私は

 ――息子も娘も家庭を持って、また二人きりになれましたね……


 最期の刹那、貴女の言葉の雨が降り注ぐ。決して直接的な言葉を口にしなかったのは、私への隠した遺恨の為ではなく、大正生まれの貴女の、拭い切れない大和撫子故の慎ましさ。


 私は、貴女に愛されていたのだ。


 それに気付くのに、何十年も掛かってしまった。疑い続け、謝罪し続け、自ら不幸の雨を身の内に降らせ続けていた。


 貴女の差し出すその手を取るまで、私はそれに気付かなかった。


 すまなかった、ではなく、ありがとう、と。

 そして、今度こそ、胸の内をそのままに。

 貴女にちゃんと伝えたい。


 “貴女を永劫、愛している”、と――。




「おじいちゃん、いい顔して逝かれたわね」

 息子の細君が息子にそう呟いていた。

「お前に聞くまで、親父がそんな想いを引きずってたなんて、俺、全然知らなかったからさ。……お前にも、悪い事したな。すまん」

 息子が細君にそう詫びていた。

「おばあちゃんの時と違って、よいお天気」

 おじいちゃんの心が晴れたのかな、という細君を、息子は彼女の許しと受け取った。

「なあ、お前もさ、おふくろみたいに、俺の事見捨てずに、これからもずっと傍にいてな?」

 と照れ臭そうに言う彼に、細君ははにかんだ笑顔を見せていた。

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