それでも君を思い出す
春の雨は、静かに街を洗っていた。
大学の構内、図書館の窓際に座りながら、僕はページをめくる手を止めた。
ガラス越しに見える景色は滲んでいて、遠くに誰かの傘の影が揺れていた。
小さく息をついて、僕は目を閉じる。
雨の匂いが、ふと懐かしい記憶を呼び起こす。
あれはたしか、2年前の今ごろ――
桜の蕾が、まだ開ききらないころ。
彼女の最後の手紙を読んでから、僕はその封筒をずっと捨てられずにいた。
大学に入学しても、新しい友人ができても、心の奥に彼女の残像はまだ残っていた。
だけど、それを誰かに話すことはなかった。
彼女のことは、もう僕だけの中にあるものだと思っていた。
•
「なあ、来週のゼミの資料、今日中にコピーしてもらえる?」
隣の席に座っていた友人が声をかけてくる。
僕は小さく頷き、カバンからUSBを取り出した。
「サンキュー。雨、ひどいな。今日、図書館混んでるかと思ったけど、意外と空いてるんだな」
「ああ……春の雨って、出足を鈍らせるんだろうね」
他愛もない会話。
それだけのはずだった。
だけど、そのときだった。
カウンターの方にふと目をやった瞬間、
見覚えのある後ろ姿が視界の端に映った。
傘を抱えた長い黒髪。
くすんだグレーのカーディガン。
ノートを抱えて歩く姿――
「……嘘、だろ」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
まさか。
でも、間違いなく――あれは、彼女だった。
慌てて立ち上がろうとして、椅子がわずかに音を立てる。
友人が不思議そうな顔をしてこちらを見るが、僕はすぐに目をそらしていた。
彼女の姿を追って、視線をめぐらせる。
でも、もうそこに彼女はいなかった。
ほんの数秒のことだったのに、もうその影は、どこにも見えなかった。
•
図書館を出たあと、僕はなんとなく歩いていた。
傘を持っていなかったから、肩も髪も少しずつ濡れていく。
でも、それすら気にならなかった。
あれは、彼女だったのか?
似た人を見ただけなのか?
もしそうだったとしても、
あの一瞬、僕の心臓は確かに、昔と同じように跳ねた。
恋が終わったはずの場所に、まだこんなにも想いが残っているなんて。
「……ずるいよ」
小さく呟いた。
彼女のことを、やっと思い出として閉じ込めかけていたのに。
名前を呼ぶこともできず、ただ見送ることしかできなかったなんて。
でも、どうしようもなかった。
あの日、ちゃんと手を振ったつもりだったのに。
心のどこかで、また会える気がしていた。
•
帰り道、コンビニで買ったコーヒーの温かさに指を沈めながら、
僕はふと思った。
もし、彼女が本当にこの街にいるのなら――
もし、また言葉を交わせる日がくるのなら――
今度こそ、伝えたい。
「好きだった」と。
「今もたぶん、少しだけ」と。
終わった恋の続きなんて、どこにもないと思っていた。
でも、終わりにしたのは、僕たち自身だったのかもしれない。
雨はまだ降っていた。
だけど、空はどこか、春の匂いがしていた。
雨が止んだのは、夜のことだった。
アパートの屋根を打つ水音が消え、代わりに街のざわめきが遠くに戻ってきた。
僕は部屋の明かりを点けずに、ベッドの上で膝を抱えていた。
今日の午後、図書館で見た“彼女に似た人”の姿が、ずっと頭から離れなかった。
本当に彼女だったのか?
それとも、見間違いだったのか?
確かめようのない問いが、心の奥でずっと回っている。
──卒業から、二年。
あれから彼女に会うことはなかった。
SNSも、共通の友人も、もう繋がっていない。
最後に交わした言葉は、手紙の中の「さよなら」だった。
それでも、たった数秒の幻のような後ろ姿で、
こんなにも胸が締めつけられるなんて思わなかった。
もう終わったはずの恋だった。
何度も、自分にそう言い聞かせてきた。
けれど、今日の“それ”は、何かを目覚めさせるには十分すぎた。
•
翌日の講義中、僕は何度もノートにペンを走らせたが、頭に入ることは一つもなかった。
周囲の学生たちが笑ったり、うなずいたりしている中で、
僕だけが昨日の記憶の中を泳いでいた。
彼女がこの大学にいる可能性なんて、限りなく低い。
同じ地域に通っているのかさえ分からない。
でも、可能性はゼロじゃない。
あの後ろ姿、あの歩き方、そしてあの雰囲気――
僕の記憶が、勝手に彼女を重ねているだけじゃないと、どこかで思っていた。
講義が終わっても、席を立てずにいた。
窓の外には、うっすらと日差しが戻っていた。
春が、また少しだけ近づいている。
•
その日の午後、僕はもう一度、図書館へ足を運んだ。
偶然を期待するなんて馬鹿げてる。
それはわかっていた。
でも、行かずにはいられなかった。
図書館の空気はひんやりとしていて、静かだった。
窓際の席も、カウンターの横も、昨日と同じように人影が揺れている。
彼女はいなかった。
わかっていた。
それでも、肩がほんの少し落ちた自分がいた。
それでも、僕は図書館の隅で小さなノートを開いた。
もう何ヶ月も手をつけていなかったページ。
そこには、彼女と別れてから、自分が書き留めた言葉の断片が残っていた。
──「君がいない日々に、名前をつけるなら、静かな春だ。」
彼女の詩のような言葉が好きだった。
どこか儚くて、でも芯があって、僕には書けないものだった。
