君に会う前に、ひとつだけ
成田空港に降り立った美桜は、
深呼吸をして、スーツケースの取っ手を握り直した。
空港の喧騒、湿った空気、
聞き慣れた日本語のアナウンス――
どれも懐かしいのに、どこか遠い場所に来たような気がした。
「……ただいま」
誰にともなくそう呟いてから、スマホを取り出す。
「今、日本に着いたよ」
既読になったメッセージの向こうで、彼がどんな顔をしているのか、想像するだけで胸があたたかくなる。
でも、どこか少しだけ落ち着かないのはなぜだろう。
•
同じころ。
彼は街のカフェで、封筒を見つめていた。
古びた、けれどきれいに保存された白い封筒。
それは、美桜がフランスに発つ前、彼が渡せなかった手紙だった。
「もしもまだ、“ふたり”でいたいと願うなら、この手紙を読んでからでいい。そのとき、もう一度話をしよう」
そうメモだけ添えて、彼は渡すタイミングを失っていた。
(今さら、渡す意味あるのか?今の彼女に、あの頃の俺の不安や弱さを見せて……何になる?)
けれど同時に、こんな思いも浮かぶ。
(だからこそ、今の俺を信じてくれている彼女に、あのとき伝えられなかった“全部”を見せたい)
•
その夜。
美桜は帰国の報告を終え、ホテルの部屋にひとりでいた。
スマホに届いた彼からのメッセージには、こう書かれていた。
「会うのは、明日でもいい?」
「どうしても、今夜だけは“君に会う前に伝えたいこと”がある」
「今、君の泊まってる場所の近くにいる。少しだけ、外に出てきてもらえるかな」
美桜は上着を羽織り、ホテルの裏手にある遊歩道へと向かった。
•
夜の風は少し冷たかった。
でもその中に、懐かしい足音が近づいてくる。
「……久しぶり」
「うん、ただいま」
ふたりは、それ以上何も言わず、数歩だけ並んで歩いた。
「実は、これを渡したくて」
彼がそっと取り出したのは、白い封筒。
「前に書いた手紙。でも、君が向こうで頑張ってる姿を見てたら……今の俺には、あの頃の“頼りない言葉”を渡す資格なんてない気がして、ずっと渡せなかった」
「……でも、今は?」
「今は、渡せる。“もう一度会いたい”と思ってくれる君に、ちゃんと“全部の俺”を見てほしいと思えるから」
美桜は封筒を受け取り、黙ってそれを胸に抱えた。
「……読むね、あとで。ちゃんと、落ち着いてから」
「ありがとう」
ふたりはまた並んで歩く。
さっきより、ほんの少しだけ近く。
「明日、会おう。あらためて」
「うん。明日は、“再会”じゃなくて、“出会い直す日”にしよう」
「いい言葉だね、それ」
夜風に髪がなびく。
ふたりの距離は、もう迷わない。
•
別れ際。
彼女は立ち止まって、封筒を胸に当てた。
「……ねえ、君があのとき書いた言葉。今も、私に向けられたものなら、きっと私は――」
言いかけた言葉を、美桜はそっと微笑みに変えた。
「明日、会ってから伝えるね」
彼は頷き、小さく手を振った。
ふたりはそれぞれ、夜のなかへと歩き出す。
明日、もう一度ちゃんと会うために。
ホテルの部屋に戻ると、美桜は明かりを落とし、
窓辺のソファに膝を抱えて座った。
手元には、彼から預かった一通の手紙。
白い封筒に、折り目はついていなかった。
けれどその紙面に触れた瞬間、彼がどれほどこの言葉に悩み、
抱え、迷いながらも綴ったのかが伝わってくるようだった。
(読もう。今の私なら、ちゃんと読める)
小さく深呼吸してから、封を開ける。
•
「この手紙を読んでいるということは、たぶん、君はもう一度俺に会ってくれる準備ができたんだと思う。
ありがとう。まずは、その言葉から始めさせてください」
「俺は、君に恋をしてからずっと、“どうすれば隣にいられるか”ばかり考えてた。どうすれば君にふさわしい人間になれるのか。どうすれば、君の足を引っ張らずにすむのか。そんなことばかりだった」
「でも、それはつまり――“今の俺は、君の隣に立てない”と自分で思ってたってことなんだよね」
「だから、あの日君が“料理を続けたい”って言ってくれたとき、すごく嬉しかったのに、その分だけ怖かった。“自分が足かせになるんじゃないか”って」
「結局、君の夢を信じるふりをして、自分の弱さから逃げたのは俺の方だった。情けないけど、それが本当の気持ちです」
「だけど今、ようやく思えるんだ。俺は君の隣にいるために、君の未来を信じるだけじゃなくて――自分の未来も、同じくらい信じなきゃいけないって」
「だから、君が帰ってくるまでに伝えたかった。君の隣に“ふさわしく”なんてなれなくても、“同じ方向を向いて”歩くことはできるって、今の俺は、信じられるようになったよ」
「この手紙は、恋の始まりじゃない。終わりでもない。でも、もしかしたら――“本当の意味で、愛し方を知った”最初の手紙になるかもしれない」
「君に会う前に、どうしても伝えたかった。ありがとう、そして、これからも――」
