知らなかった君の痛みを、誰かの声が教えてくれた
「君のことを、もう一度ちゃんと知りたい」
そう思えるようになった春の終わり。
僕たちは、何もないような日常のなかで、
少しずつ、“恋”よりも深いものを築いているような気がしていた。
けれどある日、再会は突然だった。
•
大学の構内。
午後の講義を終えて、いつものように彼女と合流するために渡り廊下を歩いていたとき――
ふと、懐かしい名前を呼ばれた。
「……あれ? もしかして、安藤くん?」
振り返ると、そこに立っていたのは、高宮理子。
高校時代、僕と彼女、そして美桜の三人でよく一緒にいた友人だった。
卒業後は関東の大学に進んだと聞いていたはずなのに――
「びっくりした! 久しぶりだね!」
「……うん、ほんとに。理子、こっち来てたの?」
「今月から研究で短期留学しててさ、今週はこの大学で資料探してるんだ」
彼女は変わっていなかった。
よく通る声と、真っ直ぐすぎる視線。
そして、人の心を読みすぎるところも。
少しの近況を話したあと、彼女はふと、真顔になった。
「ねえ。今、“このえみお”と……会ってる?」
その名前に、肩が少しだけこわばる。
「……うん、会ってる。というか、また……一緒にいるよ」
すると理子は、目を伏せて言った。
「そっか。……会ってるなら、ひとつだけ、伝えたいことがあるの」
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カフェに席を移し、彼女は語り始めた。
それは、僕の知らなかった“あの頃の彼女”の話だった。
「安藤くんが知らないだけで、美桜ってね、高校の頃すごく誤解されてたよ。
“冷たい”とか“すぐ別れる”とか、そういう噂。……でも、誰も彼女の話をちゃんと聞こうとはしなかった」
「……」
「私、あのとき何度か彼女に聞いたの。どうして別れたのって。そしたらね、“安藤くんを巻き込みたくなかった”って、繰り返してた」
「……うん。彼女、そう言ってた」
「たぶん、言葉じゃなくて、“沈黙”で守ろうとしたんだと思う。だけど、それがどれだけ孤独だったか……ほんとは、誰かがそばにいるべきだったんだよね」
その言葉は、鋭く胸に突き刺さった。
僕は、“支えたつもり”になっていた。
でも彼女はきっと、ずっと独りだったんだ。
「いま、ちゃんと隣にいてくれてる?彼女のこと、ちゃんとわかろうとしてる?」
そう問われて、僕は黙ってうなずくことしかできなかった。
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その夜。
僕は彼女と会うことにした。
駅前のバスロータリー。
灯りの下で待っていた彼女の姿は、どこか不安げで、それでも僕を見つけた瞬間、少しだけ笑った。
「……どうしたの? 顔、こわいよ」
「さっき、高宮理子に会った」
彼女の表情が固まる。
そして、微かに首をかしげた。
「……そっか。何か、言ってた?」
「うん。高校のとき、君がひとりで抱えてたこと、少しだけ聞いた」
彼女は、視線を落としたまま、何も言わなかった。
「僕、あのとき自分のことでいっぱいいっぱいで、君が何を守ろうとしてたのか、ちゃんと見ようともしなかった。
それがずっと引っかかってた。……でも今なら、少しだけ君の痛みがわかる気がする」
彼女は、ほんの少しだけ息を詰めたように見えた。
「……そんなふうに言われたら、泣けなくなっちゃうじゃん」
「泣いてもいいよ。何回でも受け止めるから」
「……何回でも?」
「うん。何回でも、何度でも。
君が悲しくなるたび、そばにいるって決めたから」
彼女は目元を押さえながら、静かにうなずいた。
•
バスのライトが遠ざかる頃、彼女がぽつりとつぶやいた。
「理子、やっぱり何か言ったんだね。……あの子、すごく優しいから、いつも誰かの代わりに痛がってくれるの」
「でも、彼女のおかげで気づけた。……君がどれだけ傷ついていたか」
「ううん、あのときより、今のほうがずっとこわいよ。
だって、こんなに君のことが好きなんだもん」
その言葉が、夜風に乗って心に落ちた。
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知らなかった“君の痛み”は、
誰かの声を通して、ようやく僕の中に届いた。
それはふたりにとって、ひとつの再出発だった。
今度は“もう知らないままにしない”と、
強く、そっと、手を握り返した。
──そして、また季節が、静かに動き出す。
それから数日後。
日曜の午後、彼女は僕に言った。
「……理子と、ふたりで会うことにした」
驚くことはなかった。
けれど、胸の奥でなにかがそっと揺れた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。……むしろ、ちゃんと話さなきゃって思ってた。ずっと」
彼女はそう言って、小さく笑った。
