好きの形が、少し変わっていくなら
専門学校への通学が始まって、数週間が過ぎた。
美桜の毎日は、これまでとはすっかり様変わりしていた。
朝はバイト、午後からは授業、夜はレポートや課題に追われる日々。
スマホを見る時間も減った。
だけど、それが不思議と嫌じゃなかった。
「……疲れたけど、ちょっと楽しいかも」
自分の手で掴んだ道を歩いている。
そう思える感覚が、心の奥に小さな火を灯していた。
•
一方で、彼との連絡は、少しずつ“現実的”なものになっていった。
「今日は早く帰れそう。美桜はバイト?」
「レポート3本終わらせたら寝る……泣きたい」
「がんばれ、ヒロイン。俺は夜勤明けで爆睡予定」
前みたいに、甘くて不安定で、
まるで世界の全部がふたりだけだった頃とは違う。
今のふたりは、それぞれの場所で“未来”に向かっていた。
恋のかたちは、すこしずつ変わっていく。
でも、それはきっと悪いことじゃない――そう思いたかった。
•
そんなある日。
授業終わりの校舎前で、美桜は偶然ある人物に声をかけられた。
「……あれ? 美桜?」
振り返ると、そこには見覚えのある顔――日向航太の姿があった。
「ひ、日向くん!? え、どうしてここに?」
「実は、ここの調理科の講師やってる先輩に誘われてさ。今、週イチで外部サポートみたいなことしてんの。偶然だなあ、まさか君がここに通ってたなんて」
どこか高校時代の面影を残しながらも、
雰囲気は以前より大人びていた。
•
その日から、たまに校舎ですれ違うことが増えた。
彼とは違う空気を持つ日向との会話は、
どこか心の隙間をすり抜けるように、軽やかだった。
「この前のプレゼン、堂々としてたな。意外だったよ」
「意外ってなによ……失礼な」
「でもまあ、いい意味で驚いた。ちゃんと“ここにいる顔”してた」
その一言に、美桜は少しだけ胸を突かれた。
(“ここにいる顔”……)
自分は、いま、ちゃんとここに立ててるのだろうか。
彼の隣にいるときも、同じように。
•
その夜。
久しぶりに彼から通話の着信があった。
「……元気してる?」
「うん、まあなんとか。ちょっと慣れてきたけど、まだ課題に追われてる感じ」
「そっか。……なんか、声が遠いな」
「え?」
「いや、気のせいかも。……でも、最近ちょっとだけ、寂しいなって思ってた」
画面の向こうの彼の声は、少しだけ沈んでいた。
美桜は、胸がきゅっとなるのを感じた。
自分だって寂しいのに。
でも、口にできなかった。
会えばすぐに解けると思ってた寂しさが、
少しずつ、形を変えて、心に積もっていくのを感じていた。
「好きだよ。ちゃんと」
やっと絞り出すように言ったその言葉に、
彼は少しだけ、静かに笑った。
「うん。俺も。でも、いまの君には、“頑張ってる美桜”を応援したい気持ちのほうが強いかも」
•
夜が深くなる。
手帳に何も書けないまま、
美桜はただ静かに、ページをめくった。
恋が終わらないように、
ただ“好き”を積み重ねていくだけでは、
もう足りないことがあるのかもしれない。
次に会うとき、
“恋人”としてではなく、
“ちゃんと支え合える存在”でありたい。
そう願って、美桜は目を閉じた。
その週末。
授業終わりの校舎のロビーで、美桜は再び日向とばったり出くわした。
「また会ったな。ていうか、最近よく会うよね」
「うん、偶然多すぎてちょっと怖い」
ふたりは笑い合いながら並んで歩き、
気づけば、駅前のカフェに入っていた。
(たまには、彼じゃない誰かに話してもいいよね)
自分にそう言い聞かせるようにして、
カップを指でなぞる。
•
「……最近、彼とうまくいってるの?」
唐突な問いだった。
でも、優しさのにじむ口調だったから、返すのを躊躇わなかった。
「……うん。まあ……多分、ね」
「“多分”ってとこが気になるな」
「お互い、やりたいことがあって。
連絡も減ったし……前みたいに甘えたり、
頼ったりが難しくなったなって、最近思ってる」
「そっか……」
「でも、ちゃんと好きなんだよ? それは変わってない。ただ……」
「“ただ”?」
「“このままでいいのかな”って、ふと思っちゃうことがあるの。彼の隣にいながら、私、ちゃんと役に立ててるのかなって……それが、すごく怖くなるときがあって」
言葉にしてしまった瞬間、胸の奥にしみ込んでいた不安が、少しだけあらわになった。
日向は少しだけ黙ってから、ゆっくり言った。
「そっか。……美桜って、そういうとこ、昔から変わってないよな」
「え?」