でも、今なら少しだけ、あの人が感じていたものがわかる気がした。
恋の余韻、手放せなかった言葉、そして誰にも届かない気持ち。
僕もまた、詩のようなものを心に抱えて、まだ歩いている。
•
数日後の金曜日、僕はまた図書館にいた。
もはや偶然ではなく、どこかで「彼女が現れるのを待つ自分」がいることに気づいていた。
それが、未練か、希望か、それとも後悔か。
まだうまく整理はできていない。
午後三時を少し回ったころ、カウンターで本を受け取って振り返ったとき、
僕の目は、一人の人影に吸い寄せられた。
それは、あの日と同じカーディガンを羽織った、細身の背中だった。
長い髪を結わえていないまま肩に落とし、静かに本を選んでいる。
まちがいない――彼女だ。
今度は逃さない。
心臓が激しく脈打つのを感じながら、僕はゆっくりと、彼女に向かって歩き出した。
名前を呼ぼうとした唇が震える。
「……」
声にならない。
あれほど、もう一度会いたいと願っていたのに、今この瞬間、何も言えなくなっていた。
でも、彼女が一冊の本を手に取り、ふとこちらを振り向いた瞬間。
目が合った。
一秒。
二秒。
そして彼女の瞳が、わずかに見開かれた。
彼女は、僕を見ていた。
まるで、夢を見ているような顔で。
その唇が、そっと動いた。
「……久しぶり」
胸の奥に、時間の底から掬い上げたような声が届いた。
やっぱり――君だった。
•
静かに時が、また動き出す。
それは恋の終わりから、もう一度始まる「何か」の気配だった。
そして、僕はようやく微笑むことができた。
ただ、彼女の目をまっすぐに見つめながら。
「久しぶり」
その一言が、時間の幕を裂いたように響いた。
彼女の声は昔と変わらず静かで、どこか風の匂いがした。
僕はうまく言葉が出せなくて、ほんの少しだけ頷いた。
「……うん、久しぶり」
ぎこちない沈黙が流れる。
図書館の中で交わすには、あまりに私的で、あまりに柔らかすぎる空気。
彼女は抱えていた本を胸元に戻し、少しだけ首をかしげて微笑んだ。
「驚いたよ。まさか、こんなところで会うなんて」
「……僕も。ほんとに、偶然で」
本当は、何度も来ていたことを言うべきなのか迷ったけれど、それは飲み込んだ。
今この瞬間を壊すようなことは、言いたくなかった。
「ここ、使ってるの? 普段から」
「うん。ゼミでちょっと調べものが多くて。……君は?」
「僕も。たまたま」
また嘘をついた。
けれど、彼女は深く追及することもなく、ただ「そうなんだ」と頷いた。
•
それから、僕たちはごく自然に、図書館のロビーを出て歩きはじめた。
大学の中庭には、春の午後の日差しが滲んでいた。
新入生の準備だろうか、掲示板の周りには学生たちの姿がちらほらとある。
僕たちは、そんな喧騒から少し離れたベンチに腰を下ろした。
「……元気だった?」
彼女がぽつりと聞く。
その問いに、僕は少しだけ息をついた。
「うん。なんとか。……君は?」
「私も、なんとか」
そう言って、彼女は少しだけ視線を落とした。
膝の上の本の角をなぞるように指を動かしている。
あのとき、卒業式の日の手紙。
君は「さよなら」と書いて、僕に恋の終わりを告げた。
それでも、こうしてまた会ってしまったことに、言いようのない戸惑いと、ぬくもりがある。
彼女がふと、こちらを見た。
「……ねえ、手紙、読んだ?」
「……うん。ちゃんと、読んだよ」
彼女は小さく息を吐いて、春の空を見上げた。
「書いたあと、少しだけ後悔したの。言わなきゃよかったって。でも、やっぱり、あれが精一杯だったんだよね。あのときの私には」
「……わかるよ。それでも、あの手紙に救われた。ありがとう」
彼女の目が、少しだけ潤んだように見えた。
けれど、涙はこぼれなかった。
その代わり、微笑みがほんの一瞬、浮かんだ。
•
沈黙が訪れる。
けれど、それは苦痛ではなかった。
むしろ、言葉よりも大事なものが、今ここにある気がした。
昔、僕たちはたくさん話した。
音楽の話、映画の話、詩の話――そして、いつもどこかで触れないようにしていた「恋」の話。
「……ねえ、今でも、詩とか書いてる?」
「うん。少しだけ。日記みたいにね」
「そうなんだ。君の言葉、好きだったよ。今も」
彼女の目が、驚いたようにこちらを見る。
少し照れくさそうに、頬に髪をかけた。
「……ありがとう。それ、今言われると、ちょっとずるいな」
「ごめん。でも、本当だから」
•
それきり、しばらく何も言わずに、春の風が二人の間を吹き抜けていった。
やり直す、という言葉にはまだ届かない。
でも、もう一度会えたという事実が、心の奥で何かをほどいていく。
この再会が、ただの偶然で終わらないことを。
どこかで願っている自分がいた。
そして彼女も、ほんの少しだけ、同じ願いを抱いているような気がした。
•
「……そろそろ、行こうか」
彼女が立ち上がる。
僕もそれに続いて立つと、彼女はふと振り返った。
「また、会えるかな?」
「うん。また、ここで」
「……うん」
そう言って、彼女は静かに歩き出した。
背中越しのその姿は、もう“過去”ではなかった。
それは、たしかに“これから”へと続く何かだった。
僕は、春の光の中で目を細めながら、そっと心の中でつぶやいた。
「また、君に恋をするかもしれない」
それは、恋の終わりを越えていく、始まりの一歩だった。