ふたりで進むための、迷いと決意と
冬の匂いが、ほんの少しだけ街に混じり始めていた。
美桜は、専門学校の実習室で立ちすくんでいた。
「――すみません、美桜さん、盛りつけもう一度確認してくれる?」
「あ……はいっ、すみません……」
慣れない手つきで皿を直しながら、
指先にじっとりと汗が滲んでいた。
(焦らないで、大丈夫、できる……)
そう言い聞かせても、空回りする手と心。
周りの生徒たちが、当たり前のようにこなしていく作業に、
自分だけが置いていかれている気がした。
「……私は、ちゃんとここにいていいのかな」
小さくつぶやいた声は、
換気扇の音にかき消された。
•
その夜。
彼と通話をするか迷って、結局メッセージだけを送った。
「今日、ちょっとだけ凹んだ……また話せたら、嬉しいな」
数分後に既読がつき、すぐに返信が届く。
「いま通話できるよ。声聞きたい」
画面越しの彼の声は、相変わらず穏やかで、
でもどこか“自分のことでいっぱい”な雰囲気が混じっていた。
•
「美桜、今度、会社の人に呼ばれてるんだ。新しいチームに誘われててさ。もし決まったら、出張とかも増えるかも」
「……出張?」
「うん。でも、やりがいありそうなんだ。
いまのままじゃ、たぶんダメだって思ってたし」
「……そっか。すごいね。……よかった」
そう言いながら、どこか胸がざわついた。
彼はちゃんと進んでいる。
自分も進みたかったはずなのに、
今日の実習ひとつで、こんなにも自信を失っている自分がいた。
(“恋人”でいることって、どういうことだろう)
支え合うって、
励まし合うって――言葉でいうほど、簡単じゃない。
•
通話を終えたあと、しばらく天井を見つめていた。
気づけば、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さっている。
(……会いたい)
理由なんていらなかった。
ただ顔を見て、話したい。
何でもない話で笑いたい。
それだけで、明日を信じられる気がする。
•
次の日。
彼から、メッセージが届いた。
「週末、君の家の近くまで行く用事ができた。少しでも会えるなら、顔見せたいなって思ってる」
「少しじゃなくて、ずっといてほしいくらいなんだけど、って言ったら重い?」
その言葉に、美桜は涙がこぼれそうになるのをこらえた。
まだ、何も言えていないのに。
彼は、ちゃんと見てくれていた。
自信も、未来も、まだ確かじゃないけど――
その隣にいるためなら、何度でも立ち上がれる気がした。
•
ふたりの歩幅は、まだ揃わないかもしれない。
それでも、
「同じ方向を見ていたい」と願う気持ちだけは、
確かにひとつだった。
週末の午後。
冬の気配が濃くなった街に、あたたかい光が差していた。
待ち合わせ場所に現れた彼は、手にコンビニのコーヒーを持っていた。
「はい、ブラックじゃない方。ちゃんと覚えてるから」
「ありがとう……」
自然に受け取ったカップはほんのりあたたかくて、
少し遅れて、美桜の心もほぐれていった。
ふたりは静かに並んで、近くの公園のベンチに座った。
目の前の池には、風に揺れる木々が映っていた。
•
「学校、どう?」
「……正直、ちょっとだけ落ち込んでる」
「そっか」
「うまくできないことばかりで、自信なくなっちゃって。みんなスムーズにやってるのに、私だけ時間かかってて……」
言葉にしてしまえば、思った以上に情けなくて、苦しくなった。
でも彼は、それを笑ったりしなかった。
「俺さ、前に君に“頑張ってる姿がかっこいい”って言ったけど……ほんとにそう思ってるよ。うまくできてないって思ってるときも、その中で諦めないのが、美桜らしいって思う」
「……ほんとに?」
「うん。俺なんて、出張に行くのすらビビってるし。
大丈夫かなって、毎日ちょっとずつ焦ってるよ」
「え、そうなの?」
「うん。見た目だけ落ち着いてる風だけど、中身はぐるぐる。でも君が頑張ってるから、俺も頑張ろうって思えるんだ」
•
ふたりは、顔を見合わせて、自然に笑った。
強くあらなきゃって思っていた。
励まし合わなきゃって思っていた。
でも、そうじゃなくて――
弱さを見せ合えることも、
大切な“支え”の形なのだと、今なら分かる。
•
「ねえ、これから先さ」
「うん?」
「もしどっちかが迷ったり、立ち止まったりしても……
ちゃんと話して、ちゃんと向き合っていけたらいいなって思うの」
「……うん、俺もそう思う」
「ちゃんと“ふたりでいる”って、そういうことだよね」
彼は頷いて、そっと美桜の頭を撫でた。
「“ふたりで”って、きっとこれからも、ずっと手探りなんだろうけど。でも、そのたびに思い出せる気がする。こうやって並んで話してる時間が、俺たちの原点なんだって」
