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16/21

その言葉の続きを、まだ知らない

駅前のロータリーで、彼は待っていた。


少し早く着きすぎたかもしれない。

だけどそれが、なんだかうれしかった。


数日ぶりの再会なのに、まるで数ヶ月ぶりのように感じる。

言葉より先に、目で会いたかった。


ふと、視線の先。

信号の向こう、美桜の姿が見えた。


白いマフラーに包まれた横顔。

少しだけうつむいていて、それでもすぐに分かった。


「――おかえり」


「……ただいま」


ほんの短い会話。

でもその声が、彼の中の“緊張”をすべて溶かしていった。


近くのカフェで、温かい飲み物を手にふたりで座る。


互いのことを、少しずつ報告し合った。

彼の出張先の話、美桜のコンペでの出来事。


言葉が途切れるたび、

ふたりは自然と目を合わせて、笑った。


もう、“黙ってしまう時間”が怖くなくなっていた。


「本当に、よくがんばったね」


彼がそう言って、美桜の頭に手を置いた。


その手の重みが、じんわりと心に染みた。


「……ねえ」


しばらくして、美桜が小さな声で言った。


「前に、“未来の話がしたい”って言ってくれたでしょ」


「うん」


「今日、それを聞こうと思ってた。でも……その前に、伝えなきゃいけないことができたの」


「……え?」


美桜はゆっくりとスマホを取り出し、

画面に表示された一通のメールを彼に見せた。


《〇〇専門調理学院・海外研修選抜クラスへの内定通知》


「選ばれたの。……フランス研修の、長期プログラム。

三ヶ月間、現地の料理学校と店舗で研修する機会。

希望者が多くて無理だと思ってたのに、私……」


彼は数秒、何も言えなかった。


「おめでとう。……すごいよ、美桜」


「ありがとう。でも、まだ返事してないの」


「え?」


「行きたい気持ちは、ある。すごく。でも……君と離れることが、今は正直、怖い」


静かに視線を落とした美桜に、

彼はそっと言葉を重ねた。


「俺、きっと“君の夢を応援する”って言うべきなんだと思う。でも……本音を言っていい?」


「うん」


「離れるの、すごく寂しい。でも……君がその夢を諦めたら、俺はきっともっと苦しい。だから、ちゃんと考えて。“どうしたいか”を――誰かのためじゃなく、自分のために」


美桜は、はっと息をのんだ。


彼の言葉は、優しさであり、強さだった。


(私が進む道を、君は奪わない。でもそれでも、“いなくなること”を悲しんでくれる)


