触れたはずの温もりに、手が届かない
三月。
パリの空は気まぐれで、晴れ間の後にすぐ雨が落ちてくる。
美桜は傘も差さずに、小さな石畳の道を歩いていた。
コンビニも自販機もないこの街に、やっと慣れてきた。
研修も後半に入り、実践的な仕込みや接客にも参加している。
だけど、心は妙に落ち着かない。
(なんか、最近……返事、短いな)
彼からの連絡は毎日届いている。
それに、優しさも変わっていない。
でも――どこか、ぎこちない。
“言葉のリズム”が、少しだけ違ってきていた。
•
その頃、日本。
彼は会議室のホワイトボードを背に、深く息を吐いた。
新しい事業提案の責任者に任命されてから、数週間。
彼の前には、信頼していた上司と、
そして、例のコンサルタント――堂本 環の姿があった。
「フランス、視察に行ってもらうことになったわよ。現地の店舗と連携取るためにもね」
「……え?」
彼は思わず聞き返す。
「フランスって……どこに?」
「パリ郊外。向こうの提携先。詳しい住所、あとで送る」
(……まさか)
ふと、美桜のいる街の名が頭をよぎった。
•
数日後。
美桜は厨房で、ふと見慣れた背中に目を奪われる。
スーツ姿。
黒髪。
姿勢の癖。
――ありえない。
でも、どう見ても……彼だった。
「……え?」
その瞬間、彼がこちらを振り向いた。
目が合った。
まるで、世界の音が一瞬止まったようだった。
「美桜……?」
小さく、彼がつぶやいた。
まさか、こんなところで。
予告もなしに。
•
ふたりは、カフェで向き合っていた。
研修中の美桜に、長く話す時間はなかった。
でも、それ以上に――言葉が見つからなかった。
「……どうして来たの?」
「仕事。偶然、ほんとに。
でも、君の街だって分かって、心臓止まりそうだった」
「どうして、一言も言ってくれなかったの?」
「……驚かせたくて。変な言い訳だけど……」
「……私、すごくびっくりした。でも、本当は――嬉しかった。会えて」
ふたりは、そっと笑った。
けれど、その笑みの奥には、少しの“距離”が残っていた。
あの頃ならすぐに埋まったはずの距離。
いまは、ほんの少しだけ届かない。
•
その夜。
美桜はペンダントを外して、机の上に置いた。
そしてスマホに手を伸ばし、ゆっくりと彼にメッセージを打った。
「君の顔を見たら、全部“変わってない”って思えると思ってた。でも、少しだけ……自分の中で、何かが変わってるのを感じた」
「君と会えてよかった。でも同時に、自分がどこか遠くに行ってる気がして、少し怖かった」
送信してから、涙がにじんだ。
“会えない”ことより、“会って感じた違和感”の方が、胸を締めつける。
ふたりの“すれ違い”は、目に見えないところで、
静かに、深く――始まっていた。
翌日、街角の小さなビストロで、ふたりは昼食をとっていた。
「このクロックムッシュ、君が前に話してたやつだよね」
「うん。パンがしっとりしてて、向こうで食べたのと全然違うでしょ?」
「……違う。なんていうか、“君の時間”に触れた気がする」
彼の言葉は優しくて、嘘がなかった。
でも、美桜の心にはなぜか、波が立たなかった。
会いたくて、あんなに願っていたのに。
今、目の前にいる彼を見つめながら――
自分の表情が、どこかぎこちなくなっているのが分かった。
•
「仕事、忙しいんでしょ? 君」
「……うん。あっちのレストランじゃ、皿を一枚出すのに3人が関わるの。私も最近は前菜のソース担当任されてて、もう必死」
「……君、すごいな」
「でも、まだ全然だよ。フランス語も細かい表現になると詰まっちゃうし。今朝も、“まったく違う意味”で返事しちゃって、キッチンが凍りついた」
ふたりは笑った。
けれどその笑いには、どこか“すれ違い”の影が差していた。
•
彼は、自分のカップを見つめながら言った。
「……君がどんどん先に進んでるのが、分かる。すごく嬉しい。すごく、誇らしい。でも同時に、どこかで焦ってる自分もいる」
「……どうして?」
「君を“待ってる側”のつもりだった。でも、気づいたら俺の方が“追いかけてる”気がして」
その言葉に、美桜の胸が少しだけ痛んだ。
「でも、それでいいんじゃないかな」
「え……?」
「私、追いかけてくれることが“寂しさの埋め合わせ”じゃなくて、君の“選んだ道”になってるなら、嬉しいよ」
「……うん」
ふたりは、また黙った。
