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19/21

君に会う前に、ひとつだけ

成田空港に降り立った美桜は、

深呼吸をして、スーツケースの取っ手を握り直した。


空港の喧騒、湿った空気、

聞き慣れた日本語のアナウンス――

どれも懐かしいのに、どこか遠い場所に来たような気がした。


「……ただいま」


誰にともなくそう呟いてから、スマホを取り出す。


「今、日本に着いたよ」


既読になったメッセージの向こうで、彼がどんな顔をしているのか、想像するだけで胸があたたかくなる。


でも、どこか少しだけ落ち着かないのはなぜだろう。


同じころ。

彼は街のカフェで、封筒を見つめていた。


古びた、けれどきれいに保存された白い封筒。

それは、美桜がフランスに発つ前、彼が渡せなかった手紙だった。


「もしもまだ、“ふたり”でいたいと願うなら、この手紙を読んでからでいい。そのとき、もう一度話をしよう」


そうメモだけ添えて、彼は渡すタイミングを失っていた。


(今さら、渡す意味あるのか?今の彼女に、あの頃の俺の不安や弱さを見せて……何になる?)


けれど同時に、こんな思いも浮かぶ。


(だからこそ、今の俺を信じてくれている彼女に、あのとき伝えられなかった“全部”を見せたい)


その夜。

美桜は帰国の報告を終え、ホテルの部屋にひとりでいた。


スマホに届いた彼からのメッセージには、こう書かれていた。


「会うのは、明日でもいい?」

「どうしても、今夜だけは“君に会う前に伝えたいこと”がある」

「今、君の泊まってる場所の近くにいる。少しだけ、外に出てきてもらえるかな」


美桜は上着を羽織り、ホテルの裏手にある遊歩道へと向かった。


夜の風は少し冷たかった。

でもその中に、懐かしい足音が近づいてくる。


「……久しぶり」


「うん、ただいま」


ふたりは、それ以上何も言わず、数歩だけ並んで歩いた。


「実は、これを渡したくて」


彼がそっと取り出したのは、白い封筒。


「前に書いた手紙。でも、君が向こうで頑張ってる姿を見てたら……今の俺には、あの頃の“頼りない言葉”を渡す資格なんてない気がして、ずっと渡せなかった」


「……でも、今は?」


「今は、渡せる。“もう一度会いたい”と思ってくれる君に、ちゃんと“全部の俺”を見てほしいと思えるから」


美桜は封筒を受け取り、黙ってそれを胸に抱えた。


「……読むね、あとで。ちゃんと、落ち着いてから」


「ありがとう」


ふたりはまた並んで歩く。

さっきより、ほんの少しだけ近く。


「明日、会おう。あらためて」


「うん。明日は、“再会”じゃなくて、“出会い直す日”にしよう」


「いい言葉だね、それ」


夜風に髪がなびく。

ふたりの距離は、もう迷わない。


別れ際。

彼女は立ち止まって、封筒を胸に当てた。


「……ねえ、君があのとき書いた言葉。今も、私に向けられたものなら、きっと私は――」


言いかけた言葉を、美桜はそっと微笑みに変えた。


「明日、会ってから伝えるね」


彼は頷き、小さく手を振った。


ふたりはそれぞれ、夜のなかへと歩き出す。


明日、もう一度ちゃんと会うために。


ホテルの部屋に戻ると、美桜は明かりを落とし、

窓辺のソファに膝を抱えて座った。


手元には、彼から預かった一通の手紙。


白い封筒に、折り目はついていなかった。

けれどその紙面に触れた瞬間、彼がどれほどこの言葉に悩み、

抱え、迷いながらも綴ったのかが伝わってくるようだった。


(読もう。今の私なら、ちゃんと読める)


小さく深呼吸してから、封を開ける。


「この手紙を読んでいるということは、たぶん、君はもう一度俺に会ってくれる準備ができたんだと思う。

ありがとう。まずは、その言葉から始めさせてください」


「俺は、君に恋をしてからずっと、“どうすれば隣にいられるか”ばかり考えてた。どうすれば君にふさわしい人間になれるのか。どうすれば、君の足を引っ張らずにすむのか。そんなことばかりだった」


「でも、それはつまり――“今の俺は、君の隣に立てない”と自分で思ってたってことなんだよね」


「だから、あの日君が“料理を続けたい”って言ってくれたとき、すごく嬉しかったのに、その分だけ怖かった。“自分が足かせになるんじゃないか”って」


「結局、君の夢を信じるふりをして、自分の弱さから逃げたのは俺の方だった。情けないけど、それが本当の気持ちです」


「だけど今、ようやく思えるんだ。俺は君の隣にいるために、君の未来を信じるだけじゃなくて――自分の未来も、同じくらい信じなきゃいけないって」


「だから、君が帰ってくるまでに伝えたかった。君の隣に“ふさわしく”なんてなれなくても、“同じ方向を向いて”歩くことはできるって、今の俺は、信じられるようになったよ」


