あなたに届くように、味を重ねる
フランス西部・ロワール地方。
古城と森に囲まれた小さな村。
そこにある家族経営のレストランに、美桜は短期研修として配属された。
首都パリとは違う、穏やかで静かな時間が流れるこの土地で、
彼女は“また別の種類の料理”に出会っていた。
「ここの料理はね、“記憶”を大事にしてるのよ」
そう言ったのは、店のシェフであるマダム・アデル。
小柄で年配の女性だが、厨房に立つと誰よりも背筋が伸びていた。
「食べた人が、昔の味を思い出すような料理。懐かしさとか、あの頃の気持ちとか……そういうものをお皿に乗せるの」
美桜は、それを聞いた瞬間に、ふと彼の顔を思い出した。
(そういえば……私もあの人と作ったお菓子のこと、よく思い出すな)
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ある日の午後。
厨房を離れた美桜は、近所の広場で見かけた少女に声をかけられた。
「お姉ちゃん、お料理つくるひと?」
「うん。研修でこの町に来てるんだ。君は?」
「わたし、ママンの手伝い。家、パン屋さんなの。
でもね、うまくできないの。バゲット、焦がしちゃった」
しょんぼりする少女の名は、ノエミ。
小さな手で、ぎゅっと生地を握る姿が、昔の自分に重なった。
「焦げちゃっても、また作ればいいよ。わたしなんて、初めて作ったクッキー、石みたいだったもん」
「……ほんと?」
「うん。でも、それでも“作ってみたい”って思う気持ちは、ぜったい大事にしていい」
ノエミはぱっと顔を明るくし、美桜の手をぎゅっと握った。
そのぬくもりが、不思議と胸の奥を温かくした。
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その日の夜。
レストランで美桜は、アデルのアシストとして“今日の一皿”を任された。
彼女が選んだのは――
母とよく作った素朴な野菜のポタージュを、現地の食材と合わせて再構築した料理。
「これはね、“誰かに届けるため”のスープなんです」
プレートを差し出すとき、美桜は心の中でつぶやいていた。
(あなたに、届くように。
あの日の気持ちが、味になっていたらいい)
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その夜、彼に短いメッセージを送った。
「今日、初めて“料理で自分を表現できた”って思えたの。それってたぶん、君に出会わなかったら知らなかった気持ちだった」
返事は、少し間を置いて届いた。
「俺も、今日ひとつ選択をした。今の場所で、昇進の話があったんだけど――断った。君と同じくらい、“自分の心に沿う道”を選びたいって思ったから」
スマホの光が、心のどこか深いところまで照らすようだった。
(私たち、たぶん今、ちゃんと“同じ高さ”で歩いてる)
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研修はあと二週間。
季節はゆっくりと、春へ向かっている。
離れていても、
触れられなくても、
“味”と“想い”はきっと、心の中で繋がっている。
その確信を胸に、美桜はまた包丁を握った。
地方研修が始まって一週間。
美桜は、レストランの厨房である“ひとつの提案”を任されていた。
「日曜の昼に、村のこどもたちと一緒に何か作るっていうの、いいかもね」
マダム・アデルは美桜の話を聞きながら、うなずいた。
「子どもたちが“食べる”だけじゃなく、“作る”楽しさを知るのは素敵なことだわ。誰かのために何かを作るって、それだけで大きな一歩になるものよ」
その言葉に、美桜は胸の奥で頷いた。
(……あのとき、私もそうだった。あの人に“ありがとう”を言いたくて、クッキーを焼いた。たったそれだけのことで、世界が変わった気がした)
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日曜の午前。
広場に面した小さなテラスに、地元の子どもたちが集まっていた。
テーブルには、パンケーキの材料と果物、
それに美桜が自分で描いた“簡単レシピカード”が並べられている。
「さあ、今日は“自分のための味”を作るよ!バナナを入れてもいいし、チョコレートでもOK。でも、最後にのせるトッピングは、“大事な人のことを思い浮かべて”選んでね」
子どもたちは、きょとんとした顔をしながらも、すぐに笑い出した。
「ママンの好きなやつ!」「パパがチョコ好き!」「うちの猫はミルク!」
笑い声と粉の香りが混ざり合い、美桜の胸がじんと温かくなる。
その中に、前にも会った少女――ノエミの姿があった。
ノエミはそっと、美桜に耳打ちする。
「今日のトッピング、私、ナッツにしたの。お姉ちゃんがこのまえ、ナッツのクッキー好きって言ってたから」
「……え?」
思わず、言葉が詰まった。
彼女は一生懸命に、自分の皿の上にナッツを乗せながら言う。
