その言葉の続きを、まだ知らない
駅前のロータリーで、彼は待っていた。
少し早く着きすぎたかもしれない。
だけどそれが、なんだかうれしかった。
数日ぶりの再会なのに、まるで数ヶ月ぶりのように感じる。
言葉より先に、目で会いたかった。
ふと、視線の先。
信号の向こう、美桜の姿が見えた。
白いマフラーに包まれた横顔。
少しだけうつむいていて、それでもすぐに分かった。
「――おかえり」
「……ただいま」
ほんの短い会話。
でもその声が、彼の中の“緊張”をすべて溶かしていった。
•
近くのカフェで、温かい飲み物を手にふたりで座る。
互いのことを、少しずつ報告し合った。
彼の出張先の話、美桜のコンペでの出来事。
言葉が途切れるたび、
ふたりは自然と目を合わせて、笑った。
もう、“黙ってしまう時間”が怖くなくなっていた。
「本当に、よくがんばったね」
彼がそう言って、美桜の頭に手を置いた。
その手の重みが、じんわりと心に染みた。
•
「……ねえ」
しばらくして、美桜が小さな声で言った。
「前に、“未来の話がしたい”って言ってくれたでしょ」
「うん」
「今日、それを聞こうと思ってた。でも……その前に、伝えなきゃいけないことができたの」
「……え?」
美桜はゆっくりとスマホを取り出し、
画面に表示された一通のメールを彼に見せた。
《〇〇専門調理学院・海外研修選抜クラスへの内定通知》
「選ばれたの。……フランス研修の、長期プログラム。
三ヶ月間、現地の料理学校と店舗で研修する機会。
希望者が多くて無理だと思ってたのに、私……」
彼は数秒、何も言えなかった。
「おめでとう。……すごいよ、美桜」
「ありがとう。でも、まだ返事してないの」
「え?」
「行きたい気持ちは、ある。すごく。でも……君と離れることが、今は正直、怖い」
静かに視線を落とした美桜に、
彼はそっと言葉を重ねた。
「俺、きっと“君の夢を応援する”って言うべきなんだと思う。でも……本音を言っていい?」
「うん」
「離れるの、すごく寂しい。でも……君がその夢を諦めたら、俺はきっともっと苦しい。だから、ちゃんと考えて。“どうしたいか”を――誰かのためじゃなく、自分のために」
美桜は、はっと息をのんだ。
彼の言葉は、優しさであり、強さだった。
(私が進む道を、君は奪わない。でもそれでも、“いなくなること”を悲しんでくれる)
胸の奥で、何かが強く震えた。
•
その帰り道。
ふたりは黙って並んで歩いた。
手と手が、少し触れた。
彼がそっと、美桜の手を握った。
「もし決めたら、また教えて」
「……うん。ちゃんと、自分の言葉で話すね。“行く”って決めたとしても、それは“君がいなくてもいい”ってことじゃないから」
「分かってるよ」
歩き続けるふたりの影が、ゆっくりと重なっていった。
未来はまだ、はっきりとは見えない。
でもそこには、確かに“ふたりの形”があった。
数日後。
窓辺に春の気配が宿りはじめた午後、美桜はひとり、手紙を書いていた。
宛先は、彼。
直接言うのが恥ずかしくて。
でもちゃんと、言葉にして残したかった。
「私は、フランス研修に行くことを決めました」
「それは、“君がいなくてもいい”という意味じゃない。
むしろ、“君と一緒に未来を見たい”から、ちゃんと自分の足で立ちたかった」
「離れる三ヶ月間が、きっと私たちの“強さ”になると信じています」
ペンを置いて、美桜は静かに息を吐いた。
•
その夜、ふたりは再び駅前で会った。
「決めたんだね」
彼の言葉に、美桜はうなずいた。
「……うん。ちゃんと自分で考えて、決めた。行くよ。
でも、私はちゃんとここに帰ってくる。それだけは約束する」
彼は笑って、ポケットから小さな箱を取り出した。
「じゃあ、俺からも“約束”を」
開けられた箱の中には、小さなシルバーのペンダント。