「この手紙は、恋の始まりじゃない。終わりでもない。でも、もしかしたら――“本当の意味で、愛し方を知った”最初の手紙になるかもしれない」


「君に会う前に、どうしても伝えたかった。ありがとう、そして、これからも――」



読み終えた美桜は、手紙をそっと胸に当てた。


涙は出なかった。

むしろ、心が静かに温まっていく感覚だけが、そこにあった。


(ずっと強い人だと思ってた。でも、本当は……ずっと、私と同じくらい怖がってたんだ)


彼の言葉に、自分自身の姿が重なった。


夢を語るたび、彼の笑顔を見て、

“支えてもらっている”とばかり思っていた。


でも、あのときの彼は――

不安と希望のはざまで、誰よりも“自分”と戦っていたのだ。


(……会いにいこう。ちゃんと、“今の私”で)


明日、彼の隣に立ったとき、

この手紙に書かれたすべてを胸に抱いたまま、

もう一度、恋を始めよう。


恋の終わりなんて、どこにもなかった。

あの日から今まで、ずっと続いてきたものに、

ただ名前がついていなかっただけ。


彼に名前をつけてもらったこの手紙は、

きっとその“続きを始める合図”になる。


朝の街はまだ少し肌寒く、歩道に射し込む光も柔らかだった。


美桜は薄手のコートを羽織り、指定されたカフェの前で足を止めた。

ガラス越しに見える彼の姿は、昨日よりもどこか落ち着いて見えた。


扉を開けると、小さなベルが鳴る。

彼がゆっくり顔を上げて、微笑んだ。


「……おはよう」


「おはよう」


それだけのやり取りが、まるで長い手紙の終わりのように、優しく胸に染みた。


彼が立ち上がり、椅子を引いてくれる。

その仕草さえも、どこかぎこちなくて懐かしい。


「読んでくれた?」


「うん。昨日の夜、ゆっくりと」


「……怖かった?」


「少しね。でもそれ以上に、うれしかった」


彼は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


「弱い自分を見せるって、すごく怖いね。でも、君になら見せてもいいって、今なら言えるよ」


「私も。料理で何かを伝えることで精一杯だったから、ずっと“言葉”で向き合うのを避けてきた気がする」


「でも、その料理がなかったら、俺は今の君を信じきれなかったかもしれない。……君のスープ、本当に美味しかった。遠くにいたのに、ちゃんと味が伝わってきたよ」


「……うそ。食べてないでしょ」


「でも、君の言葉で味がした。“誰かを想って作る”って、あんなにも伝わるんだなって思った」


美桜は、そっと笑った。

彼もまた、少し照れたように視線を落とす。


「ねえ」


彼が顔を上げると、美桜は真っ直ぐに彼を見て言った。


「私、あなたとまた“始めたい”と思ってる。でもそれは、前の続きじゃなくて――“今日の私たち”として」


「……うん。俺もそう思ってる。一度終わった気がしてたけど、あれは“終わった恋”じゃなくて、“形を変えた想い”だったんだと思う」


「今度こそ、お互いちゃんと歩ける?」


「きっと大丈夫。今なら、君の夢を支えようなんて思わない。“君と一緒に、夢を生きていきたい”って思えるから」


美桜は、静かにうなずいた。


「じゃあ、まずは一緒に朝ごはん食べよう。せっかく“新しい日”なんだから」


「いいね。君がいる朝って、きっと味が違う」


そうしてふたりは、あたたかいコーヒーと焼きたてのパンを前に、

まるで初めて出会ったように笑い合った。


言葉が、照れくさくなくなった。

沈黙も、怖くなくなった。


今なら言える。


これは“恋の続き”じゃない。

“ふたりで始める物語”の、最初のページ。


食後のコーヒーが運ばれてきた頃、ふたりの会話は少しずつ温度を帯び始めていた。


「研修、どうだった?」


彼の問いに、美桜はしばらく考えてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「楽しかった。けど……正直、苦しい日もあった。自分の力が通じない場所で、“自分らしさ”を見つけ直すのって、簡単じゃなかった」


「でも、ちゃんと見つけたんだよね。君の料理、届いてた」


「うん。最後の日に、ようやくわかった気がする。“料理をやめたくない”ってあのとき言ったのは、夢を守りたかったからじゃなくて――きっと、“君と繋がっていたかった”んだと思う」