「お姉ちゃんが“つくってみたい”って気持ち、大事って言ってくれたから。今度は、私がお姉ちゃんにありがとうって言いたくて」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に静かに何かが広がっていく。
ああ、これだ――
自分が“料理をする理由”は。
“好きな人の心を、静かにあたためる”こと。
“言葉にできない想いを、味に変えて届ける”こと。
•
日が落ちる頃、美桜は厨房でノエミがくれたクッキーをひとつ口に入れた。
まだ少し焦げていて、かたかった。
でも、不思議と涙がにじんだ。
(あの日の私も、こんな味だった)
スマホを開く。
画面に浮かぶ彼の名前。
今なら、伝えられる気がした。
「今日、小さな子が、私に“ありがとう”をくれた。言葉じゃなくて、クッキーで」
「私はあの頃、君に“ありがとう”を伝えたくてお菓子を焼いた。きっと、ずっと変わってないんだ。私にとって料理って、“誰かを想ってる時間”そのものなんだと思う」
送信ボタンを押した瞬間、
胸の奥の何かがふっと軽くなった気がした。
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そのころ、日本。
彼は自室の机に向かい、ある書類に目を落としていた。
“他部署への異動希望届”。
今のポジションを手放すことは、リスクでもある。
けれど、それ以上に――
彼の中で「本当にやりたいこと」が、ようやく言葉になり始めていた。
(彼女が自分を信じて選んでいるのなら、俺も、“支える側”じゃなく、“並び立つ存在”でありたい)
スマホが震えた。
画面には、美桜からのメッセージ。
それを読んで、彼は笑った。
「俺も今、ようやく“自分の原点”に戻れてる気がするよ。料理じゃないけど、想いを形にするって、同じだよな」
「次に会うとき、俺も“誰かを想って作ったもの”を、君に渡せるようにする」
•
どこにいても、何をしていても。
ふたりの“届けたい”という気持ちは、同じ温度で灯っていた。
恋が終わらない理由は、きっとそこにある。
研修も、残すところあと三日。
厨房ではいつもより静かな緊張感が漂っていた。
最終日には、各研修生が「自分の代表作」をひとつ出すのが恒例だった。
「何を作るつもりなの?」
アデルの問いに、美桜はほんの一瞬だけ迷ってから、答えた。
「ポタージュです。でも、ただのスープじゃなくて……“今の私”を出せるような、優しくて力のあるものを」
「いいわね。シンプルな料理ほど、気持ちが滲むものよ」
美桜は頷き、ノートを開いた。
そこには、材料や分量よりも先にこう記されていた。
「寒い日に、誰かが手を差し出してくれるような味を」
「疲れた人が、静かに涙をこぼせるような温度を」
「食べ終わったあと、心が少しだけ軽くなるような香りを」
それは、彼に恋をしてから、ずっと自分が求めていたものそのものだった。
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その夜、美桜はキッチンでひとり、人参の皮をむいていた。
ノエミが手伝いに来た。
「お姉ちゃん、明日で帰っちゃうの?」
「うん、でも大丈夫。きっとまた来るよ」
「じゃあ、これ。お守り」
小さな手に握られていたのは、焦げ跡の残る手作りのクッキー。
前に一緒に作ったときより、ほんの少しだけ形がきれいになっていた。
「“ぜったい、うまくいくクッキー”なんだよ」
美桜は思わず、涙がこぼれそうになるのをこらえて微笑んだ。
「……ありがとう。これがあれば、きっと大丈夫だね」
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その頃、日本。
彼は静かな会議室にいた。
「……本当に、異動するつもりか?」
上司の声は穏やかだったが、その裏に驚きと惜しむ気持ちが滲んでいた。
「はい。正直、今の仕事に不満はありません。でも、自分の力で“誰かの道を支える”んじゃなくて、“自分自身の道”をもっとまっすぐに追ってみたいと思いました」
机の上に置いた異動届。
震えていない指先が、自分の決意の強さを証明していた。
会議が終わった後、彼はスマホを手に取った。
「動き出したよ。ようやく。君と並んで歩けるように、“君の隣に立てる自分”を、ちゃんと始めるために」
•
最終日の朝。
ロワールの空は薄く晴れていた。
厨房では、スープの香りが静かに広がっていた。
美桜は、自分のスープに最後の味見をしながら、
ふとペンダントに触れた。
もう迷いはない。
自分は、“誰かの隣にいるため”に料理をしているんじゃない。
“誰かと並んで生きる自分”であるために、
この味を届けるのだ。
「……できました」
美桜は、自分の作ったポタージュをそっと差し出した。
温かくて、静かで、優しい味。
でもその中には、どこまでもまっすぐな意志が溶け込んでいた。
