すれ違いは、風の中に
「……え?わたしが?」
美桜は、先生の言葉を聞き返していた。
「うん。来月の学内コンペ。君、厨房担当の一人に選ばれたから」
予想していなかった名前の呼ばれ方に、
教室内の空気が少しだけざわつくのが分かった。
「……私で、大丈夫なんでしょうか」
「何が大丈夫じゃないの?選ばれた理由、分かってる?君のプレート、綺麗だったよ。特に最後の盛りつけ、ちゃんと見てた」
その言葉は嬉しくて、でも同じくらい、重たかった。
(選ばれたってことは、期待されてるってこと。期待されるってことは、失敗が許されなくなるってこと)
•
放課後、帰りの電車の中。
スマホの画面を開いては閉じる。
彼に報告するべきか、迷っていた。
喜んでくれるのは分かってる。
でも、その明るい声を聞いたら、
たぶん自分は「怖い」と言えなくなる。
•
そのころ、彼は出張先のホテルにチェックインを終えたばかりだった。
慣れないスーツに少し疲れながら、ロビーでひと息ついていた。
「……あれ、もしかして、日野くん?」
声をかけられて振り向くと、そこにはかつての高校の同級生――香坂七瀬がいた。
「香坂……?うわ、久しぶり」
「ほんとに。何年ぶりだろ。社会人っぽくなったね」
「そっちこそ……ていうか、なんでここに?」
「転勤で。今、このビルの中の部署にいるんだ。まさかこんなとこで会うとはね。運命?」
冗談まじりの言葉に、彼は苦笑いした。
七瀬は、高校時代に“噂になったことがある”相手だった。
本当に付き合っていたわけではない。
でも、あの頃の無邪気な好意を、美桜に伝えたことはなかった。
•
その夜。
彼はホテルのベッドに横になりながら、美桜のトーク画面を開いた。
「今日、ちょっとした再会があったよ。高校の知り合いに偶然」
何気ない報告。
でも送ったあと、胸に少しだけざらつく感触が残った。
(――なんで、いまの俺は、美桜に“誰と”って言えなかったんだろう)
•
一方、美桜もまた、メッセージを書いては消していた。
「今日、実習で選ばれた。うれしいけど、正直、怖い」
その文面は、送信ボタンを押す前に消えた。
彼に“弱さ”を見せたくなかったわけじゃない。
ただ、今の彼の世界に、自分の不安が“余計なもの”になりそうで、怖かった。
•
夜は更けて、
スマホに通知は来ないまま、ふたりは眠りについた。
ほんの少し前まで、
すぐに届いていた「おやすみ」の言葉が、
今日だけは、静かに欠けていた。
心配も、不安も、言葉にしなければ伝わらない。
でも言葉にしないことで、壊さずに済む何かがある気もした。
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すれ違いの風は、まだ小さい。
けれど、その存在は確かに――ふたりの背中を、そっと押し始めていた。
翌朝。
目覚ましの音とともに、美桜はスマホを手に取った。
画面には、彼からの未読メッセージが一件。
「今日、ちょっとした再会があったよ。高校の知り合いに偶然」
たったそれだけの文章。
名前も、詳しい話もない。
でも“なんとなく”引っかかる自分がいた。
(……誰と?)
聞けばいい。
聞けばいいだけのこと。
だけど、それが“嫉妬”に聞こえてしまうのが怖かった。
彼の世界を信じていたい。
だけど、今の自分の心は、それほど強くなかった。
•
学校へ向かう電車の中、
美桜はぼんやりと窓の外を眺めていた。
昨日の知らせ――コンペの選抜。
本当はすぐにでも彼に伝えたかった。
でも、あの短いメッセージの向こうにある“再会”の存在が、
どうしても心を重くさせていた。
(彼の中の“過去”って、どんな人だったんだろう)
考えても仕方ない。
そう思いながら、また考えてしまう。
•
そのころ、彼は出張先のビルで資料を確認していた。
上司から頼まれた仕事は順調に進んでいるはずなのに、
スマホの通知を確認してしまう自分がいた。
美桜からの返信は、なかった。
(……あの程度のメッセージじゃ、引っかかるよな)
なぜ、名前を伏せたのか。
自分でも分かっていた。
“七瀬”という名前が、美桜の中に残っていることを。
高校時代、よく噂された。
けれど実際には、付き合っていたわけではない。
ただ、周囲の視線がそう仕立て上げただけだった。
(今さら、関係ない――って、言い切れるのか)
考えれば考えるほど、メッセージを送る勇気が萎えていった。
•
夜。
ふたりは、それぞれの部屋でスマホを手にしていた。
指を動かしては、文面を消す。
打っては、送れずに閉じる。
言葉が足りないまま、
静かに“間”だけが伸びていく。
「どうしてこんなに、難しくなっちゃったんだろう」
