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13/21

好きの形が、少し変わっていくなら

専門学校への通学が始まって、数週間が過ぎた。


美桜の毎日は、これまでとはすっかり様変わりしていた。

朝はバイト、午後からは授業、夜はレポートや課題に追われる日々。

スマホを見る時間も減った。

だけど、それが不思議と嫌じゃなかった。


「……疲れたけど、ちょっと楽しいかも」


自分の手で掴んだ道を歩いている。

そう思える感覚が、心の奥に小さな火を灯していた。


一方で、彼との連絡は、少しずつ“現実的”なものになっていった。


「今日は早く帰れそう。美桜はバイト?」


「レポート3本終わらせたら寝る……泣きたい」


「がんばれ、ヒロイン。俺は夜勤明けで爆睡予定」


前みたいに、甘くて不安定で、

まるで世界の全部がふたりだけだった頃とは違う。


今のふたりは、それぞれの場所で“未来”に向かっていた。


恋のかたちは、すこしずつ変わっていく。

でも、それはきっと悪いことじゃない――そう思いたかった。


そんなある日。

授業終わりの校舎前で、美桜は偶然ある人物に声をかけられた。


「……あれ? 美桜?」


振り返ると、そこには見覚えのある顔――日向航太の姿があった。


「ひ、日向くん!? え、どうしてここに?」


「実は、ここの調理科の講師やってる先輩に誘われてさ。今、週イチで外部サポートみたいなことしてんの。偶然だなあ、まさか君がここに通ってたなんて」


どこか高校時代の面影を残しながらも、

雰囲気は以前より大人びていた。


その日から、たまに校舎ですれ違うことが増えた。


彼とは違う空気を持つ日向との会話は、

どこか心の隙間をすり抜けるように、軽やかだった。


「この前のプレゼン、堂々としてたな。意外だったよ」


「意外ってなによ……失礼な」


「でもまあ、いい意味で驚いた。ちゃんと“ここにいる顔”してた」


その一言に、美桜は少しだけ胸を突かれた。


(“ここにいる顔”……)


自分は、いま、ちゃんとここに立ててるのだろうか。

彼の隣にいるときも、同じように。


その夜。

久しぶりに彼から通話の着信があった。


「……元気してる?」


「うん、まあなんとか。ちょっと慣れてきたけど、まだ課題に追われてる感じ」


「そっか。……なんか、声が遠いな」


「え?」


「いや、気のせいかも。……でも、最近ちょっとだけ、寂しいなって思ってた」


画面の向こうの彼の声は、少しだけ沈んでいた。


美桜は、胸がきゅっとなるのを感じた。


自分だって寂しいのに。

でも、口にできなかった。


会えばすぐに解けると思ってた寂しさが、

少しずつ、形を変えて、心に積もっていくのを感じていた。


「好きだよ。ちゃんと」


やっと絞り出すように言ったその言葉に、

彼は少しだけ、静かに笑った。


「うん。俺も。でも、いまの君には、“頑張ってる美桜”を応援したい気持ちのほうが強いかも」



夜が深くなる。


手帳に何も書けないまま、

美桜はただ静かに、ページをめくった。


恋が終わらないように、

ただ“好き”を積み重ねていくだけでは、

もう足りないことがあるのかもしれない。


次に会うとき、

“恋人”としてではなく、

“ちゃんと支え合える存在”でありたい。


そう願って、美桜は目を閉じた。


その週末。

授業終わりの校舎のロビーで、美桜は再び日向とばったり出くわした。


「また会ったな。ていうか、最近よく会うよね」


「うん、偶然多すぎてちょっと怖い」


ふたりは笑い合いながら並んで歩き、

気づけば、駅前のカフェに入っていた。


(たまには、彼じゃない誰かに話してもいいよね)


自分にそう言い聞かせるようにして、

カップを指でなぞる。


「……最近、彼とうまくいってるの?」


唐突な問いだった。

でも、優しさのにじむ口調だったから、返すのを躊躇わなかった。


「……うん。まあ……多分、ね」


「“多分”ってとこが気になるな」


「お互い、やりたいことがあって。

連絡も減ったし……前みたいに甘えたり、

頼ったりが難しくなったなって、最近思ってる」


「そっか……」


「でも、ちゃんと好きなんだよ? それは変わってない。ただ……」


「“ただ”?」


「“このままでいいのかな”って、ふと思っちゃうことがあるの。彼の隣にいながら、私、ちゃんと役に立ててるのかなって……それが、すごく怖くなるときがあって」


言葉にしてしまった瞬間、胸の奥にしみ込んでいた不安が、少しだけあらわになった。


日向は少しだけ黙ってから、ゆっくり言った。


「そっか。……美桜って、そういうとこ、昔から変わってないよな」


「え?」


「誰かの“役に立ちたい”って、ずっと思ってて、でも、同じくらい“誰かに必要とされたい”って思ってる。……その優しさに助けられてた人、多分たくさんいたよ。俺も、そうだったし」


