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14/21

ふたりで進むための、迷いと決意と

冬の匂いが、ほんの少しだけ街に混じり始めていた。


美桜は、専門学校の実習室で立ちすくんでいた。


「――すみません、美桜さん、盛りつけもう一度確認してくれる?」


「あ……はいっ、すみません……」


慣れない手つきで皿を直しながら、

指先にじっとりと汗が滲んでいた。


(焦らないで、大丈夫、できる……)


そう言い聞かせても、空回りする手と心。


周りの生徒たちが、当たり前のようにこなしていく作業に、

自分だけが置いていかれている気がした。


「……私は、ちゃんとここにいていいのかな」


小さくつぶやいた声は、

換気扇の音にかき消された。


その夜。

彼と通話をするか迷って、結局メッセージだけを送った。


「今日、ちょっとだけ凹んだ……また話せたら、嬉しいな」


数分後に既読がつき、すぐに返信が届く。


「いま通話できるよ。声聞きたい」


画面越しの彼の声は、相変わらず穏やかで、

でもどこか“自分のことでいっぱい”な雰囲気が混じっていた。


「美桜、今度、会社の人に呼ばれてるんだ。新しいチームに誘われててさ。もし決まったら、出張とかも増えるかも」


「……出張?」


「うん。でも、やりがいありそうなんだ。

いまのままじゃ、たぶんダメだって思ってたし」


「……そっか。すごいね。……よかった」


そう言いながら、どこか胸がざわついた。


彼はちゃんと進んでいる。

自分も進みたかったはずなのに、

今日の実習ひとつで、こんなにも自信を失っている自分がいた。


(“恋人”でいることって、どういうことだろう)


支え合うって、

励まし合うって――言葉でいうほど、簡単じゃない。


通話を終えたあと、しばらく天井を見つめていた。


気づけば、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さっている。


(……会いたい)


理由なんていらなかった。


ただ顔を見て、話したい。

何でもない話で笑いたい。

それだけで、明日を信じられる気がする。


次の日。

彼から、メッセージが届いた。


「週末、君の家の近くまで行く用事ができた。少しでも会えるなら、顔見せたいなって思ってる」


「少しじゃなくて、ずっといてほしいくらいなんだけど、って言ったら重い?」


その言葉に、美桜は涙がこぼれそうになるのをこらえた。


まだ、何も言えていないのに。

彼は、ちゃんと見てくれていた。


自信も、未来も、まだ確かじゃないけど――

その隣にいるためなら、何度でも立ち上がれる気がした。


ふたりの歩幅は、まだ揃わないかもしれない。

それでも、

「同じ方向を見ていたい」と願う気持ちだけは、

確かにひとつだった。


週末の午後。

冬の気配が濃くなった街に、あたたかい光が差していた。


待ち合わせ場所に現れた彼は、手にコンビニのコーヒーを持っていた。


「はい、ブラックじゃない方。ちゃんと覚えてるから」


「ありがとう……」


自然に受け取ったカップはほんのりあたたかくて、

少し遅れて、美桜の心もほぐれていった。


ふたりは静かに並んで、近くの公園のベンチに座った。

目の前の池には、風に揺れる木々が映っていた。


「学校、どう?」


「……正直、ちょっとだけ落ち込んでる」


「そっか」


「うまくできないことばかりで、自信なくなっちゃって。みんなスムーズにやってるのに、私だけ時間かかってて……」


言葉にしてしまえば、思った以上に情けなくて、苦しくなった。


でも彼は、それを笑ったりしなかった。


「俺さ、前に君に“頑張ってる姿がかっこいい”って言ったけど……ほんとにそう思ってるよ。うまくできてないって思ってるときも、その中で諦めないのが、美桜らしいって思う」