美桜はつぶやく。
好きなのに。
想っているのに。
なのに、“そのまま”が届かなくなっている。
•
そんなとき、スマホが鳴った。
彼からの着信。
少し迷ってから、美桜は応答ボタンを押した。
「……もしもし」
「美桜。今、大丈夫?」
「うん。ちょうど、君のこと考えてた」
「俺も。……ちょっとだけ、話してもいい?」
「うん。いいよ」
•
ふたりは、何を話すでもなく、
お互いの“今日”をぽつりぽつりと語り合った。
高校の知り合い――という名前は出なかった。
選抜に選ばれた話も、口にできなかった。
でも、通話を終えたあと、
美桜は少しだけ泣きそうになった。
(ちゃんと話したいのに、ちゃんと話せない)
けれど――それでも。
画面の向こうの声は、確かに美桜を思っていた。
それだけは、信じていた。
•
ほんのわずかなすれ違いは、
言葉にしなければ、そのまま心に積もっていく。
でも、まだ間に合う。
ふたりはまだ、“言葉を交わしたい”と願っている。
すれ違いの風の中で、
ふたりはまだ、手を伸ばしていた。
通話を終えたあとも、
美桜はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
優しい声だった。
いつもと変わらないテンポで、
「おやすみ」と言ってくれた。
それなのに、心の奥はざわざわと騒がしかった。
(……ほんとは、言いたいことあったのに)
今日あったこと、選ばれたこと。
嬉しさも不安も、彼になら伝えたかったはずだった。
だけど――
あの“再会”のことを、彼が曖昧にしたままだったのが、
なぜか言葉の喉元を塞いでしまっていた。
(どうして名前を出さなかったんだろう)
嫉妬したくなんてない。
疑いたくなんてない。
でも、“ほんの少しだけ”知っていたい。
だって私は――
•
その夜遅く。
彼から再び、メッセージが届いた。
「さっき、言いそびれたことがある」
「今日会ったのは、七瀬っていう高校の同級生だった。当時少しだけ噂になった子。付き合ってたわけじゃないけど、あの頃のこと、美桜が知ってたら、ちょっと気になったかもしれないと思って」
「ごめん。最初からちゃんと名前を出せばよかったよね。隠したかったわけじゃない。ただ、君に“心配させるようなこと”はしたくなかったんだ」
•
そのメッセージを見た瞬間、
胸の奥に詰まっていた何かが、すっと解けた。
(ああ、ちゃんと伝えてくれた)
“知らない”ことより、“隠されてる”かもしれないという疑いのほうが、
何倍も不安になることを、
彼はきっと、分かってくれていた。
•
美桜は、返事を打った。
「言ってくれて、ありがとう。ちょっとだけ、ひっかかってたけど……今はもう、大丈夫だよ」
「私も、話したいことがあるの」
「実は、学校で実習コンペのメンバーに選ばれたの。
うれしいけど、すごくプレッシャーもあって……言おうと思ったけど、言えなかった。君に、“弱い自分”見せたくなかったのかもしれない」
「でも今は、やっぱり君に伝えたくて。信じてくれて、ありがとう」
•
スマホの画面にはすぐ既読がつき、
彼から通話がかかってきた。
「――ごめん、やっぱり声で伝えたくなった」
「……私も。声、聞きたかった」
•
その夜、ふたりは深く語り合った。
不安だったこと、
迷っていたこと、
なぜ言葉にできなかったか。
全部、全部。
好きって、
ただ「分かってるよ」と言い合うことじゃない。
分からなくなった時に、
それでも話そうとすることなんだと思えた。
•
通話を終えたあと、
彼は静かに微笑んだ。
“恋の終わり”を、
何度も想像したことがあった。
でも今なら、はっきり分かる。
こうやって言葉を交わし続ける限り――
それは終わりじゃなく、“続いていく”ということだ。
•
夜の風が、
ひとつ季節を進める音を立てていた。
すれ違いの風は、今やただの通り雨。
ふたりはまた、並んで歩き始めていた。
朝の光がカーテン越しに差し込み、
美桜はすっきりと目を覚ました。
昨日の夜、彼と話したあと。
不思議と心が落ち着いて、ぐっすり眠れた。
(伝えてよかった)
胸の奥で、ほんのりとしたあたたかさが残っている。
不安だった。
でも、ちゃんと伝えて、ちゃんと受け止めてもらえた。
それだけで、自分の中の何かが確かに変わった気がした。
•
登校すると、調理実習室にはすでに何人かの選抜メンバーが集まっていた。
エプロンを結びながら、美桜は深呼吸をする。
(大丈夫。私は私の手で、ここに来たんだ)
先生が近づいてきて、声をかけた。
「おはよう、美桜さん。昨日よりずっと顔つきがいいね」