•
読み終えた美桜は、手紙をそっと胸に当てた。
涙は出なかった。
むしろ、心が静かに温まっていく感覚だけが、そこにあった。
(ずっと強い人だと思ってた。でも、本当は……ずっと、私と同じくらい怖がってたんだ)
彼の言葉に、自分自身の姿が重なった。
夢を語るたび、彼の笑顔を見て、
“支えてもらっている”とばかり思っていた。
でも、あのときの彼は――
不安と希望のはざまで、誰よりも“自分”と戦っていたのだ。
•
(……会いにいこう。ちゃんと、“今の私”で)
明日、彼の隣に立ったとき、
この手紙に書かれたすべてを胸に抱いたまま、
もう一度、恋を始めよう。
恋の終わりなんて、どこにもなかった。
あの日から今まで、ずっと続いてきたものに、
ただ名前がついていなかっただけ。
彼に名前をつけてもらったこの手紙は、
きっとその“続きを始める合図”になる。
朝の街はまだ少し肌寒く、歩道に射し込む光も柔らかだった。
美桜は薄手のコートを羽織り、指定されたカフェの前で足を止めた。
ガラス越しに見える彼の姿は、昨日よりもどこか落ち着いて見えた。
扉を開けると、小さなベルが鳴る。
彼がゆっくり顔を上げて、微笑んだ。
「……おはよう」
「おはよう」
それだけのやり取りが、まるで長い手紙の終わりのように、優しく胸に染みた。
彼が立ち上がり、椅子を引いてくれる。
その仕草さえも、どこかぎこちなくて懐かしい。
「読んでくれた?」
「うん。昨日の夜、ゆっくりと」
「……怖かった?」
「少しね。でもそれ以上に、うれしかった」
彼は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「弱い自分を見せるって、すごく怖いね。でも、君になら見せてもいいって、今なら言えるよ」
「私も。料理で何かを伝えることで精一杯だったから、ずっと“言葉”で向き合うのを避けてきた気がする」
「でも、その料理がなかったら、俺は今の君を信じきれなかったかもしれない。……君のスープ、本当に美味しかった。遠くにいたのに、ちゃんと味が伝わってきたよ」
「……うそ。食べてないでしょ」
「でも、君の言葉で味がした。“誰かを想って作る”って、あんなにも伝わるんだなって思った」
美桜は、そっと笑った。
彼もまた、少し照れたように視線を落とす。
「ねえ」
彼が顔を上げると、美桜は真っ直ぐに彼を見て言った。
「私、あなたとまた“始めたい”と思ってる。でもそれは、前の続きじゃなくて――“今日の私たち”として」
「……うん。俺もそう思ってる。一度終わった気がしてたけど、あれは“終わった恋”じゃなくて、“形を変えた想い”だったんだと思う」
「今度こそ、お互いちゃんと歩ける?」
「きっと大丈夫。今なら、君の夢を支えようなんて思わない。“君と一緒に、夢を生きていきたい”って思えるから」
美桜は、静かにうなずいた。
「じゃあ、まずは一緒に朝ごはん食べよう。せっかく“新しい日”なんだから」
「いいね。君がいる朝って、きっと味が違う」
そうしてふたりは、あたたかいコーヒーと焼きたてのパンを前に、
まるで初めて出会ったように笑い合った。
言葉が、照れくさくなくなった。
沈黙も、怖くなくなった。
今なら言える。
これは“恋の続き”じゃない。
“ふたりで始める物語”の、最初のページ。
食後のコーヒーが運ばれてきた頃、ふたりの会話は少しずつ温度を帯び始めていた。
「研修、どうだった?」
彼の問いに、美桜はしばらく考えてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「楽しかった。けど……正直、苦しい日もあった。自分の力が通じない場所で、“自分らしさ”を見つけ直すのって、簡単じゃなかった」
「でも、ちゃんと見つけたんだよね。君の料理、届いてた」
「うん。最後の日に、ようやくわかった気がする。“料理をやめたくない”ってあのとき言ったのは、夢を守りたかったからじゃなくて――きっと、“君と繋がっていたかった”んだと思う」
彼は少し驚いたように目を見開き、それからふわりと笑った。
「そっか……。それ、なんかうれしいな」
「あなたは? あのあと、どうしてた?」
彼は小さく息を吐いてから、真っ直ぐ彼女を見た。
「最初は正直、少し途方に暮れてた。君がいない日常が、こんなに長くなるなんて思ってなかったから」
「……そっか」
「でも、途中で気づいた。“君がいない”からこそ、自分が何をしたいのか、何を持って君に会いたいのか――やっと考えるようになったんだって」
彼は少し照れくさそうに続けた。
「部署、変わったんだ。前よりずっと小さなところだけど、自分の提案が直接届く仕事。いつか、“俺が作った何か”で、君の店を応援できる日が来たらいいなって思って」
「……ありがとう」
美桜はそう言って、小さく首をかしげる。