「……ほんとに?」


「うん。俺なんて、出張に行くのすらビビってるし。

大丈夫かなって、毎日ちょっとずつ焦ってるよ」


「え、そうなの?」


「うん。見た目だけ落ち着いてる風だけど、中身はぐるぐる。でも君が頑張ってるから、俺も頑張ろうって思えるんだ」


ふたりは、顔を見合わせて、自然に笑った。


強くあらなきゃって思っていた。

励まし合わなきゃって思っていた。

でも、そうじゃなくて――


弱さを見せ合えることも、

大切な“支え”の形なのだと、今なら分かる。


「ねえ、これから先さ」


「うん?」


「もしどっちかが迷ったり、立ち止まったりしても……

ちゃんと話して、ちゃんと向き合っていけたらいいなって思うの」


「……うん、俺もそう思う」


「ちゃんと“ふたりでいる”って、そういうことだよね」


彼は頷いて、そっと美桜の頭を撫でた。


「“ふたりで”って、きっとこれからも、ずっと手探りなんだろうけど。でも、そのたびに思い出せる気がする。こうやって並んで話してる時間が、俺たちの原点なんだって」


美桜は、コーヒーの残りを一口飲んで、

少しだけ潤んだ目で彼の顔を見た。


「……ありがとう。やっぱり、会えてよかった」


「俺も」


夕暮れの中、影が長く伸びていた。

でもふたりは、もう“すれ違い”の中ではなく、

ちゃんと“同じ影”の中にいた。


どこまでいけるかなんて、まだ分からない。

だけど、もう一度こうして、

心を重ね直すことができた。


恋の続きが、またここから始まる気がしていた。


駅までの帰り道。

通りに並ぶ街灯が、ふたりの影を細長く照らしていた。


寒さが、少しずつ本格的になってきた。

彼がそっと差し出してくれたマフラーに、美桜は首を埋める。


「……あったかい」


「俺の体温が移ってるからな。たぶん、ちょっとだけ」


「なんかそれ、キモいよ」


「え、ひどくない?」


ふたりで笑った。


たわいもない冗談が、

こんなに救いになる日があるなんて、少し前までは思っていなかった。


改札の前まで来て、足を止める。


「ほんとは……もう少し、話していたかったな」


「俺も。

でも、今日会えたから、また明日から頑張れる気がする」


「……うん、私も」


言葉はそれだけだった。

でも、目を見れば、それ以上のことがすべて伝わってくる。


改札に入ろうとしたとき、

彼がふいに、美桜の手をとった。


「待って」


「……え?」


彼は一瞬迷ったように視線を落として、それから真っ直ぐに言った。


「この前言えなかったことがある。たぶん、もっと前から伝えなきゃいけなかったこと」


「……なに?」


「俺、ちゃんと君と“未来”の話がしたいと思ってる」


「未来……?」


「今すぐってわけじゃない。でも、この先もずっと“恋人”でいるだけじゃなくて……もっとちゃんと、“人生の中で君を考えたい”って思ってる」


美桜は驚いて言葉を失った。


でも、胸の奥が、

ゆっくりとあたたかくほどけていくのを感じた。


「……うん。まだ、そんなに強くはなれないかもしれないけど。私も、君といたいって、思ってるよ。これからも」


改札の向こう側。

ドアが閉まりかける直前まで、彼の姿を見つめていた。


(未来って言葉が、こわいものじゃなくなる日が、

こんなに早く来るなんて)


そんな風に思えた自分に、少しだけ驚いていた。


帰宅後、美桜は小さな手帳を開く。

空白のページに、今日のことをそっと書きつける。


今日は、彼と話せた。

ちゃんと笑い合えて、少し泣きそうになって、

そして――少しだけ、未来が見えた。


ページを閉じる手が、震えていた。


それは、寒さのせいじゃない。

誰かと一緒に“これから”を想像することが、

ようやく少しずつ、自分の中に根づいてきたからだった。


月曜日。

美桜は早めに登校し、実習室のカウンターに立っていた。


あの週末の再会が、

不思議なほど心に柔らかい余韻を残していた。


緊張や不安が完全に消えたわけじゃない。

でも、今日の手元は少しだけ軽い。


(ちゃんとやろう。できるかどうかじゃなくて、

“やりたい”って気持ちを、大事にしたい)


そう思えるようになったのは、

誰かに励まされたからではなく、

“話せた”からだった。


想いを伝えて、想いを受け取った。

その実感が、美桜を前に進ませていた。


午後。

休憩中、スマホを開くと彼からのメッセージが届いていた。


「出張、正式に決まったよ。来月から何度か県外行くかも。

でも、美桜にだけはちゃんと話しておきたかった」


「君の隣にいるために、俺も変わっていくから」


小さな画面に並ぶ言葉が、

まるで手を差し伸べてくれるようで、胸がじんわりと熱くなった。


(未来はまだぼやけてるけど――)


その先を、一緒に見ようとしてくれている人がいる。

そう思えるだけで、頑張れる気がした。


夜、美桜は机に向かって実習レポートを書いていた。


“自分はなぜこの道を選んだのか”という課題に、

何度も言葉を迷いながら、それでもページを埋めていく。


そして、ふと手が止まり、こう書き加えた。


「私は誰かの心に、温度を残せる人になりたい。

それは、あの人が私にしてくれたことだから」


書き終えて、手帳を閉じた。


自分の夢は、まだ小さくて、

まだ拙い言葉でしか言い表せない。

でも、ちゃんと“自分のことば”になっていた。


その夜、ふたりは短い通話を交わした。


「お互い、大変なときはちゃんと無理しないこと」


「うん。でも、無理したくなるくらいの夢だから、がんばるよ」


「そういうとこが好きなんだよね」


笑い合って、電話を切る。


画面が暗くなったあとも、心にはあたたかい余韻が残っていた。


恋が始まったときの気持ちは、

もう同じ形では存在しないかもしれない。


けれど今は――

“続けたい”と願う心が、ちゃんとここにある。


それこそが、ふたりの恋の続きの証だった。

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