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8/21

知らなかった君の痛みを、誰かの声が教えてくれた

「君のことを、もう一度ちゃんと知りたい」

そう思えるようになった春の終わり。

僕たちは、何もないような日常のなかで、

少しずつ、“恋”よりも深いものを築いているような気がしていた。


けれどある日、再会は突然だった。


大学の構内。

午後の講義を終えて、いつものように彼女と合流するために渡り廊下を歩いていたとき――

ふと、懐かしい名前を呼ばれた。


「……あれ? もしかして、安藤くん?」


振り返ると、そこに立っていたのは、高宮理子。


高校時代、僕と彼女、そして美桜の三人でよく一緒にいた友人だった。

卒業後は関東の大学に進んだと聞いていたはずなのに――


「びっくりした! 久しぶりだね!」


「……うん、ほんとに。理子、こっち来てたの?」


「今月から研究で短期留学しててさ、今週はこの大学で資料探してるんだ」


彼女は変わっていなかった。

よく通る声と、真っ直ぐすぎる視線。

そして、人の心を読みすぎるところも。


少しの近況を話したあと、彼女はふと、真顔になった。


「ねえ。今、“このえみお”と……会ってる?」


その名前に、肩が少しだけこわばる。


「……うん、会ってる。というか、また……一緒にいるよ」


すると理子は、目を伏せて言った。


「そっか。……会ってるなら、ひとつだけ、伝えたいことがあるの」


カフェに席を移し、彼女は語り始めた。

それは、僕の知らなかった“あの頃の彼女”の話だった。


「安藤くんが知らないだけで、美桜ってね、高校の頃すごく誤解されてたよ。

“冷たい”とか“すぐ別れる”とか、そういう噂。……でも、誰も彼女の話をちゃんと聞こうとはしなかった」


「……」


「私、あのとき何度か彼女に聞いたの。どうして別れたのって。そしたらね、“安藤くんを巻き込みたくなかった”って、繰り返してた」


「……うん。彼女、そう言ってた」


「たぶん、言葉じゃなくて、“沈黙”で守ろうとしたんだと思う。だけど、それがどれだけ孤独だったか……ほんとは、誰かがそばにいるべきだったんだよね」


その言葉は、鋭く胸に突き刺さった。


僕は、“支えたつもり”になっていた。

でも彼女はきっと、ずっと独りだったんだ。


「いま、ちゃんと隣にいてくれてる?彼女のこと、ちゃんとわかろうとしてる?」


そう問われて、僕は黙ってうなずくことしかできなかった。


その夜。

僕は彼女と会うことにした。


駅前のバスロータリー。

灯りの下で待っていた彼女の姿は、どこか不安げで、それでも僕を見つけた瞬間、少しだけ笑った。


「……どうしたの? 顔、こわいよ」


「さっき、高宮理子に会った」


彼女の表情が固まる。

そして、微かに首をかしげた。


「……そっか。何か、言ってた?」


「うん。高校のとき、君がひとりで抱えてたこと、少しだけ聞いた」


彼女は、視線を落としたまま、何も言わなかった。


「僕、あのとき自分のことでいっぱいいっぱいで、君が何を守ろうとしてたのか、ちゃんと見ようともしなかった。

それがずっと引っかかってた。……でも今なら、少しだけ君の痛みがわかる気がする」


彼女は、ほんの少しだけ息を詰めたように見えた。


「……そんなふうに言われたら、泣けなくなっちゃうじゃん」


「泣いてもいいよ。何回でも受け止めるから」


「……何回でも?」


「うん。何回でも、何度でも。

君が悲しくなるたび、そばにいるって決めたから」


彼女は目元を押さえながら、静かにうなずいた。


バスのライトが遠ざかる頃、彼女がぽつりとつぶやいた。


「理子、やっぱり何か言ったんだね。……あの子、すごく優しいから、いつも誰かの代わりに痛がってくれるの」


「でも、彼女のおかげで気づけた。……君がどれだけ傷ついていたか」


「ううん、あのときより、今のほうがずっとこわいよ。

だって、こんなに君のことが好きなんだもん」


その言葉が、夜風に乗って心に落ちた。


知らなかった“君の痛み”は、

誰かの声を通して、ようやく僕の中に届いた。


それはふたりにとって、ひとつの再出発だった。

今度は“もう知らないままにしない”と、

強く、そっと、手を握り返した。


──そして、また季節が、静かに動き出す。


それから数日後。

日曜の午後、彼女は僕に言った。


「……理子と、ふたりで会うことにした」


驚くことはなかった。

けれど、胸の奥でなにかがそっと揺れた。


「大丈夫?」


「うん、大丈夫。……むしろ、ちゃんと話さなきゃって思ってた。ずっと」


彼女はそう言って、小さく笑った。

その笑顔は、どこか寂しさを含んでいたけれど、確かに前を向いていた。


待ち合わせ場所は、小さな駅ビルの屋上庭園だった。


午後の光がやわらかく差し込むテラスに、理子はひと足先に来ていた。

