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17/21

触れたはずの温もりに、手が届かない

三月。

パリの空は気まぐれで、晴れ間の後にすぐ雨が落ちてくる。


美桜は傘も差さずに、小さな石畳の道を歩いていた。


コンビニも自販機もないこの街に、やっと慣れてきた。

研修も後半に入り、実践的な仕込みや接客にも参加している。


だけど、心は妙に落ち着かない。


(なんか、最近……返事、短いな)


彼からの連絡は毎日届いている。

それに、優しさも変わっていない。


でも――どこか、ぎこちない。


“言葉のリズム”が、少しだけ違ってきていた。


その頃、日本。


彼は会議室のホワイトボードを背に、深く息を吐いた。


新しい事業提案の責任者に任命されてから、数週間。

彼の前には、信頼していた上司と、

そして、例のコンサルタント――堂本 環の姿があった。


「フランス、視察に行ってもらうことになったわよ。現地の店舗と連携取るためにもね」


「……え?」


彼は思わず聞き返す。


「フランスって……どこに?」


「パリ郊外。向こうの提携先。詳しい住所、あとで送る」


(……まさか)


ふと、美桜のいる街の名が頭をよぎった。


数日後。

美桜は厨房で、ふと見慣れた背中に目を奪われる。


スーツ姿。

黒髪。

姿勢の癖。


――ありえない。

でも、どう見ても……彼だった。


「……え?」


その瞬間、彼がこちらを振り向いた。


目が合った。


まるで、世界の音が一瞬止まったようだった。


「美桜……?」


小さく、彼がつぶやいた。


まさか、こんなところで。

予告もなしに。


ふたりは、カフェで向き合っていた。

研修中の美桜に、長く話す時間はなかった。

でも、それ以上に――言葉が見つからなかった。


「……どうして来たの?」


「仕事。偶然、ほんとに。

でも、君の街だって分かって、心臓止まりそうだった」


「どうして、一言も言ってくれなかったの?」


「……驚かせたくて。変な言い訳だけど……」


「……私、すごくびっくりした。でも、本当は――嬉しかった。会えて」


ふたりは、そっと笑った。


けれど、その笑みの奥には、少しの“距離”が残っていた。


あの頃ならすぐに埋まったはずの距離。

いまは、ほんの少しだけ届かない。


その夜。

美桜はペンダントを外して、机の上に置いた。


そしてスマホに手を伸ばし、ゆっくりと彼にメッセージを打った。


「君の顔を見たら、全部“変わってない”って思えると思ってた。でも、少しだけ……自分の中で、何かが変わってるのを感じた」


「君と会えてよかった。でも同時に、自分がどこか遠くに行ってる気がして、少し怖かった」


送信してから、涙がにじんだ。


“会えない”ことより、“会って感じた違和感”の方が、胸を締めつける。


ふたりの“すれ違い”は、目に見えないところで、

静かに、深く――始まっていた。


翌日、街角の小さなビストロで、ふたりは昼食をとっていた。


「このクロックムッシュ、君が前に話してたやつだよね」


「うん。パンがしっとりしてて、向こうで食べたのと全然違うでしょ?」


「……違う。なんていうか、“君の時間”に触れた気がする」


彼の言葉は優しくて、嘘がなかった。

でも、美桜の心にはなぜか、波が立たなかった。


会いたくて、あんなに願っていたのに。

今、目の前にいる彼を見つめながら――

自分の表情が、どこかぎこちなくなっているのが分かった。


「仕事、忙しいんでしょ? 君」


「……うん。あっちのレストランじゃ、皿を一枚出すのに3人が関わるの。私も最近は前菜のソース担当任されてて、もう必死」


「……君、すごいな」


「でも、まだ全然だよ。フランス語も細かい表現になると詰まっちゃうし。今朝も、“まったく違う意味”で返事しちゃって、キッチンが凍りついた」


ふたりは笑った。

けれどその笑いには、どこか“すれ違い”の影が差していた。


彼は、自分のカップを見つめながら言った。


「……君がどんどん先に進んでるのが、分かる。すごく嬉しい。すごく、誇らしい。でも同時に、どこかで焦ってる自分もいる」