その笑顔は、どこか寂しさを含んでいたけれど、確かに前を向いていた。
•
待ち合わせ場所は、小さな駅ビルの屋上庭園だった。
午後の光がやわらかく差し込むテラスに、理子はひと足先に来ていた。
彼女が姿を見せると、理子は変わらない調子で「久しぶり」と手を振った。
「変わってないね、美桜」
「理子こそ」
ふたりは、並んでベンチに座った。
そして、短い沈黙のあと、先に口を開いたのは理子だった。
「高校のとき、あんたさ、ほんと何も言わなかったじゃん。安藤くんのこと、どう思ってたのかも、どうして別れたのかも、結局ちゃんとは話さなかった」
「……話せなかったの」
「どうして?」
彼女は少し視線を伏せた。
けれど、言葉は途切れなかった。
「誰かに“守ってる”って思われたかったんだと思う。
本当はただ、どうしていいか分からなかっただけなのに。
あの頃の私は、“傷つく前に終わらせよう”って、
そればっかり考えてた」
理子はそっと目を細める。
「今は?」
「今は……怖くても、一緒にいたいって思えるようになった。
ううん、違う。“怖いからこそ、ちゃんとそばにいたい”って思ってる」
「安藤くん、変わった?」
「うん。……優しいままだよ。
でも、前よりちゃんと私を見てくれてる。
だから私も、ちゃんと見返したいなって思ってる」
理子は小さく笑って、両手をひざに置いた。
「……あんた、ちゃんと顔してきたんだね」
「顔?」
「誰かのとなりに立てる顔。
ひとりで戦う顔じゃなくて、
誰かに愛されてるって顔してる」
それは、理子にしか言えないやさしい言葉だった。
•
別れ際、理子は彼女に封筒をひとつ渡した。
「これ、卒業のときに渡せなかった手紙。あの頃の私から、今のあんたへ」
彼女はしばらく手紙を見つめていたが、やがてうなずいて受け取った。
「……ありがとう」
「また、どこかで会おうね。今度は、もっと笑って」
理子はそう言って、駅のほうへと去っていった。
•
その夜、彼女は僕に電話をかけてきた。
「……読んだよ。理子の手紙」
「どうだった?」
「泣けた。全部覚えててくれたんだなって思ったら……
私のこと、ちゃんと見てくれてた人がいたんだって思ったら、やっと、あの頃の自分も許せた気がした」
僕はただ、うん、と答えた。
「だから、明日言うね」
「……なにを?」
「名前のない関係に、名前をつけてもいいかってこと」
その言葉に、胸の奥が、じんわり熱くなる。
静かな夜だった。
けれど、確かに何かが変わろうとしていた。
•
あのとき彼女が言えなかった言葉。
守ろうとしたもの、守れなかったもの。
その全部を、いまの彼女はもう一度、
「選び直そうとしている」。
その事実だけで、僕は十分だった。
次の日、午後の陽射しが少しやわらいだ頃。
僕たちは駅裏の並木道で待ち合わせた。
風が少し強くて、彼女の髪が揺れていた。
けれど、その表情にはもう、迷いの影はなかった。
「……待たせた?」
「ううん。今来たところ」
いつものように他愛のないやりとりをして、僕たちは並んで歩き出す。
何も特別じゃない会話のなかで、
何気なく、でもゆっくりと距離が近づいていくのを感じていた。
ふと、彼女が足を止めた。
「ねえ」
「うん?」
「私たちって……もう、“たぶん”じゃなくてもいいよね」
そう言った彼女の声は、決して大きくはなかった。
けれど、心の奥にまっすぐ届く確かな音だった。
「昨日、理子と話して、手紙も読んで――やっと、自分のことをちゃんと見られた気がしたの。逃げてたことも、守りたかったことも、全部含めて、あのときの私だったんだって」
「うん」
「だから今は、“守りたいから離れる”んじゃなくて、
“守りたいから、そばにいる”って思えるようになった。……それって、ちゃんとした気持ちだよね?」
僕は彼女の言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。
「うん。……ずっと、君がその言葉を言ってくれるの、待ってた」
彼女は少しだけ照れくさそうに笑って、
それからまっすぐ、僕の目を見て言った。
「じゃあ、改めて――私と、恋人になってください」
どこか不器用なその言葉が、
僕にとっては、どんな美辞麗句よりも尊く感じた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その瞬間、風がふたりの間を通り抜けていった。
まるで、あの春に残した“さよなら”をそっと運び去るかのように。
•
帰り道、彼女が笑いながら言った。
「ねえ、ちゃんと名前がつくと、ちょっと照れるね」
「でも、なんか嬉しいよ。やっと“わたしたち”って言えるから」
「……うん。やっと、だね」
その言葉には、
これまでのすれ違いも、迷いも、痛みも、すべてを越えてきた実感があった。
ふたりの関係に名前がついた日。
それは、“恋の終わり”から続いた物語が、
ようやく“未来を描く物語”へと変わっていった日でもあった。