「誰かの“役に立ちたい”って、ずっと思ってて、でも、同じくらい“誰かに必要とされたい”って思ってる。……その優しさに助けられてた人、多分たくさんいたよ。俺も、そうだったし」
その言葉に、美桜は目を伏せた。
「ありがとう。……なんか、そう言ってもらえると、ちょっと泣きそう」
「泣いてもいいんじゃない?ここ、静かだし」
「バカ」
笑って、でもほんの少しだけ潤んだまま、
美桜はコーヒーを飲んだ。
•
帰り道、ふたりは駅前まで並んで歩いた。
「……もしさ。もし仮に、君がその人と別れたとしても」
「……うん?」
「俺はたぶん、君の味方でいると思う。
昔からそうだったし、今もきっと、これからも」
その言葉に、どきりと胸が鳴った。
返事はしなかった。
できなかった。
でも、美桜の心の奥には、
そのまっすぐな眼差しが、少しずつ染み込んでいくのを感じていた。
•
夜、自室。
彼からのメッセージは、今日はなかった。
でも、それを責める気にはなれなかった。
彼もまた、自分の場所で頑張っているのだ。
(……信じたい。疑いたくない)
なのに――ふとよぎる日向の言葉が、消えなかった。
「俺はたぶん、君の味方でいると思う」
彼じゃない誰かが、
こんなに近くにいてくれることが、
ほんの少し、怖かった。
好きという気持ちが、
形を変えていく予感。
それがいま、確かに胸の中で芽生えようとしていた。
夜、彼は自室のデスクに向かっていた。
勉強でも仕事でもなく、ただ、スマホの画面をぼんやりと見つめていた。
LINEの通知は、しばらく鳴っていない。
最後に美桜と通話したのは、もう一週間前。
(忙しいんだろうな)
そう思うようにしていた。
でも、それでも胸の奥に引っかかるものは消えなかった。
•
「……最近、美桜、少し変わった気がする」
そうつぶやいた声は、自分でも驚くほど寂しげだった。
返信が遅くなるのも、
既読がつかない時間が長くなるのも、
全部、理解しているつもりだった。
美桜は今、自分の夢のために前に進んでいる。
それは応援したい。
むしろ、誇らしいと思っている。
(でも、俺は――)
その成長の隣で、自分はどうなんだろう。
取り残されているような、
手が届かなくなりそうな気がして、息が詰まる。
•
スマホを握ったまま、ホーム画面に指を滑らせる。
ふと、ひとつの写真が目に留まった。
去年の春。
美桜と一緒に行った河川敷。
桜が満開で、ふたりで笑い合いながら撮った一枚。
その笑顔に、今の自分はちゃんと応えられているだろうか。
“恋”は、
ただ隣にいるだけじゃ続かないのかもしれない。
すれ違いも、沈黙も、
全部が「試されている」ような気がした。
•
その夜、思い切ってメッセージを送った。
「最近どう?ちゃんと食べてる?」
「今週末、もし少しでも空いてたら、会えたらいいな」
返事はすぐには来なかった。
でも、それでも送ってよかったと思えた。
離れても、迷っても、
この想いだけは伝え続けたい。
彼は静かに目を閉じ、
胸の奥で、祈るように言葉をつぶやいた。
「美桜が、迷わないでいられるように。その隣に、もう一度、ちゃんと立てますように」
そう願うことしか、
今はできないとしても。
スマホの通知が鳴ったのは、夜遅く。
レポートを書き終えたばかりの美桜は、
画面に浮かぶ彼の名前に、心臓が少しだけ跳ねた。
「最近どう? ちゃんと食べてる?」
「今週末、もし少しでも空いてたら、会えたらいいな」
たったそれだけの言葉が、胸に沁みた。
(……ごめん、ちゃんと、君を見ていなかった)
彼が不安になるくらい、
自分は“今”ばかりを見ていたのかもしれない。
“隣にいてくれる人”のことを、
どこかで当たり前にしていた。
でも本当は、
彼だって、迷いながらここにいてくれているのだ。
•
ベッドの上、うつ伏せになってスマホを握りしめる。
送信画面を開いて、指が止まった。
何を言えばいいのか分からなかった。
“好き”だけでは、もう足りないのかもしれないという予感が、
指先をためらわせる。
けれど、
その沈黙のままでは、何も変えられないともわかっていた。
深呼吸をひとつ。
そして、ようやく言葉を打ち込んだ。
「週末、大丈夫。少しだけど、会えるよ」
「ごめんね。ずっとちゃんと話せてなかった気がする」
「……私も、会いたいと思ってた」
ほんの短い言葉たち。
でもその一つひとつに、
こぼれ落ちそうな想いが詰まっていた。
送信ボタンを押すと、胸の奥がすこしだけ軽くなった。
(まだ、間に合う。
この気持ちが、終わってしまう前に)
•
週末に会う場所は、ふたりが以前よく歩いた商店街の外れ、