シンプルな楕円のトップに、繊細な文字が刻まれていた。
《toujours(=いつも)》
「これ、研修中に身につけててほしい。
“ここに帰る場所がある”って、忘れないように」
美桜は黙ってそのペンダントを受け取り、
そっと胸元に当てた。
「……うん。大事にする。これ、帰ってきたら君にも貸してあげる。交代で」
「いいね、それ。交代制の約束か。……じゃあ、三ヶ月後の今夜も、同じ場所で会おう。俺、ちゃんと待ってるから」
ふたりの視線が、まっすぐに重なる。
何も言わなくても、すべて伝わる気がした。
•
別れ際、美桜はそっと言った。
「たぶん、何度か弱音も吐くし、寂しくなると思う。
でも、そのたびにこれを見て、自分に言い聞かせるよ。“この恋は終わらない”って」
「うん。俺も同じ気持ちで待ってる」
•
そして数日後――
空港のゲート前、美桜は振り返って手を振った。
彼は大きく手を振り返して、
胸の前でギュッと拳を握るジェスチャーをした。
(がんばれ、って、そう聞こえた)
搭乗口が閉じるその瞬間まで、
ふたりの視線は繋がっていた。
•
新しい土地、新しい挑戦。
見知らぬ言葉と、慣れない毎日。
だけど、美桜の胸にはいつもあのペンダントがあって。
そこに“彼の存在”が、そっと息づいていた。
パリ郊外の寮の部屋。
窓から差し込む淡い光が、白いカーテンをやさしく揺らしていた。
美桜はスーツケースを開けたまま、ベッドに腰を下ろす。
日本を発って、まだ一日。
けれどもう、時間の流れがまったく違うように感じていた。
ベッドサイドの引き出しに、彼からもらったペンダントをそっと置く。
そして、スマホを開く。
時差のせいで、彼の時間はまだ深夜。
けれど通知には、メッセージがひとつ。
「無事着いた?時差ボケ大丈夫?今はもう寝てるかな。返事はいつでもいいから、ゆっくり休んでね」
その一文に、ほっとした。
短くても、あたたかい。
彼らしい言葉だった。
•
初日からのスケジュールは、予想以上にタイトだった。
朝は実習場での準備。
午後はフランス語での基礎講習。
慣れない土地と、慣れない言葉に囲まれて、
美桜は気づけば、無言のまま時間に追われていた。
(日本にいた頃とは全然違う)
技術の高さだけじゃなく、
テンポも、文化も、考え方も違う。
「次、あなた。ソースの味、何が足りない?」
「えっ……あ、たぶん、塩……?」
「“たぶん”は要らない。プロの現場で、“たぶん”は通用しない」
その言葉に、胸がきゅっと縮こまった。
(ちゃんと選んで来た道なのに。もう逃げたくなってる)
夜、部屋に戻るころには、指先まで疲れていた。
スマホを開くと、彼からの返信があった。
「写真ありがとう。街並み、すごく綺麗だね。仕事中だったから、反応遅くなってごめん」
たったそれだけなのに――
ふと、胸の奥がちくりとした。
「私、頑張ってるのに」
思ってしまった瞬間、自分が嫌になった。
(違う。分かってる。彼は悪くない。時差もあるし、忙しいって知ってる)
だけど、寂しさが小さく積もっていく。
心の奥に、また“距離”が芽を出しかけていた。
•
数日後の夜。
彼からのビデオ通話が入った。
「……美桜、大丈夫? 顔、ちょっと疲れてる」
「うん、ちょっとだけ。慣れるのに時間かかってるのかも」
「話してくれて、ありがとう」
「……うん。でもごめん、私、なんか……そっちの返信遅いと、ちょっとだけ拗ねちゃうときある」
「そっか……ごめん。気づいてなかった。時差と仕事とで、つい“安心”しすぎてたかもしれない。でもちゃんと、君のこと見てる。離れてても」
その言葉に、少しだけ涙がにじんだ。
“離れていても、見てる”。
それだけで救われることがある。
「……ありがとう。私も、ちゃんと信じてるから。ちょっと弱音、言ってみただけ」