その言葉に、美桜は目を伏せた。


「ありがとう。……なんか、そう言ってもらえると、ちょっと泣きそう」


「泣いてもいいんじゃない?ここ、静かだし」


「バカ」


笑って、でもほんの少しだけ潤んだまま、

美桜はコーヒーを飲んだ。


帰り道、ふたりは駅前まで並んで歩いた。


「……もしさ。もし仮に、君がその人と別れたとしても」


「……うん?」


「俺はたぶん、君の味方でいると思う。

昔からそうだったし、今もきっと、これからも」


その言葉に、どきりと胸が鳴った。


返事はしなかった。

できなかった。


でも、美桜の心の奥には、

そのまっすぐな眼差しが、少しずつ染み込んでいくのを感じていた。


夜、自室。

彼からのメッセージは、今日はなかった。


でも、それを責める気にはなれなかった。

彼もまた、自分の場所で頑張っているのだ。


(……信じたい。疑いたくない)


なのに――ふとよぎる日向の言葉が、消えなかった。


「俺はたぶん、君の味方でいると思う」


彼じゃない誰かが、

こんなに近くにいてくれることが、

ほんの少し、怖かった。


好きという気持ちが、

形を変えていく予感。


それがいま、確かに胸の中で芽生えようとしていた。


夜、彼は自室のデスクに向かっていた。

勉強でも仕事でもなく、ただ、スマホの画面をぼんやりと見つめていた。


LINEの通知は、しばらく鳴っていない。

最後に美桜と通話したのは、もう一週間前。


(忙しいんだろうな)


そう思うようにしていた。

でも、それでも胸の奥に引っかかるものは消えなかった。


「……最近、美桜、少し変わった気がする」


そうつぶやいた声は、自分でも驚くほど寂しげだった。


返信が遅くなるのも、

既読がつかない時間が長くなるのも、

全部、理解しているつもりだった。


美桜は今、自分の夢のために前に進んでいる。

それは応援したい。

むしろ、誇らしいと思っている。


(でも、俺は――)


その成長の隣で、自分はどうなんだろう。

取り残されているような、

手が届かなくなりそうな気がして、息が詰まる。


スマホを握ったまま、ホーム画面に指を滑らせる。

ふと、ひとつの写真が目に留まった。


去年の春。

美桜と一緒に行った河川敷。

桜が満開で、ふたりで笑い合いながら撮った一枚。


その笑顔に、今の自分はちゃんと応えられているだろうか。


“恋”は、

ただ隣にいるだけじゃ続かないのかもしれない。


すれ違いも、沈黙も、

全部が「試されている」ような気がした。


その夜、思い切ってメッセージを送った。


「最近どう?ちゃんと食べてる?」


「今週末、もし少しでも空いてたら、会えたらいいな」


返事はすぐには来なかった。

でも、それでも送ってよかったと思えた。


離れても、迷っても、

この想いだけは伝え続けたい。


彼は静かに目を閉じ、

胸の奥で、祈るように言葉をつぶやいた。


「美桜が、迷わないでいられるように。その隣に、もう一度、ちゃんと立てますように」


そう願うことしか、

今はできないとしても。


スマホの通知が鳴ったのは、夜遅く。

レポートを書き終えたばかりの美桜は、

画面に浮かぶ彼の名前に、心臓が少しだけ跳ねた。


「最近どう? ちゃんと食べてる?」

「今週末、もし少しでも空いてたら、会えたらいいな」


たったそれだけの言葉が、胸に沁みた。


(……ごめん、ちゃんと、君を見ていなかった)


彼が不安になるくらい、

自分は“今”ばかりを見ていたのかもしれない。


“隣にいてくれる人”のことを、

どこかで当たり前にしていた。


でも本当は、

彼だって、迷いながらここにいてくれているのだ。


ベッドの上、うつ伏せになってスマホを握りしめる。


送信画面を開いて、指が止まった。


何を言えばいいのか分からなかった。

“好き”だけでは、もう足りないのかもしれないという予感が、

指先をためらわせる。


けれど、

その沈黙のままでは、何も変えられないともわかっていた。


深呼吸をひとつ。


そして、ようやく言葉を打ち込んだ。


「週末、大丈夫。少しだけど、会えるよ」

「ごめんね。ずっとちゃんと話せてなかった気がする」

「……私も、会いたいと思ってた」


ほんの短い言葉たち。

でもその一つひとつに、

こぼれ落ちそうな想いが詰まっていた。


送信ボタンを押すと、胸の奥がすこしだけ軽くなった。


(まだ、間に合う。

この気持ちが、終わってしまう前に)