胸の奥で、何かが強く震えた。


その帰り道。

ふたりは黙って並んで歩いた。


手と手が、少し触れた。

彼がそっと、美桜の手を握った。


「もし決めたら、また教えて」


「……うん。ちゃんと、自分の言葉で話すね。“行く”って決めたとしても、それは“君がいなくてもいい”ってことじゃないから」


「分かってるよ」


歩き続けるふたりの影が、ゆっくりと重なっていった。


未来はまだ、はっきりとは見えない。

でもそこには、確かに“ふたりの形”があった。


数日後。

窓辺に春の気配が宿りはじめた午後、美桜はひとり、手紙を書いていた。


宛先は、彼。


直接言うのが恥ずかしくて。

でもちゃんと、言葉にして残したかった。


「私は、フランス研修に行くことを決めました」


「それは、“君がいなくてもいい”という意味じゃない。

むしろ、“君と一緒に未来を見たい”から、ちゃんと自分の足で立ちたかった」


「離れる三ヶ月間が、きっと私たちの“強さ”になると信じています」


ペンを置いて、美桜は静かに息を吐いた。


その夜、ふたりは再び駅前で会った。


「決めたんだね」


彼の言葉に、美桜はうなずいた。


「……うん。ちゃんと自分で考えて、決めた。行くよ。

でも、私はちゃんとここに帰ってくる。それだけは約束する」


彼は笑って、ポケットから小さな箱を取り出した。


「じゃあ、俺からも“約束”を」


開けられた箱の中には、小さなシルバーのペンダント。

シンプルな楕円のトップに、繊細な文字が刻まれていた。


《toujours(=いつも)》


「これ、研修中に身につけててほしい。

“ここに帰る場所がある”って、忘れないように」


美桜は黙ってそのペンダントを受け取り、

そっと胸元に当てた。


「……うん。大事にする。これ、帰ってきたら君にも貸してあげる。交代で」


「いいね、それ。交代制の約束か。……じゃあ、三ヶ月後の今夜も、同じ場所で会おう。俺、ちゃんと待ってるから」


ふたりの視線が、まっすぐに重なる。


何も言わなくても、すべて伝わる気がした。


別れ際、美桜はそっと言った。


「たぶん、何度か弱音も吐くし、寂しくなると思う。

でも、そのたびにこれを見て、自分に言い聞かせるよ。“この恋は終わらない”って」


「うん。俺も同じ気持ちで待ってる」


そして数日後――

空港のゲート前、美桜は振り返って手を振った。


彼は大きく手を振り返して、

胸の前でギュッと拳を握るジェスチャーをした。


(がんばれ、って、そう聞こえた)


搭乗口が閉じるその瞬間まで、

ふたりの視線は繋がっていた。


新しい土地、新しい挑戦。

見知らぬ言葉と、慣れない毎日。


だけど、美桜の胸にはいつもあのペンダントがあって。

そこに“彼の存在”が、そっと息づいていた。


パリ郊外の寮の部屋。

窓から差し込む淡い光が、白いカーテンをやさしく揺らしていた。


美桜はスーツケースを開けたまま、ベッドに腰を下ろす。


日本を発って、まだ一日。

けれどもう、時間の流れがまったく違うように感じていた。


ベッドサイドの引き出しに、彼からもらったペンダントをそっと置く。

そして、スマホを開く。


時差のせいで、彼の時間はまだ深夜。

けれど通知には、メッセージがひとつ。


「無事着いた?時差ボケ大丈夫?今はもう寝てるかな。返事はいつでもいいから、ゆっくり休んでね」


その一文に、ほっとした。


短くても、あたたかい。

彼らしい言葉だった。


初日からのスケジュールは、予想以上にタイトだった。


朝は実習場での準備。

午後はフランス語での基礎講習。

慣れない土地と、慣れない言葉に囲まれて、

美桜は気づけば、無言のまま時間に追われていた。


(日本にいた頃とは全然違う)


技術の高さだけじゃなく、

テンポも、文化も、考え方も違う。


「次、あなた。ソースの味、何が足りない?」


「えっ……あ、たぶん、塩……?」


「“たぶん”は要らない。プロの現場で、“たぶん”は通用しない」


その言葉に、胸がきゅっと縮こまった。


(ちゃんと選んで来た道なのに。もう逃げたくなってる)


夜、部屋に戻るころには、指先まで疲れていた。


スマホを開くと、彼からの返信があった。


「写真ありがとう。街並み、すごく綺麗だね。仕事中だったから、反応遅くなってごめん」


たったそれだけなのに――

ふと、胸の奥がちくりとした。


「私、頑張ってるのに」


思ってしまった瞬間、自分が嫌になった。


(違う。分かってる。彼は悪くない。時差もあるし、忙しいって知ってる)