「言ってくれてよかった。言える関係のままでいよう。ずっと」
•
通話を終えたあと、
美桜はペンダントを首にかけ、胸に触れた。
遠く離れていても。
違う言語、違う時間、違う景色のなかでも。
ふたりのあいだにある“想い”は、ちゃんとここにある。
恋が続くって、
こんなふうに重ねていくものなのかもしれない――そう思えた夜だった。
「Salut!また遅れてるよ、美桜!」
「ご、ごめん……!」
厨房の片隅で、帽子を斜めにかぶった青年が笑う。
エリアス。
同じ研修生のひとりで、フランスの地方出身。
口は悪いけど、教えるのがうまくて、
どこか気遣いのある人だった。
「今日は前菜の試作、任されるんだろ?ビビってちゃ味が鈍るぜ」
「ビビってないし……でも、緊張はしてる」
「じゃあ、俺が味見してやる。遠慮なく言うから、覚悟しとけよ」
軽くウインクを飛ばして、彼は自分の持ち場に戻っていった。
美桜は無意識に笑っていた。
ここでの日々はまだぎこちないけれど、少しずつ“場所”ができてきている。
(こういう時間も、私の一部になっていくんだ)
•
実習が終わったあと、寮の部屋に戻るとスマホが震えた。
彼からのメッセージ。
「今日、職場でちょっとしたトラブルがあってさ。遅くなるかもって思ったけど、なんとか片付いた。そっちはどう? 少しは慣れてきた?」
「会えないけど、君がどんな風に過ごしてるか、ちゃんと知っていたい。よかったら、最近の写真とか送ってくれたらうれしい」
美桜は、少しだけ躊躇したあと、
今日厨房でエリアスと笑いながら並んで写った写真を選んだ。
でも送信の直前で、別の写真を選び直す。
ひとりで前菜を仕上げたプレートの写真。
今の自分を、一番表している気がしたから。
「今日は、初めて前菜を任されました。すごく難しかったけど、やりきったよ。味のバランスはまだまだだけど、エリアスが褒めてくれた。――厨房の同僚だよ」
少しだけ“意識した”言葉を添えて、送信ボタンを押す。
•
そのメッセージを受け取った彼は、
ほんの一瞬、画面を見つめた。
「エリアス、か……」
写真の中の美桜は、充実した表情をしていた。
それが彼の心をくすぐると同時に、誇らしくも感じられた。
(いい顔してる。俺の知らない場所で、ちゃんと“生きてる”)
それが少しだけ――寂しかった。
でもすぐに笑みを浮かべる。
(こうして、ふたりともちゃんと成長していけたらいい)
彼はスマホを握りながら、返信を打った。
「その皿、すごくきれいだね。写真だけで美味しそうだと思えたの、初めてかも。君がここまで来たこと、本当に誇らしい。……でも、帰ってきたら俺にも作ってよ。それ、約束な」
画面越しに、彼の声が聞こえた気がした。
•
その夜、美桜はペンダントに触れながら眠りについた。
今ここにいる私は、
あの街で彼と笑っていた私と、ちゃんと繋がっている。
ふたりの間にある距離は、
もう“不安”ではなく、“信じる”ための試練になっていた。
彼の職場には、新しいプロジェクトの応援で来ていた外部コンサルタントがいた。
堂本 環――
冷静で的確、そしてちょっとだけ大人びた余裕を持つ女性だった。
「君って、意外と頑張り屋だね」
資料を渡された彼は、少し驚いたように笑う。
「……意外、ですか?」
「うん。黙々とやってるから目立たないけど、気づいたら全部こなしてるタイプでしょ」
褒められているはずなのに、どこか居心地が悪い。
「彼女、いるんでしょ?」
ふいに、環が聞いた。
「えっ」
「スマホのロック画面、見えちゃった。彼女の写真でしょ? フランスって書いてあるお菓子のパッケージと一緒に写ってたから」
彼は、少しだけ照れくさそうに頷いた。
「はい。今、向こうに研修に行ってて……」
「そっか。いいね、そういうの。ちゃんと“信じてる”って感じ、伝わってくるよ」