「……ありがとうございます。ちょっとだけ、覚悟できました」
先生は微笑んで、調理台を指差した。
「じゃあ、やってみようか。自分の味を信じてごらん」
•
そのころ、彼もまた新しい職場での打ち合わせに向かっていた。
七瀬の姿は、エレベーターホールにあった。
「あ、また会ったね」
「偶然って続くもんなんだな」
七瀬はにこりと笑った。
「ねえ、ひとつだけ聞いていい?」
「ん?」
「高校のとき、あんたの隣にいた子――たしか、美桜って名前だったよね。……今でも、あの子のこと好きなんでしょ?」
彼は、少しだけ驚いた顔で頷いた。
「うん。変わらず、ずっと」
「そっか。……なら、変な期待しなくて済む。今度また、仕事で会うこともあると思うけど、安心して。私はもう、そういう目では見ないから」
冗談めかして言われたその言葉に、彼はほっとしながら返した。
「ありがとう。……それでも、正直に言ってくれてよかった」
•
昼休み、美桜のスマホにメッセージが届いた。
「今朝、もう一度七瀬に会った。ちゃんと気持ちを伝えてきたよ。美桜がいるから、俺は今の場所に立ててるって、胸張って言えた」
「君の存在が、俺にとっての背中を押してくれてるんだなって思った」
その文字を見た瞬間、思わず涙がこぼれそうになった。
(“信じる”って、きっとこういうことなんだ)
•
放課後。
美桜はコンペの試作で一皿を仕上げた。
白い皿の中央に置かれたメインディッシュ。
見た目はまだ粗削りだけど、そこには確かな“意思”が宿っていた。
先生が一口食べて、うなずいた。
「まだまだこれからだけど、方向性は悪くない。いいじゃない、美桜さん。今日の皿には“迷い”がないよ」
「……ありがとうございます。自分でも、そう思えました」
そう。
今日の皿には、昨日の“言葉”が詰まっていた。
“伝える”って、ただ想いを届けることじゃない。
自分を信じて、未来を信じて、
ひとつの形にして差し出すこと。
それを、彼とふたりで重ねてきた今なら、分かる。
•
夕暮れ。
ふたりはまた、短い通話を交わした。
今日のことを報告し合い、
ほんの少しだけ未来の話をして、
「おやすみ」の代わりにこう言った。
「明日も、がんばろうね。自分の場所で」
「うん。君がいてくれるから、頑張れる」
•
それぞれの場所で、それぞれの道を歩いていく。
でも、その先に“ふたりでいる未来”を描いている。
恋が少しずつ“強さ”に変わっていくこと。
それは、終わらない想いの新しい形だった。
コンペ当日。
実習室には、緊張と熱気が張りつめていた。
美桜は白衣に袖を通し、深く呼吸を整える。
(大丈夫。私はちゃんと、ここに立ってる)
目の前の食材、調理器具、静かな心音。
すべてが、“今”に集中するための音になっていた。
•
限られた時間のなかで、工程を進めていく。
頭の中は静かだった。
失敗を恐れる暇も、迷っている余裕もなかった。
ただ、目指すひと皿に向かって、手を動かし続けた。
そして――
「完成です」
差し出したプレートには、
今の自分にできるすべてが込められていた。
•
審査が終わったあと、講評が読み上げられる。
「全体的に完成度が高かったです。特に美桜さんの皿は、シンプルな構成のなかに、“誰かに食べてほしい”という想いが感じられました。技術以上に、その“真っ直ぐさ”が伝わってきました」
拍手の中で、美桜は深く頭を下げた。
(伝わったんだ。私の料理が、ちゃんと)
その瞬間、胸の奥でなにかがほどけて、涙がにじみそうになった。
•
帰り道。
スマホを開くと、彼からのメッセージが届いていた。
「今日で出張終わり。今、帰りの新幹線」
「次に会ったときは、ちゃんと“お疲れさま”って言いたいな。君の頑張り、ちゃんと聞かせてね」
思わず笑みがこぼれる。
彼も、彼の場所でちゃんと戦っていた。
だから、自分も――弱音じゃなく、結果を持って報告したいと思えた。
美桜はメッセージを返す。
「私も今日、やりきったよ。結果はどうあれ、悔いはない。……君に会って、直接そう言えるのが楽しみ」
•
その夜、ふたりは久しぶりに通話ではなく、
静かに文字を送り合っていた。
言葉のテンポはゆっくりで、
でも画面越しの温度は、はっきりと伝わってくる。
未来のこと。
また次に会う日のこと。
そして――今、ここまで続けてきた“恋のこと”。
•
「終わらなかったね、私たち」
ふと、そんな言葉が心に浮かぶ。
あの頃、終わったと思っていた恋。
壊れたと思っていた気持ち。
でも今は、ちゃんと“続いて”いる。
すれ違いも、不安も、言葉にすれば越えていける。
手を伸ばせば、届く場所にいる。
そう思える今が、何よりも幸せだった。