彼は少し驚いたように目を見開き、それからふわりと笑った。


「そっか……。それ、なんかうれしいな」


「あなたは? あのあと、どうしてた?」


彼は小さく息を吐いてから、真っ直ぐ彼女を見た。


「最初は正直、少し途方に暮れてた。君がいない日常が、こんなに長くなるなんて思ってなかったから」


「……そっか」


「でも、途中で気づいた。“君がいない”からこそ、自分が何をしたいのか、何を持って君に会いたいのか――やっと考えるようになったんだって」


彼は少し照れくさそうに続けた。


「部署、変わったんだ。前よりずっと小さなところだけど、自分の提案が直接届く仕事。いつか、“俺が作った何か”で、君の店を応援できる日が来たらいいなって思って」


「……ありがとう」


美桜はそう言って、小さく首をかしげる。


「でもね。もしその日が来ても、“支えてくれる人”としてじゃなくて、“同じ店の厨房で、隣で戦ってる人”でいてくれたら、もっと嬉しいかも」


彼の目が、驚きから笑みに変わる。


「いいな、それ。君と厨房に立つ日。たぶん俺、何もできないけど……味見くらいは任せてよ」


「大事な役割だよ。料理ってね、誰かが“おいしい”って言ってくれなきゃ、完成しないんだから」


「じゃあ、君の料理の“最後のひと押し”になる人になろうかな」


「……ずるい。そういうこと、さらっと言うんだ」


ふたりはふと視線を合わせ、同時に笑った。


笑いながら、どこかでふたりとも確信していた。


きっと、もう大丈夫だと。


遠回りしたけれど、

言葉にならなかった気持ちを、

ちゃんと“今の自分たち”で交わすことができている。


カフェを出る頃、外の光はだいぶ強くなっていた。


駅へと向かう道すがら、彼がふいに口を開く。


「今日さ、もし時間あったら……一緒にあの場所、行かない?」


「……あの場所?」


「桜並木。去年、一緒に歩いたあそこ。たぶん、今年はもう葉桜になってるけど」


「行く。行きたい」


そう答えた美桜の声は、春の終わりの風よりもやわらかくて、あたたかかった。


川沿いの桜並木。

先週までは満開だったというその道は、すでに葉桜へと変わっていた。


舞い落ちた花びらが歩道の端に寄せられ、風に少しだけ舞い上がる。


「覚えてる? 去年ここで――」


「“来年も一緒に見られたらいいね”って言った。覚えてるよ」


彼は照れたように笑い、美桜もそれに応えた。


「結局、今年は葉桜になっちゃったね」


「ううん、いいの。こうして“また一緒にここに来られた”ってことが、何よりうれしい」


ふたりは並んで歩く。

以前よりもほんの少しだけ、肩と肩が近かった。


「ねえ」

美桜が足を止め、ゆっくりと口を開いた。


「手紙のこと、返事……言ってもいい?」


彼は少しだけ驚いたようにうなずく。


「うん。もちろん」


美桜はポケットから折りたたんだ便箋を取り出した。

小さく、丁寧に折られたそれは、さっきのカフェで書いたものだった。


「……これ、私からの返事。声に出すの、ちょっと照れくさいから。代わりに」


彼は受け取り、目を通す前に、静かに胸に当てた。


「ありがとう。読む前からもう、“ちゃんと届いた”ってわかる気がするよ」


「変なこと書いてたら、許してね」


「君の言葉なら、何だって受け取る」


ふたりはまた歩き出す。

陽の光が、葉桜の隙間からこぼれていた。


「ねえ、来年も、ここに来ようか」


「うん。でも、約束にしなくていいよ」


「え?」


「こうしてまた、自然に歩ける関係になれたなら……

“約束”じゃなくても、きっとまた来られる気がするから」


彼は一瞬言葉を探して、それから真面目な声で言った。


「そうだね。“約束しなくても、また会える”って、信じられるってことだもんね」


「うん。それって、ちょっとだけ未来を信じてるってことだと思うから」


ふたりの影が、静かに並んで延びていた。


恋の終わりを越えて、

言葉を尽くしても届かなかった時間を越えて、

ふたりはようやく“今”にたどり着いた。


桜は終わっていたけれど、

ふたりの春は、これからだった。


並んで歩く道の先に、小さな橋が見えてきた。


去年、美桜が「また来年も」とつぶやいた場所。


何気ない風景のはずなのに、胸の奥のどこかが、静かにあたたかくなっていく。


「ここだね」

美桜が立ち止まり、川をのぞく。


水面には、散り残った桜の花びらがゆっくりと流れていた。


「思ってたより、残ってるね」

彼が言うと、美桜はふっと笑う。


「桜って、散ってからも少しだけ、粘るんだよ。意地でも“最後の一枚”まで残ろうとする」


「……君みたいだ」


美桜は小さく肩をすくめた。


「どういう意味?」


「最後の最後まで、あきらめないってこと。俺との関係も、夢も、自分の気持ちも――君は、ちゃんと残そうとした」


彼の言葉に、美桜はしばらく黙っていた。


それから、目を伏せたまま、ぽつりと言った。


「だって、終わりたくなかったんだもん。たとえ恋が終わっても、あなたのことは終わらせたくなかった」


「うん。俺もだよ」


静かな川の流れと、風の音だけがふたりの間に流れた。


「……ねえ」


「うん?」


「この恋、もう一度始めよう。今度は、“終わらせないために”じゃなくて、“共に生きるために”」


彼はうなずき、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。


握るでもなく、引き寄せるでもなく、

ただそこに“いてくれる”ということを伝えるように。


「うん、始めよう。ちゃんと、いまの僕たちとして」


桜の季節は終わっても、

風はまだ春の匂いを残していた。


遠く離れてもなお続いた想いが、

ようやく“同じ場所”にたどり着いた今、

ふたりは未来に向けて、静かに歩き出す。


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