言葉はあるのに、どうしても触れきれない。
この数ヶ月で、きっとお互いに“変わった”のだ。
それは、成長でもあるけれど――
少しだけ“怖さ”も連れてくる。
•
夕方、美桜が寮に戻る前。
ふたりは石畳の通りをゆっくりと歩いた。
「また、会えるよね?」
「もちろん。だけど、次はきっと“再会”じゃなくて、“同じ場所から始められる”気がする」
「……そうだね。そうなると、いいね」
別れ際、彼はためらいがちに手を差し出した。
美桜はそれを握り返したけれど――
指先の力は、どこかやわらかかった。
まるで、いつでも“手を離してしまえる”ように。
そんな自分に気づいて、心がざわついた。
•
その夜。
美桜はひとりでタルト生地を焼きながら、自問していた。
(私は、何を怖がってるんだろう)
彼が変わってしまったわけじゃない。
むしろずっと、優しいままだ。
けれど、今の私は
“戻る場所”を確かめるよりも、
“進む先”を見ていたいのかもしれない。
その視線が、彼と同じ方向に向いているのか――
それだけが、まだ分からなかった。
雨の音が、窓を叩いていた。
小さな寮の部屋に、美桜は一人。
濡れたコートをハンガーにかけ、ペンダントに指先を伸ばす。
胸元から外した銀の楕円は、どこか冷たかった。
けれどそれは、体温がまだ戻りきっていないだけなのだと自分に言い聞かせる。
彼と会ってから、もう数日が経つ。
連絡も何度か取り合っている。
けれど、美桜の心はずっと曇り空のように晴れなかった。
(どうしてだろう)
彼の優しさは、変わっていない。
彼の言葉も、まっすぐで、ちゃんとこちらを見ていた。
それでも、自分の胸の奥では――
どこか、踏み込めない“距離”が生まれてしまっているのを感じていた。
•
その夜、美桜はノートを開いて、何かを書き始めた。
日記でもない。レシピでもない。
誰にも送らない、“誰かに見られるかもしれないひとりごと”。
「私は、君に会えたとき、少しだけ怖くなった」
「嬉しいはずなのに、泣きたいくらいだった」
「たぶん私、ずっと“追いかけてくれること”を待ってたんだと思う」
「でも、君が近くに来たとたん、自分の足で進んでいたのに、誰かに捕まった気がしてしまった」
「こんな自分、ひどいよね」
「でも、そう思ってしまった私も、私なんだと思う」
書き終えると、美桜は静かに目を閉じた。
恋をしている。
今でも、彼を好きだと思っている。
だけど――その“好き”に、いつの間にか“立ち止まる怖さ”が混ざっていた。
•
翌朝。
厨房で、美桜は焼きあがったブリオッシュをトレイに並べながら、エリアスに声をかけられた。
「元気ないな、最近。疲れてるのか?」
「ううん、そんなことないよ。ただ……ちょっとだけ、迷ってるの」
「何に?」
「……戻る場所、決めていたはずなのに。今の自分が“戻らずに進みたい”って思ってるのかもしれない、って」
「そうか。だったらさ――戻らなきゃいいじゃん」
「……え?」
「誰かが待ってるのも大事だけど、自分が“どこにいたいか”の方がずっと大事だ。自分のことを、自分が選ばなきゃ、恋だって続かない」
彼の言葉が、胸の奥に刺さった。
(そうだ。私は、“選びたい”。恋じゃなくて、私自身を)
•
その夜、美桜は彼にメッセージを送った。
「話したいこと、たくさんある。でも、文字だとうまく伝えられないと思うから、少し待ってて」
「私、自分の気持ちをちゃんと整理して、“どうしたいか”を、君に嘘なく話したい」
返信はすぐに届いた。
「分かった。待ってる。君が自分を信じて選んだ言葉なら、俺はどんな気持ちでもちゃんと受け止めたい」
画面の光を見つめながら、美桜はそっと微笑んだ。
(私たちは今、ちゃんと“向き合ってる”)
そして、ようやく気づいたのだった。
“触れられない距離”が怖いんじゃない。
“自分の本音”から逃げてしまうことの方が、ずっと怖かったのだ。
日曜の午後。
パリの空は薄曇りで、風は少し冷たかった。
美桜は、駅前の小さなカフェのテラス席にいた。
そこに彼が現れたのは、約束の時間ぴったりだった。
「待たせてない?」
「ううん、今来たとこ」
当たり障りのない会話。
けれどその言葉の裏には、ふたりとも緊張を隠していた。
カップに注がれたエスプレッソの湯気が、目の前でゆらゆら揺れる。
それがまるで、ふたりの心の距離のように思えた。
•