「……どうして?」


「君を“待ってる側”のつもりだった。でも、気づいたら俺の方が“追いかけてる”気がして」


その言葉に、美桜の胸が少しだけ痛んだ。


「でも、それでいいんじゃないかな」


「え……?」


「私、追いかけてくれることが“寂しさの埋め合わせ”じゃなくて、君の“選んだ道”になってるなら、嬉しいよ」


「……うん」


ふたりは、また黙った。


言葉はあるのに、どうしても触れきれない。

この数ヶ月で、きっとお互いに“変わった”のだ。


それは、成長でもあるけれど――

少しだけ“怖さ”も連れてくる。


夕方、美桜が寮に戻る前。

ふたりは石畳の通りをゆっくりと歩いた。


「また、会えるよね?」


「もちろん。だけど、次はきっと“再会”じゃなくて、“同じ場所から始められる”気がする」


「……そうだね。そうなると、いいね」


別れ際、彼はためらいがちに手を差し出した。

美桜はそれを握り返したけれど――

指先の力は、どこかやわらかかった。


まるで、いつでも“手を離してしまえる”ように。


そんな自分に気づいて、心がざわついた。


その夜。

美桜はひとりでタルト生地を焼きながら、自問していた。


(私は、何を怖がってるんだろう)


彼が変わってしまったわけじゃない。

むしろずっと、優しいままだ。


けれど、今の私は

“戻る場所”を確かめるよりも、

“進む先”を見ていたいのかもしれない。


その視線が、彼と同じ方向に向いているのか――

それだけが、まだ分からなかった。


雨の音が、窓を叩いていた。


小さな寮の部屋に、美桜は一人。

濡れたコートをハンガーにかけ、ペンダントに指先を伸ばす。


胸元から外した銀の楕円は、どこか冷たかった。

けれどそれは、体温がまだ戻りきっていないだけなのだと自分に言い聞かせる。


彼と会ってから、もう数日が経つ。

連絡も何度か取り合っている。

けれど、美桜の心はずっと曇り空のように晴れなかった。


(どうしてだろう)


彼の優しさは、変わっていない。

彼の言葉も、まっすぐで、ちゃんとこちらを見ていた。


それでも、自分の胸の奥では――

どこか、踏み込めない“距離”が生まれてしまっているのを感じていた。


その夜、美桜はノートを開いて、何かを書き始めた。

日記でもない。レシピでもない。

誰にも送らない、“誰かに見られるかもしれないひとりごと”。


「私は、君に会えたとき、少しだけ怖くなった」

「嬉しいはずなのに、泣きたいくらいだった」

「たぶん私、ずっと“追いかけてくれること”を待ってたんだと思う」

「でも、君が近くに来たとたん、自分の足で進んでいたのに、誰かに捕まった気がしてしまった」

「こんな自分、ひどいよね」

「でも、そう思ってしまった私も、私なんだと思う」


書き終えると、美桜は静かに目を閉じた。


恋をしている。

今でも、彼を好きだと思っている。


だけど――その“好き”に、いつの間にか“立ち止まる怖さ”が混ざっていた。


翌朝。

厨房で、美桜は焼きあがったブリオッシュをトレイに並べながら、エリアスに声をかけられた。


「元気ないな、最近。疲れてるのか?」


「ううん、そんなことないよ。ただ……ちょっとだけ、迷ってるの」


「何に?」


「……戻る場所、決めていたはずなのに。今の自分が“戻らずに進みたい”って思ってるのかもしれない、って」


「そうか。だったらさ――戻らなきゃいいじゃん」


「……え?」


「誰かが待ってるのも大事だけど、自分が“どこにいたいか”の方がずっと大事だ。自分のことを、自分が選ばなきゃ、恋だって続かない」


彼の言葉が、胸の奥に刺さった。


(そうだ。私は、“選びたい”。恋じゃなくて、私自身を)


その夜、美桜は彼にメッセージを送った。


「話したいこと、たくさんある。でも、文字だとうまく伝えられないと思うから、少し待ってて」

「私、自分の気持ちをちゃんと整理して、“どうしたいか”を、君に嘘なく話したい」


返信はすぐに届いた。


「分かった。待ってる。君が自分を信じて選んだ言葉なら、俺はどんな気持ちでもちゃんと受け止めたい」


画面の光を見つめながら、美桜はそっと微笑んだ。


(私たちは今、ちゃんと“向き合ってる”)