週末に会う場所は、ふたりが以前よく歩いた商店街の外れ、

静かな川沿いのベンチに決まった。


彼との“日常”があった場所。

何でもない会話が、何よりも愛しかった時間。


そこに戻るのが、怖くもあり、でも――ほっとしている自分もいた。


窓の外では、秋の風がカーテンを揺らしていた。


少し前までは、“待つ”ことばかりだった。

でも今は、“向かう”ことができる。


どんな言葉を交わせばいいかは分からない。

それでも、手を伸ばす勇気だけは、まだ残っていた。


彼のために。

それ以上に、自分の“好き”を守るために。


週末の午後。

川沿いのベンチに、彼は先に座っていた。


赤茶けた落ち葉が道を埋め尽くし、

風が時折それを巻き上げていた。


美桜はゆっくりと歩いて近づく。

彼の背中は、あの日のまま――けれど、どこか遠く感じた。


「……ごめん、待った?」


振り向いた彼は、いつもと同じ穏やかな笑みを見せた。


「ううん、ちょうど。来てくれてありがとう」


ふたりは並んで腰を下ろした。

すぐ隣にいるのに、

しばらく言葉は交わされなかった。


川の流れの音。風のざわめき。

それらがふたりの間の空白を埋めていた。


「最近、どう?」


ようやく彼が口を開く。


「忙しいけど、少しずつ慣れてきたよ。自分で選んだことだから、後悔はしてない。……けど、正直……寂しいって思うこと、あった」


「……そっか」


彼はゆっくりと頷いた。


「俺も、同じだった。

美桜が頑張ってるのはちゃんと分かってる。

応援したいって、本気で思ってる。

でも、気づいたら“自分だけが立ち止まってる”気がしてさ」


「……そんなこと、ないよ」


「いや、俺も動かなきゃって思った。

君に恥ずかしくない自分でいたいし、

ちゃんと、君の未来に並べる人でいたい」


美桜は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


その言葉は、どこかでずっと自分が欲しかったもので、

そして同時に、自分自身にも言い聞かせてきたものだった。


彼は、ゆっくりと手を差し出した。


「また、手をつないでもいい?」


美桜は頷いた。


差し出されたその手に、そっと自分の手を重ねる。


指先は少し冷たくて、でもその温もりは、間違いなく懐かしいものだった。


「……また、ここから始めたい」


「うん、私も」


「前みたいじゃなくていい。今の俺たちで、もう一度、恋をしよう」


美桜は、彼の横顔を見つめて、静かに微笑んだ。


たとえ、すこし遠回りしても。

たとえ、“好き”の形が変わったとしても。


こうして心を重ねられるなら――


ふたりの恋は、

まだ、ちゃんと続いていける。


そんな確信が、そっと胸に灯った。


夕暮れの光が、川面にゆらゆらと反射していた。


ベンチに座るふたりの影は、長く伸びて、ひとつに重なっていた。


沈黙のあと、彼がぽつりと言った。


「昔みたいに、“全部わかり合える”って信じてた部分があったんだよね。でも、今はちょっと違う」


「……うん、私も」


「でもそれって、悪いことじゃないんだって思う。

君が君の道を進んでるのを見るのは、すごく誇らしい。だから、俺も変わらなきゃって思えた」


「私も、怖がってた。自分だけが遠くに行っちゃってるんじゃないかって……でも、君が“隣にいるつもりでいる”って言ってくれて、ようやく、自分の歩幅で歩いていいんだって思えた」


ふたりはゆっくりと顔を見合わせる。


言葉の奥にあったのは、不安でも過去でもなく、

“いま”の気持ちだった。


彼は小さく笑った。


「これからも、きっとすれ違うことはあると思う。

でも、そのたびにちゃんと話して、お互いに“今の気持ち”を届け合えるふたりでいたい」


「……うん。うれしい」


帰り道。

駅までの道を、ふたりは静かに歩いた。


言葉は少なくても、

手を繋いだその温度がすべてを伝えていた。


ホームに電車が入ってくる音が響く。


「じゃあ、またね」


「うん。……また、すぐに」


美桜が電車に乗り込む直前、彼が言った。


「美桜」


「……なに?」


「“恋の終わり”が怖かったけど、

それを超えた先にも、ちゃんと“続き”があるんだって思えた」


彼のその言葉に、思わず胸が詰まる。


美桜は笑いながら、こくりと頷いた。


「私も。……ちゃんと、同じ場所にいるよ」


ドアが閉まり、電車が走り出す。


でもその背中には、もうあの頃の迷いはなかった。


好きという想いが、すこし形を変えていくとしても――

それでもふたりは、それを抱えたまま歩いていく。


過去の延長線じゃなくて、

“今のふたり”として。


そして、ふたりだけの物語はまた、

静かに新しいページをめくっていく。

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