だけど、寂しさが小さく積もっていく。


心の奥に、また“距離”が芽を出しかけていた。


数日後の夜。

彼からのビデオ通話が入った。


「……美桜、大丈夫? 顔、ちょっと疲れてる」


「うん、ちょっとだけ。慣れるのに時間かかってるのかも」


「話してくれて、ありがとう」


「……うん。でもごめん、私、なんか……そっちの返信遅いと、ちょっとだけ拗ねちゃうときある」


「そっか……ごめん。気づいてなかった。時差と仕事とで、つい“安心”しすぎてたかもしれない。でもちゃんと、君のこと見てる。離れてても」


その言葉に、少しだけ涙がにじんだ。


“離れていても、見てる”。

それだけで救われることがある。


「……ありがとう。私も、ちゃんと信じてるから。ちょっと弱音、言ってみただけ」


「言ってくれてよかった。言える関係のままでいよう。ずっと」


通話を終えたあと、

美桜はペンダントを首にかけ、胸に触れた。


遠く離れていても。

違う言語、違う時間、違う景色のなかでも。


ふたりのあいだにある“想い”は、ちゃんとここにある。


恋が続くって、

こんなふうに重ねていくものなのかもしれない――そう思えた夜だった。


Salutサリュ!また遅れてるよ、美桜!」


「ご、ごめん……!」


厨房の片隅で、帽子を斜めにかぶった青年が笑う。


エリアス。

同じ研修生のひとりで、フランスの地方出身。

口は悪いけど、教えるのがうまくて、

どこか気遣いのある人だった。


「今日は前菜の試作、任されるんだろ?ビビってちゃ味が鈍るぜ」


「ビビってないし……でも、緊張はしてる」


「じゃあ、俺が味見してやる。遠慮なく言うから、覚悟しとけよ」


軽くウインクを飛ばして、彼は自分の持ち場に戻っていった。


美桜は無意識に笑っていた。

ここでの日々はまだぎこちないけれど、少しずつ“場所”ができてきている。


(こういう時間も、私の一部になっていくんだ)


実習が終わったあと、寮の部屋に戻るとスマホが震えた。


彼からのメッセージ。


「今日、職場でちょっとしたトラブルがあってさ。遅くなるかもって思ったけど、なんとか片付いた。そっちはどう? 少しは慣れてきた?」


「会えないけど、君がどんな風に過ごしてるか、ちゃんと知っていたい。よかったら、最近の写真とか送ってくれたらうれしい」


美桜は、少しだけ躊躇したあと、

今日厨房でエリアスと笑いながら並んで写った写真を選んだ。


でも送信の直前で、別の写真を選び直す。

ひとりで前菜を仕上げたプレートの写真。

今の自分を、一番表している気がしたから。


「今日は、初めて前菜を任されました。すごく難しかったけど、やりきったよ。味のバランスはまだまだだけど、エリアスが褒めてくれた。――厨房の同僚だよ」


少しだけ“意識した”言葉を添えて、送信ボタンを押す。


そのメッセージを受け取った彼は、

ほんの一瞬、画面を見つめた。


「エリアス、か……」


写真の中の美桜は、充実した表情をしていた。

それが彼の心をくすぐると同時に、誇らしくも感じられた。


(いい顔してる。俺の知らない場所で、ちゃんと“生きてる”)


それが少しだけ――寂しかった。


でもすぐに笑みを浮かべる。


(こうして、ふたりともちゃんと成長していけたらいい)


彼はスマホを握りながら、返信を打った。


「その皿、すごくきれいだね。写真だけで美味しそうだと思えたの、初めてかも。君がここまで来たこと、本当に誇らしい。……でも、帰ってきたら俺にも作ってよ。それ、約束な」


画面越しに、彼の声が聞こえた気がした。


その夜、美桜はペンダントに触れながら眠りについた。


今ここにいる私は、

あの街で彼と笑っていた私と、ちゃんと繋がっている。


ふたりの間にある距離は、

もう“不安”ではなく、“信じる”ための試練になっていた。


彼の職場には、新しいプロジェクトの応援で来ていた外部コンサルタントがいた。


堂本どうもと たまき――

冷静で的確、そしてちょっとだけ大人びた余裕を持つ女性だった。


「君って、意外と頑張り屋だね」


資料を渡された彼は、少し驚いたように笑う。


「……意外、ですか?」


「うん。黙々とやってるから目立たないけど、気づいたら全部こなしてるタイプでしょ」


褒められているはずなのに、どこか居心地が悪い。


「彼女、いるんでしょ?」


ふいに、環が聞いた。


「えっ」


「スマホのロック画面、見えちゃった。彼女の写真でしょ? フランスって書いてあるお菓子のパッケージと一緒に写ってたから」


彼は、少しだけ照れくさそうに頷いた。


「はい。今、向こうに研修に行ってて……」


「そっか。いいね、そういうの。ちゃんと“信じてる”って感じ、伝わってくるよ」


その夜。

彼は美桜に、何気ないメッセージを送った。


「今日、すごく仕事が詰まってたんだけど、ちょっとした会話でふっと気が楽になった。……そっちは、何かあった?」


返信はしばらく来なかった。


(時差、か。……いや、もしかして)