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遠く離れた国のどこかでも、
彼は同じように、
新しい場所での第一歩に向かって歩み出していた。
ふたりがそれぞれの場所で育ててきた時間は、
いま、ようやく“未来”へつながろうとしていた。
研修最終日。
朝の厨房には、研修生たちの緊張が静かに漂っていた。
普段と同じ調理器具、同じ火の音、同じ食材。
それなのに、今日という日だけは、なぜか空気まで違って感じた。
美桜は、深呼吸をひとつして、まな板に向かう。
目の前に置かれたのは、ごく普通の人参と玉ねぎ、そしてコンソメの素。
(華やかさはいらない。私は、“届ける”料理を作る)
•
「次、美桜さんです」
名前を呼ばれて前に出ると、白いテーブルクロスの中央に自分のスープをそっと置いた。
丸い白い器に注がれた、淡いオレンジ色のポタージュ。
表面には、あたたかく溶けるようなハーブオイルがひと筋、描かれている。
「このスープは、“想いが届くまでの時間”を味にしました」
声は震えていなかった。むしろ、どこまでも澄んでいた。
「遠くにいても、言葉にできなくても、料理なら、想いを“味”に変えられると私は信じています。このスープは、私がずっと誰かに言いたかった“ありがとう”と“がんばってるね”を詰め込みました」
審査員たちは静かに頷いていた。
スプーンを口に運んだその瞬間、
ひとりの女性審査員が目を伏せ、小さく微笑んだ。
「……あたたかい。舌じゃなくて、心が温かくなる味ね」
アデルもまた、目を細めてうなずいていた。
「言葉にしなくても届く気持ちって、本当にあるのね。あなたの料理は、それを証明してくれたわ」
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その夜、美桜は研修最後のログノートに記した。
「レシピじゃなくて、“気持ちのありか”を書き残しておこうと思う」
「あの日くれたクッキーを、私はいまも覚えてる。あのときの一口が、今の私のすべてを作った気がする」
「だから次は私が、“誰かの一口目”になれるように生きていく」
ノートを閉じて、スマホを開く。
彼からのメッセージが届いていた。
「今日は、君のスープを思いながら、俺もひとつ決意を形にしたよ」
「今の職場、来月いっぱいで退職することになった」
「俺も、新しい場所に行く。自分の手で、ちゃんと道を作っていきたいから」
画面の光が静かに滲む。
ふたりが歩いてきた道が、すこしずつ重なっていく音が聞こえるようだった。
(よかった。やっぱり、私たちは“ちゃんと今”を選んでる)
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その翌日、美桜は帰国の便を予約した。
約半年ぶりの帰国。
そして、半年ぶりの――再会。
でも今回は、“誰かを待つ”帰国じゃない。
“自分の足で会いに行く”決意だった。
•
どこか遠くの街で、同じ空気を吸っている誰かに、
料理を通して、想いを届けられるかもしれない。
そう信じて、美桜はスーツケースの中に、レシピノートとノエミのクッキーを入れた。
ロワールでの最後の夜。
寮の部屋に、スーツケースが静かに佇んでいた。
荷造りは終わっていた。
けれど、美桜はまだ、その横に置いていたノートの最後のページを見つめていた。
窓の外では、星が滲んでいた。
音のない夜に、心の中で、彼の声を思い出す。
「俺も、ちゃんと変わっていくよ」
「もう、隣を追いかけるだけじゃなくて、並んで歩ける自分でいたい」
それはきっと、恋人という関係よりもずっと強い、
“共に未来を選ぶ人”の声だった。
•
翌朝、美桜はノートにこう書き残した。
「この場所で、私はようやく“料理が夢”じゃなくなった。料理は、私の言葉であり、私そのものになった」
「だから次は、自分の人生を料理していく。どんな味になるかは、私自身が決めていくんだと思う」
最後のページに、レシピではなく“決意”を書く。
それが、美桜なりの「この旅の結び方」だった。
•
そのころ、日本。
彼は、新しい職場への打診を終え、駅のホームで人の流れを見つめていた。
(誰かに言われて動くのは、もう終わりにしよう)
(君が自分を選んだように、俺も自分を選ぶ)
スマホを開くと、美桜から写真が届いていた。
夕暮れのフランスの空に、スーツケースと、ノエミのクッキーが映っていた。
そして、短い一文。
「会いにいくね。次は、“今の私”で」
彼は笑みをこぼし、返事を打った。
「会おう。“今の俺たち”として」
•
飛行機は明日の朝。
空と空を越えて、ふたりはまた交差する。
けれど、もう“戻る”わけじゃない。
あの日の続きではなく、
ここから始まる“新しいふたり”として、出会い直すのだ。
その扉の前で、静かに息を整える。
恋の終わりじゃない。
これは、“想いの始まり方を変える”物語の、次のページ。