美桜は、コーヒーの残りを一口飲んで、
少しだけ潤んだ目で彼の顔を見た。
「……ありがとう。やっぱり、会えてよかった」
「俺も」
•
夕暮れの中、影が長く伸びていた。
でもふたりは、もう“すれ違い”の中ではなく、
ちゃんと“同じ影”の中にいた。
どこまでいけるかなんて、まだ分からない。
だけど、もう一度こうして、
心を重ね直すことができた。
恋の続きが、またここから始まる気がしていた。
駅までの帰り道。
通りに並ぶ街灯が、ふたりの影を細長く照らしていた。
寒さが、少しずつ本格的になってきた。
彼がそっと差し出してくれたマフラーに、美桜は首を埋める。
「……あったかい」
「俺の体温が移ってるからな。たぶん、ちょっとだけ」
「なんかそれ、キモいよ」
「え、ひどくない?」
ふたりで笑った。
たわいもない冗談が、
こんなに救いになる日があるなんて、少し前までは思っていなかった。
•
改札の前まで来て、足を止める。
「ほんとは……もう少し、話していたかったな」
「俺も。
でも、今日会えたから、また明日から頑張れる気がする」
「……うん、私も」
言葉はそれだけだった。
でも、目を見れば、それ以上のことがすべて伝わってくる。
•
改札に入ろうとしたとき、
彼がふいに、美桜の手をとった。
「待って」
「……え?」
彼は一瞬迷ったように視線を落として、それから真っ直ぐに言った。
「この前言えなかったことがある。たぶん、もっと前から伝えなきゃいけなかったこと」
「……なに?」
「俺、ちゃんと君と“未来”の話がしたいと思ってる」
「未来……?」
「今すぐってわけじゃない。でも、この先もずっと“恋人”でいるだけじゃなくて……もっとちゃんと、“人生の中で君を考えたい”って思ってる」
美桜は驚いて言葉を失った。
でも、胸の奥が、
ゆっくりとあたたかくほどけていくのを感じた。
「……うん。まだ、そんなに強くはなれないかもしれないけど。私も、君といたいって、思ってるよ。これからも」
•
改札の向こう側。
ドアが閉まりかける直前まで、彼の姿を見つめていた。
(未来って言葉が、こわいものじゃなくなる日が、
こんなに早く来るなんて)
そんな風に思えた自分に、少しだけ驚いていた。
•
帰宅後、美桜は小さな手帳を開く。
空白のページに、今日のことをそっと書きつける。
今日は、彼と話せた。
ちゃんと笑い合えて、少し泣きそうになって、
そして――少しだけ、未来が見えた。
ページを閉じる手が、震えていた。
それは、寒さのせいじゃない。
誰かと一緒に“これから”を想像することが、
ようやく少しずつ、自分の中に根づいてきたからだった。
月曜日。
美桜は早めに登校し、実習室のカウンターに立っていた。
あの週末の再会が、
不思議なほど心に柔らかい余韻を残していた。
緊張や不安が完全に消えたわけじゃない。
でも、今日の手元は少しだけ軽い。
(ちゃんとやろう。できるかどうかじゃなくて、
“やりたい”って気持ちを、大事にしたい)
そう思えるようになったのは、
誰かに励まされたからではなく、
“話せた”からだった。
想いを伝えて、想いを受け取った。
その実感が、美桜を前に進ませていた。
•
午後。
休憩中、スマホを開くと彼からのメッセージが届いていた。
「出張、正式に決まったよ。来月から何度か県外行くかも。
でも、美桜にだけはちゃんと話しておきたかった」
「君の隣にいるために、俺も変わっていくから」
小さな画面に並ぶ言葉が、
まるで手を差し伸べてくれるようで、胸がじんわりと熱くなった。
(未来はまだぼやけてるけど――)
その先を、一緒に見ようとしてくれている人がいる。
そう思えるだけで、頑張れる気がした。
•
夜、美桜は机に向かって実習レポートを書いていた。
“自分はなぜこの道を選んだのか”という課題に、
何度も言葉を迷いながら、それでもページを埋めていく。
そして、ふと手が止まり、こう書き加えた。
「私は誰かの心に、温度を残せる人になりたい。
それは、あの人が私にしてくれたことだから」
書き終えて、手帳を閉じた。
自分の夢は、まだ小さくて、
まだ拙い言葉でしか言い表せない。
でも、ちゃんと“自分のことば”になっていた。
•
その夜、ふたりは短い通話を交わした。
「お互い、大変なときはちゃんと無理しないこと」
「うん。でも、無理したくなるくらいの夢だから、がんばるよ」
「そういうとこが好きなんだよね」
笑い合って、電話を切る。
画面が暗くなったあとも、心にはあたたかい余韻が残っていた。
•
恋が始まったときの気持ちは、
もう同じ形では存在しないかもしれない。
けれど今は――
“続けたい”と願う心が、ちゃんとここにある。
それこそが、ふたりの恋の続きの証だった。