「でもね。もしその日が来ても、“支えてくれる人”としてじゃなくて、“同じ店の厨房で、隣で戦ってる人”でいてくれたら、もっと嬉しいかも」
彼の目が、驚きから笑みに変わる。
「いいな、それ。君と厨房に立つ日。たぶん俺、何もできないけど……味見くらいは任せてよ」
「大事な役割だよ。料理ってね、誰かが“おいしい”って言ってくれなきゃ、完成しないんだから」
「じゃあ、君の料理の“最後のひと押し”になる人になろうかな」
「……ずるい。そういうこと、さらっと言うんだ」
ふたりはふと視線を合わせ、同時に笑った。
笑いながら、どこかでふたりとも確信していた。
きっと、もう大丈夫だと。
遠回りしたけれど、
言葉にならなかった気持ちを、
ちゃんと“今の自分たち”で交わすことができている。
•
カフェを出る頃、外の光はだいぶ強くなっていた。
駅へと向かう道すがら、彼がふいに口を開く。
「今日さ、もし時間あったら……一緒にあの場所、行かない?」
「……あの場所?」
「桜並木。去年、一緒に歩いたあそこ。たぶん、今年はもう葉桜になってるけど」
「行く。行きたい」
そう答えた美桜の声は、春の終わりの風よりもやわらかくて、あたたかかった。
川沿いの桜並木。
先週までは満開だったというその道は、すでに葉桜へと変わっていた。
舞い落ちた花びらが歩道の端に寄せられ、風に少しだけ舞い上がる。
「覚えてる? 去年ここで――」
「“来年も一緒に見られたらいいね”って言った。覚えてるよ」
彼は照れたように笑い、美桜もそれに応えた。
「結局、今年は葉桜になっちゃったね」
「ううん、いいの。こうして“また一緒にここに来られた”ってことが、何よりうれしい」
ふたりは並んで歩く。
以前よりもほんの少しだけ、肩と肩が近かった。
•
「ねえ」
美桜が足を止め、ゆっくりと口を開いた。
「手紙のこと、返事……言ってもいい?」
彼は少しだけ驚いたようにうなずく。
「うん。もちろん」
美桜はポケットから折りたたんだ便箋を取り出した。
小さく、丁寧に折られたそれは、さっきのカフェで書いたものだった。
「……これ、私からの返事。声に出すの、ちょっと照れくさいから。代わりに」
彼は受け取り、目を通す前に、静かに胸に当てた。
「ありがとう。読む前からもう、“ちゃんと届いた”ってわかる気がするよ」
「変なこと書いてたら、許してね」
「君の言葉なら、何だって受け取る」
ふたりはまた歩き出す。
陽の光が、葉桜の隙間からこぼれていた。
•
「ねえ、来年も、ここに来ようか」
「うん。でも、約束にしなくていいよ」
「え?」
「こうしてまた、自然に歩ける関係になれたなら……
“約束”じゃなくても、きっとまた来られる気がするから」
彼は一瞬言葉を探して、それから真面目な声で言った。
「そうだね。“約束しなくても、また会える”って、信じられるってことだもんね」
「うん。それって、ちょっとだけ未来を信じてるってことだと思うから」
ふたりの影が、静かに並んで延びていた。
恋の終わりを越えて、
言葉を尽くしても届かなかった時間を越えて、
ふたりはようやく“今”にたどり着いた。
桜は終わっていたけれど、
ふたりの春は、これからだった。
並んで歩く道の先に、小さな橋が見えてきた。
去年、美桜が「また来年も」とつぶやいた場所。
何気ない風景のはずなのに、胸の奥のどこかが、静かにあたたかくなっていく。
「ここだね」
美桜が立ち止まり、川をのぞく。
水面には、散り残った桜の花びらがゆっくりと流れていた。
「思ってたより、残ってるね」
彼が言うと、美桜はふっと笑う。
「桜って、散ってからも少しだけ、粘るんだよ。意地でも“最後の一枚”まで残ろうとする」
「……君みたいだ」
美桜は小さく肩をすくめた。
「どういう意味?」
「最後の最後まで、あきらめないってこと。俺との関係も、夢も、自分の気持ちも――君は、ちゃんと残そうとした」
彼の言葉に、美桜はしばらく黙っていた。
それから、目を伏せたまま、ぽつりと言った。
「だって、終わりたくなかったんだもん。たとえ恋が終わっても、あなたのことは終わらせたくなかった」
「うん。俺もだよ」
静かな川の流れと、風の音だけがふたりの間に流れた。
「……ねえ」
「うん?」
「この恋、もう一度始めよう。今度は、“終わらせないために”じゃなくて、“共に生きるために”」
彼はうなずき、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。
握るでもなく、引き寄せるでもなく、
ただそこに“いてくれる”ということを伝えるように。
「うん、始めよう。ちゃんと、いまの僕たちとして」
桜の季節は終わっても、
風はまだ春の匂いを残していた。
遠く離れてもなお続いた想いが、
ようやく“同じ場所”にたどり着いた今、
ふたりは未来に向けて、静かに歩き出す。