彼女が姿を見せると、理子は変わらない調子で「久しぶり」と手を振った。


「変わってないね、美桜」


「理子こそ」


ふたりは、並んでベンチに座った。

そして、短い沈黙のあと、先に口を開いたのは理子だった。


「高校のとき、あんたさ、ほんと何も言わなかったじゃん。安藤くんのこと、どう思ってたのかも、どうして別れたのかも、結局ちゃんとは話さなかった」


「……話せなかったの」


「どうして?」


彼女は少し視線を伏せた。

けれど、言葉は途切れなかった。


「誰かに“守ってる”って思われたかったんだと思う。

本当はただ、どうしていいか分からなかっただけなのに。

あの頃の私は、“傷つく前に終わらせよう”って、

そればっかり考えてた」


理子はそっと目を細める。


「今は?」


「今は……怖くても、一緒にいたいって思えるようになった。

ううん、違う。“怖いからこそ、ちゃんとそばにいたい”って思ってる」


「安藤くん、変わった?」


「うん。……優しいままだよ。

でも、前よりちゃんと私を見てくれてる。

だから私も、ちゃんと見返したいなって思ってる」


理子は小さく笑って、両手をひざに置いた。


「……あんた、ちゃんと顔してきたんだね」


「顔?」


「誰かのとなりに立てる顔。

ひとりで戦う顔じゃなくて、

誰かに愛されてるって顔してる」


それは、理子にしか言えないやさしい言葉だった。


別れ際、理子は彼女に封筒をひとつ渡した。


「これ、卒業のときに渡せなかった手紙。あの頃の私から、今のあんたへ」


彼女はしばらく手紙を見つめていたが、やがてうなずいて受け取った。


「……ありがとう」


「また、どこかで会おうね。今度は、もっと笑って」


理子はそう言って、駅のほうへと去っていった。


その夜、彼女は僕に電話をかけてきた。


「……読んだよ。理子の手紙」


「どうだった?」


「泣けた。全部覚えててくれたんだなって思ったら……

私のこと、ちゃんと見てくれてた人がいたんだって思ったら、やっと、あの頃の自分も許せた気がした」


僕はただ、うん、と答えた。


「だから、明日言うね」


「……なにを?」


「名前のない関係に、名前をつけてもいいかってこと」


その言葉に、胸の奥が、じんわり熱くなる。


静かな夜だった。

けれど、確かに何かが変わろうとしていた。


あのとき彼女が言えなかった言葉。

守ろうとしたもの、守れなかったもの。


その全部を、いまの彼女はもう一度、

「選び直そうとしている」。


その事実だけで、僕は十分だった。


次の日、午後の陽射しが少しやわらいだ頃。

僕たちは駅裏の並木道で待ち合わせた。


風が少し強くて、彼女の髪が揺れていた。

けれど、その表情にはもう、迷いの影はなかった。


「……待たせた?」


「ううん。今来たところ」


いつものように他愛のないやりとりをして、僕たちは並んで歩き出す。


何も特別じゃない会話のなかで、

何気なく、でもゆっくりと距離が近づいていくのを感じていた。


ふと、彼女が足を止めた。


「ねえ」


「うん?」


「私たちって……もう、“たぶん”じゃなくてもいいよね」


そう言った彼女の声は、決して大きくはなかった。

けれど、心の奥にまっすぐ届く確かな音だった。


「昨日、理子と話して、手紙も読んで――やっと、自分のことをちゃんと見られた気がしたの。逃げてたことも、守りたかったことも、全部含めて、あのときの私だったんだって」


「うん」


「だから今は、“守りたいから離れる”んじゃなくて、

“守りたいから、そばにいる”って思えるようになった。……それって、ちゃんとした気持ちだよね?」


僕は彼女の言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。


「うん。……ずっと、君がその言葉を言ってくれるの、待ってた」


彼女は少しだけ照れくさそうに笑って、

それからまっすぐ、僕の目を見て言った。


「じゃあ、改めて――私と、恋人になってください」


どこか不器用なその言葉が、

僕にとっては、どんな美辞麗句よりも尊く感じた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


その瞬間、風がふたりの間を通り抜けていった。

まるで、あの春に残した“さよなら”をそっと運び去るかのように。


帰り道、彼女が笑いながら言った。


「ねえ、ちゃんと名前がつくと、ちょっと照れるね」


「でも、なんか嬉しいよ。やっと“わたしたち”って言えるから」


「……うん。やっと、だね」


その言葉には、

これまでのすれ違いも、迷いも、痛みも、すべてを越えてきた実感があった。


ふたりの関係に名前がついた日。

それは、“恋の終わり”から続いた物語が、

ようやく“未来を描く物語”へと変わっていった日でもあった。

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