静かな川沿いのベンチに決まった。
彼との“日常”があった場所。
何でもない会話が、何よりも愛しかった時間。
そこに戻るのが、怖くもあり、でも――ほっとしている自分もいた。
•
窓の外では、秋の風がカーテンを揺らしていた。
少し前までは、“待つ”ことばかりだった。
でも今は、“向かう”ことができる。
どんな言葉を交わせばいいかは分からない。
それでも、手を伸ばす勇気だけは、まだ残っていた。
彼のために。
それ以上に、自分の“好き”を守るために。
週末の午後。
川沿いのベンチに、彼は先に座っていた。
赤茶けた落ち葉が道を埋め尽くし、
風が時折それを巻き上げていた。
美桜はゆっくりと歩いて近づく。
彼の背中は、あの日のまま――けれど、どこか遠く感じた。
「……ごめん、待った?」
振り向いた彼は、いつもと同じ穏やかな笑みを見せた。
「ううん、ちょうど。来てくれてありがとう」
•
ふたりは並んで腰を下ろした。
すぐ隣にいるのに、
しばらく言葉は交わされなかった。
川の流れの音。風のざわめき。
それらがふたりの間の空白を埋めていた。
「最近、どう?」
ようやく彼が口を開く。
「忙しいけど、少しずつ慣れてきたよ。自分で選んだことだから、後悔はしてない。……けど、正直……寂しいって思うこと、あった」
「……そっか」
彼はゆっくりと頷いた。
「俺も、同じだった。
美桜が頑張ってるのはちゃんと分かってる。
応援したいって、本気で思ってる。
でも、気づいたら“自分だけが立ち止まってる”気がしてさ」
「……そんなこと、ないよ」
「いや、俺も動かなきゃって思った。
君に恥ずかしくない自分でいたいし、
ちゃんと、君の未来に並べる人でいたい」
美桜は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
その言葉は、どこかでずっと自分が欲しかったもので、
そして同時に、自分自身にも言い聞かせてきたものだった。
•
彼は、ゆっくりと手を差し出した。
「また、手をつないでもいい?」
美桜は頷いた。
差し出されたその手に、そっと自分の手を重ねる。
指先は少し冷たくて、でもその温もりは、間違いなく懐かしいものだった。
「……また、ここから始めたい」
「うん、私も」
「前みたいじゃなくていい。今の俺たちで、もう一度、恋をしよう」
美桜は、彼の横顔を見つめて、静かに微笑んだ。
•
たとえ、すこし遠回りしても。
たとえ、“好き”の形が変わったとしても。
こうして心を重ねられるなら――
ふたりの恋は、
まだ、ちゃんと続いていける。
そんな確信が、そっと胸に灯った。
夕暮れの光が、川面にゆらゆらと反射していた。
ベンチに座るふたりの影は、長く伸びて、ひとつに重なっていた。
沈黙のあと、彼がぽつりと言った。
「昔みたいに、“全部わかり合える”って信じてた部分があったんだよね。でも、今はちょっと違う」
「……うん、私も」
「でもそれって、悪いことじゃないんだって思う。
君が君の道を進んでるのを見るのは、すごく誇らしい。だから、俺も変わらなきゃって思えた」
「私も、怖がってた。自分だけが遠くに行っちゃってるんじゃないかって……でも、君が“隣にいるつもりでいる”って言ってくれて、ようやく、自分の歩幅で歩いていいんだって思えた」
ふたりはゆっくりと顔を見合わせる。
言葉の奥にあったのは、不安でも過去でもなく、
“いま”の気持ちだった。
彼は小さく笑った。
「これからも、きっとすれ違うことはあると思う。
でも、そのたびにちゃんと話して、お互いに“今の気持ち”を届け合えるふたりでいたい」
「……うん。うれしい」
•
帰り道。
駅までの道を、ふたりは静かに歩いた。
言葉は少なくても、
手を繋いだその温度がすべてを伝えていた。
ホームに電車が入ってくる音が響く。
「じゃあ、またね」
「うん。……また、すぐに」
美桜が電車に乗り込む直前、彼が言った。
「美桜」
「……なに?」
「“恋の終わり”が怖かったけど、
それを超えた先にも、ちゃんと“続き”があるんだって思えた」
彼のその言葉に、思わず胸が詰まる。
美桜は笑いながら、こくりと頷いた。
「私も。……ちゃんと、同じ場所にいるよ」
ドアが閉まり、電車が走り出す。
でもその背中には、もうあの頃の迷いはなかった。
•
好きという想いが、すこし形を変えていくとしても――
それでもふたりは、それを抱えたまま歩いていく。
過去の延長線じゃなくて、
“今のふたり”として。
そして、ふたりだけの物語はまた、
静かに新しいページをめくっていく。