そして、ようやく気づいたのだった。


“触れられない距離”が怖いんじゃない。

“自分の本音”から逃げてしまうことの方が、ずっと怖かったのだ。


日曜の午後。

パリの空は薄曇りで、風は少し冷たかった。


美桜は、駅前の小さなカフェのテラス席にいた。

そこに彼が現れたのは、約束の時間ぴったりだった。


「待たせてない?」


「ううん、今来たとこ」


当たり障りのない会話。

けれどその言葉の裏には、ふたりとも緊張を隠していた。


カップに注がれたエスプレッソの湯気が、目の前でゆらゆら揺れる。

それがまるで、ふたりの心の距離のように思えた。


「話したいこと、あるんだよね」


彼の声に、美桜は小さくうなずいた。


「……うん。でも、まず先に聞きたい。君は、私が“ここ”で頑張ってること、どう思ってる?」


彼は、少し驚いた顔をした。

けれどすぐに、真剣な表情に変わる。


「……すごいと思ってる。誇りに思ってるし、俺なんかよりずっと前に進んでるとも思ってる」


「“俺なんかより”って言わないで。君は君の場所で頑張ってる。それを私はちゃんと知ってるから」


一呼吸、間があった。


「……でもね、最近ずっと怖かったの。君に会えて嬉しかったのに、心のどこかで、“戻らなきゃ”って思う自分がいた」


「“戻らなきゃ”、って?」


「ここで得たもの、築いてきたものを置いて、“恋のために帰らなきゃいけない”って、無意識に考えてたのかもしれない。でも、それって違うなって、やっと分かった」


彼は黙って聞いていた。

言葉をさえぎることもせず、ただまっすぐに、美桜を見ていた。


「私は、恋を理由にしたくない。夢を言い訳にもしたくない。だから、君にちゃんと伝えておきたかったの」


「……うん」


「私、もう“戻るために”頑張るんじゃなくて、“ここにいる自分も、君の隣に立てるように”頑張りたい。だから、ちゃんと待ってて。君の場所に戻るんじゃなくて、私たちが同じ未来に向かう場所を一緒に探すって、そう決めたの」


彼は少し俯いて、それからゆっくりと笑った。


「……やっぱり、君には敵わないや」


「え?」


「俺はずっと、君が戻ってきてくれるって信じてた。

でも、君が“自分で選んで進む”って言ってくれる方が、ずっと嬉しい。俺も、そうありたいと思ってたから」


美桜は、ほっとしたように微笑んだ。


ふたりはカップを手にして、ようやく同じ高さで向かい合った。


その日の帰り道、

ふたりは駅まで並んで歩いた。


言葉は少なかったけれど、

その沈黙は“気まずさ”ではなく、“確かな安心”だった。


「ねえ、今度会うときはさ」


「うん?」


「同じスピードで、同じ景色を見ていられるふたりでいよう。遠くても、近くても、そういう関係でいたい」


「……うん、約束」


ふたりは、静かにうなずきあった。


遠くても、迷っても。

恋は、終わりじゃなくて、重ねていくものだから。


パリの空港。

出発ゲートに向かう長い廊下の途中で、ふたりは立ち止まった。


「じゃあ、そろそろ……行くね」


「……ああ。気をつけて」


彼はスーツケースを引きながら、美桜を見つめていた。

言葉はもう、何度も交わした。

けれど、別れ際には決まって、胸の奥が少しだけ苦しくなる。


「ねえ」


「うん?」


「今日までの全部、ちゃんと伝えてよかった。迷ったままだったら、たぶん私は、君をちゃんと“好き”でいられなかったと思う」


「……俺も。会いに来てよかったよ。怖かったけど、ちゃんと向き合えて、よかった」


笑いあったふたりの表情には、もう不安はなかった。


彼は小さく手を振り、美桜もそれに応える。


そして、彼の背中が遠ざかっていく。


見送るその時間だけが、ほんの少しだけ切なかった。


けれど美桜は、すぐに前を向いた。


その夜。

彼の帰国を知らせるメッセージが届いた。


「無事に着いたよ。空気がやけに湿ってるけど、それもなんか懐かしい」

「君が“今の自分”を選んでくれたこと、本当に嬉しい」

「これからのこと、言葉じゃなくて“形”にしていくから。だから、見てて。俺もちゃんと、そっちに向かってるから」


美桜はスマホを胸に当て、しばらく目を閉じた。


ほんの少し前まで、恋に“守ってもらう”ことを望んでいた。

でも今は――

この恋を“自分の力で守っていく”覚悟が、静かに根を張っていた。


その翌日。

厨房の壁に貼られた掲示に、美桜の名前があった。


【新人選抜:地方出張研修メンバー決定】


短期とはいえ、現地の本格店舗で“任される側”に立つ選抜だった。


周囲がざわつくなか、美桜は小さくうなずいた。


自分の足で進む。

その先に、彼がいる。

だから、大丈夫。


ペンダントにそっと触れながら、美桜はエプロンをきゅっと結び直した。


離れていても、触れられなくても。

ふたりは、同じ未来に手を伸ばしている。


それぞれの場所で、夢を背負いながら――

“いつか”ではなく、“今”を信じるために。


もう、言葉は要らない。

ただまっすぐに、歩いていけばいい。

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