その頃、美桜は厨房の片隅で、ある“ノート”を広げていた。


高校のとき、初めて作ったレシピ帳。

日本から持ってきたスーツケースの底にしまっていたそれを、ふと思い出して取り出したのだった。


ページの端には、まだ拙い文字でこう書かれていた。


「“おいしい”の中に、“好き”って言葉を混ぜたい」


あの頃の私は、まだ何者でもなかった。

でも、料理を作ることで“誰かの気持ち”に触れられると信じていた。


(今の私は、どうだろう)


美桜はそっと、厨房に置かれていた白い皿を手に取った。

そして、今の自分なら作れる“あの頃の味”を再現しようと思った。


目の前に誰もいなくても。

言葉にできなくても。

料理の中に、“伝えたい”という想いを込められる気がした。


彼に会いたくて、寂しくて、

でも、それを原動力に変えて。


(私、きっともっと強くなれる)


その夜遅く。

彼のもとに写真が届いた。


「今日、懐かしいレシピを作ってみたの。“おいしい”に、“好き”を混ぜるって昔の私が書いてて、ちょっと笑っちゃった」


「でも今は、その意味が少しだけ分かる気がする。君がいてくれるから、私は“今”を前に進める」


画面を見つめた彼は、深く息を吸い込んでスマホを握った。


(距離を言い訳にしちゃだめだな)


そのあと、彼はメッセージを打った。


「今日、ある先輩に言われたんだ。“信じてるって伝わってくる”って。それ、君のおかげだよ」


「だから俺も、言葉だけじゃなく、ちゃんと形にする。待ってるだけじゃなくて、俺も動くから。君の“帰る場所”になれるように」



遠く離れているふたりが、

まったく違う時間の中で、

同じように“次の自分”を見つけようとしていた。


日曜日の夕方。

美桜は、地元の市場で買ったリンゴをかごに入れ、寮の台所でアップルタルトを焼いていた。


甘い香りが立ちのぼるなか、思い出すのは、

高校生のとき、彼と初めて一緒に作ったお菓子のことだった。


あの頃は何も分からなくて、笑ってばかりで、

でもただ「一緒にいたい」という気持ちだけは本物だった。


(今も、同じだよ)


手元の生地を成形しながら、美桜はふとスマホを手に取った。


時差を気にして、連絡の頻度は少し減った。

だけど、心が遠のいたわけではない。


画面には、前夜届いた彼からのメッセージが表示されていた。


「夢を叶えるって、ひとりじゃできないことばっかりだなって思った。だから今は、君がいることを“強さ”に変えていきたい。俺もがんばるから、君も自分を信じて」



一方、日本の彼は、

会社の階段をゆっくり降りながら、深く空を仰いでいた。


小さな星が瞬く空。

冬の名残を残した風が、ネクタイの隙間を通り抜ける。


スマホには、美桜からの写真。


――りんごのタルト。

そして短い一言。


「次に会えたら、一緒に食べようね」


たったそれだけで、胸がいっぱいになる。


(帰ってくるんだ、この子は。

迷っても、揺れても、ちゃんと私たちの場所に)


彼はスマホを胸に当てて、そっと目を閉じた。


画面の向こうにいても、

言葉のすれ違いがあっても、

見ている夢が重なっていれば、

ふたりは何度でも“同じ気持ち”にたどりつける。


それが、恋の終わりではない証。


むしろ――

恋が“終わらずに続いていく”ための選択だった。


そしてふたりは、それぞれの部屋で眠りにつく。


遠く離れていても、

“いつか”が同じ方向にあることを信じながら。


明日も、自分の足で。

そして、必ずもう一度、手を取り合うために。

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