「話したいこと、あるんだよね」
彼の声に、美桜は小さくうなずいた。
「……うん。でも、まず先に聞きたい。君は、私が“ここ”で頑張ってること、どう思ってる?」
彼は、少し驚いた顔をした。
けれどすぐに、真剣な表情に変わる。
「……すごいと思ってる。誇りに思ってるし、俺なんかよりずっと前に進んでるとも思ってる」
「“俺なんかより”って言わないで。君は君の場所で頑張ってる。それを私はちゃんと知ってるから」
一呼吸、間があった。
「……でもね、最近ずっと怖かったの。君に会えて嬉しかったのに、心のどこかで、“戻らなきゃ”って思う自分がいた」
「“戻らなきゃ”、って?」
「ここで得たもの、築いてきたものを置いて、“恋のために帰らなきゃいけない”って、無意識に考えてたのかもしれない。でも、それって違うなって、やっと分かった」
彼は黙って聞いていた。
言葉をさえぎることもせず、ただまっすぐに、美桜を見ていた。
「私は、恋を理由にしたくない。夢を言い訳にもしたくない。だから、君にちゃんと伝えておきたかったの」
「……うん」
「私、もう“戻るために”頑張るんじゃなくて、“ここにいる自分も、君の隣に立てるように”頑張りたい。だから、ちゃんと待ってて。君の場所に戻るんじゃなくて、私たちが同じ未来に向かう場所を一緒に探すって、そう決めたの」
彼は少し俯いて、それからゆっくりと笑った。
「……やっぱり、君には敵わないや」
「え?」
「俺はずっと、君が戻ってきてくれるって信じてた。
でも、君が“自分で選んで進む”って言ってくれる方が、ずっと嬉しい。俺も、そうありたいと思ってたから」
美桜は、ほっとしたように微笑んだ。
ふたりはカップを手にして、ようやく同じ高さで向かい合った。
•
その日の帰り道、
ふたりは駅まで並んで歩いた。
言葉は少なかったけれど、
その沈黙は“気まずさ”ではなく、“確かな安心”だった。
「ねえ、今度会うときはさ」
「うん?」
「同じスピードで、同じ景色を見ていられるふたりでいよう。遠くても、近くても、そういう関係でいたい」
「……うん、約束」
ふたりは、静かにうなずきあった。
遠くても、迷っても。
恋は、終わりじゃなくて、重ねていくものだから。
パリの空港。
出発ゲートに向かう長い廊下の途中で、ふたりは立ち止まった。
「じゃあ、そろそろ……行くね」
「……ああ。気をつけて」
彼はスーツケースを引きながら、美桜を見つめていた。
言葉はもう、何度も交わした。
けれど、別れ際には決まって、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
「ねえ」
「うん?」
「今日までの全部、ちゃんと伝えてよかった。迷ったままだったら、たぶん私は、君をちゃんと“好き”でいられなかったと思う」
「……俺も。会いに来てよかったよ。怖かったけど、ちゃんと向き合えて、よかった」
笑いあったふたりの表情には、もう不安はなかった。
彼は小さく手を振り、美桜もそれに応える。
そして、彼の背中が遠ざかっていく。
見送るその時間だけが、ほんの少しだけ切なかった。
けれど美桜は、すぐに前を向いた。
•
その夜。
彼の帰国を知らせるメッセージが届いた。
「無事に着いたよ。空気がやけに湿ってるけど、それもなんか懐かしい」
「君が“今の自分”を選んでくれたこと、本当に嬉しい」
「これからのこと、言葉じゃなくて“形”にしていくから。だから、見てて。俺もちゃんと、そっちに向かってるから」
美桜はスマホを胸に当て、しばらく目を閉じた。
ほんの少し前まで、恋に“守ってもらう”ことを望んでいた。
でも今は――
この恋を“自分の力で守っていく”覚悟が、静かに根を張っていた。
•
その翌日。
厨房の壁に貼られた掲示に、美桜の名前があった。
【新人選抜:地方出張研修メンバー決定】
短期とはいえ、現地の本格店舗で“任される側”に立つ選抜だった。
周囲がざわつくなか、美桜は小さくうなずいた。
自分の足で進む。
その先に、彼がいる。
だから、大丈夫。
ペンダントにそっと触れながら、美桜はエプロンをきゅっと結び直した。
•
離れていても、触れられなくても。
ふたりは、同じ未来に手を伸ばしている。
それぞれの場所で、夢を背負いながら――
“いつか”ではなく、“今”を信じるために。
もう、言葉は要らない。
ただまっすぐに、歩いていけばいい。