•
その夜。
彼は美桜に、何気ないメッセージを送った。
「今日、すごく仕事が詰まってたんだけど、ちょっとした会話でふっと気が楽になった。……そっちは、何かあった?」
返信はしばらく来なかった。
(時差、か。……いや、もしかして)
•
その頃、美桜は厨房の片隅で、ある“ノート”を広げていた。
高校のとき、初めて作ったレシピ帳。
日本から持ってきたスーツケースの底にしまっていたそれを、ふと思い出して取り出したのだった。
ページの端には、まだ拙い文字でこう書かれていた。
「“おいしい”の中に、“好き”って言葉を混ぜたい」
あの頃の私は、まだ何者でもなかった。
でも、料理を作ることで“誰かの気持ち”に触れられると信じていた。
(今の私は、どうだろう)
美桜はそっと、厨房に置かれていた白い皿を手に取った。
そして、今の自分なら作れる“あの頃の味”を再現しようと思った。
目の前に誰もいなくても。
言葉にできなくても。
料理の中に、“伝えたい”という想いを込められる気がした。
彼に会いたくて、寂しくて、
でも、それを原動力に変えて。
(私、きっともっと強くなれる)
•
その夜遅く。
彼のもとに写真が届いた。
「今日、懐かしいレシピを作ってみたの。“おいしい”に、“好き”を混ぜるって昔の私が書いてて、ちょっと笑っちゃった」
「でも今は、その意味が少しだけ分かる気がする。君がいてくれるから、私は“今”を前に進める」
画面を見つめた彼は、深く息を吸い込んでスマホを握った。
(距離を言い訳にしちゃだめだな)
•
そのあと、彼はメッセージを打った。
「今日、ある先輩に言われたんだ。“信じてるって伝わってくる”って。それ、君のおかげだよ」
「だから俺も、言葉だけじゃなく、ちゃんと形にする。待ってるだけじゃなくて、俺も動くから。君の“帰る場所”になれるように」
•
遠く離れているふたりが、
まったく違う時間の中で、
同じように“次の自分”を見つけようとしていた。
日曜日の夕方。
美桜は、地元の市場で買ったリンゴをかごに入れ、寮の台所でアップルタルトを焼いていた。
甘い香りが立ちのぼるなか、思い出すのは、
高校生のとき、彼と初めて一緒に作ったお菓子のことだった。
あの頃は何も分からなくて、笑ってばかりで、
でもただ「一緒にいたい」という気持ちだけは本物だった。
(今も、同じだよ)
手元の生地を成形しながら、美桜はふとスマホを手に取った。
時差を気にして、連絡の頻度は少し減った。
だけど、心が遠のいたわけではない。
画面には、前夜届いた彼からのメッセージが表示されていた。
「夢を叶えるって、ひとりじゃできないことばっかりだなって思った。だから今は、君がいることを“強さ”に変えていきたい。俺もがんばるから、君も自分を信じて」
•
一方、日本の彼は、
会社の階段をゆっくり降りながら、深く空を仰いでいた。
小さな星が瞬く空。
冬の名残を残した風が、ネクタイの隙間を通り抜ける。
スマホには、美桜からの写真。
――りんごのタルト。
そして短い一言。
「次に会えたら、一緒に食べようね」
たったそれだけで、胸がいっぱいになる。
(帰ってくるんだ、この子は。
迷っても、揺れても、ちゃんと私たちの場所に)
彼はスマホを胸に当てて、そっと目を閉じた。
•
画面の向こうにいても、
言葉のすれ違いがあっても、
見ている夢が重なっていれば、
ふたりは何度でも“同じ気持ち”にたどりつける。
それが、恋の終わりではない証。
むしろ――
恋が“終わらずに続いていく”ための選択だった。
•
そしてふたりは、それぞれの部屋で眠りにつく。
遠く離れていても、
“いつか”が同じ方向にあることを信じながら。
明日も、自分の足で。
そして、必ずもう一度、手を取り合うために。