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12/21

ふたりでまた始めるために

彼が帰国する日が、決まった。

十月の終わり、木枯らしが吹き始める頃。


その連絡を受け取った瞬間、

胸の奥に、ふわりと温かいものが灯った。


けれど同時に――小さなざわめきも生まれていた。


「……会ったとき、ちゃんと笑えるかな」


少しずつ変わっていく自分と、

遠くで成長していた彼。


また“前と同じ”になれるとは限らない。


だからこそ、美桜は思った。


**「変わったままで、もう一度、出会いたい」**と。


その日から、美桜は忙しくなった。


授業の合間を縫って、資格の勉強を始めた。

バイトも週にもう1日増やし、

空いた時間でカフェの常連さんと話すことも意識してみた。


誰かに言われたわけじゃない。

ただ、彼に“待ってくれてありがとう”って言ってもらえる自分でいたかった。


ある日、カフェの休憩中。


「最近、表情変わったね」


と店長が言った。


「え?」


「少し前までは、“待ってる人”の顔だったけど、

いまの美桜ちゃんは、“迎える人”の顔になってる気がする」


「……そうですか?」


「ええ。きっと、何か決めたんだね。強くなったわ」


美桜は、胸の奥でそっと呟いた。


(……強くなりたかった。君と、ちゃんと並べるように)


再会の前日。

彼から1通のメッセージが届いた。


「明日、日本に戻るよ。久しぶりに、君に会えるのがちょっと怖い。……でも、それ以上に楽しみ。“今の美桜”に、ちゃんと会いたい。」


その文面を読んで、

ふいに、あの日の言葉を思い出した。


「君が何を選んでも、きっと私を忘れないって、信じてた」


その信頼が、やっとひとつの形になろうとしている。


夜。

髪を乾かしながら、鏡を見た。


ずっと待っていた時間。

何度も迷って、揺れて、それでも手放さなかった恋。


もうすぐ、その人が帰ってくる。


「大丈夫。きっと、ちゃんと笑える」


そう呟いた自分の声が、

どこか誇らしく響いた気がした。


次に会うとき、

ふたりはきっと、もう「前と同じ」じゃない。


でも――

“前より、もっとお互いを好きでいられる”気がしていた。


再会の日の朝。

目が覚めた瞬間、美桜は天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。


窓の外では木の葉が風に揺れている。

何気ない秋の日。


でも、今日という日は、ずっと待っていた日だった。


約束した駅の改札前。

待ち合わせの時間まで、あと5分。


手のひらは冷たくて、スマホを握る指先もどこかぎこちない。


(会ったら、どんな顔をすればいいんだろう)

(ずっと待ってたのに、それをうまく伝えられるだろうか)


そんな不安ばかりが、心のなかをぐるぐる回っていた。


そのとき。


改札を出てきた人波の中に、

懐かしくて、でも少しだけ大人びた彼の姿があった。


「……!」


思わず一歩前に出た。

彼もすぐに美桜を見つけて、足を止めた。


ほんの数秒。

でも、その静かな一瞬が、どれほど愛おしいものだったか。


彼が小さく息を吸って、

少しぎこちなく笑った。


「……ただいま」


その言葉だけで、

胸の奥が、じんわり熱くなった。


美桜は一歩、また一歩と近づいて、

言葉よりも先に、そっと彼に抱きついた。


「……おかえり」


それだけしか言えなかった。

けれどその声は、震えていても、まっすぐだった。


彼の腕が、美桜の背中をそっと包む。


「久しぶり……元気だった?」


「うん。……寂しかったけど、ちゃんと元気だったよ」


「俺も。……会いたかった」


ふたりはそのまま並んで歩いた。

駅前のカフェに入り、向かい合って座る。


「なんか……変だね」


「うん、変。照れる」


笑いながらも、お互いの顔を見つめ合う時間が愛おしい。


「美桜、ちょっと大人っぽくなった」


「えっ、そう?」


「うん。なんか……綺麗になった。いや、もともと綺麗だったけど……って、あ、ちょっと言いすぎたかも」


「バカ」


そう言いながらも、美桜の頬は赤く染まっていた。


カップのコーヒーが冷めていく間、

ふたりは、遠くで過ごした日々を少しずつ言葉にしていった。


美桜は、待っていた時間に感じた孤独も、

それでも信じた想いも、

すこしずつ丁寧に伝えた。


彼もまた、どれほど迷って、何に悩んでいたかを話してくれた。


ふたりは、お互いに完璧じゃなかった。

だけど、離れても“好き”が消えなかったことだけは、たしかだった。


「また、少しずつ始めようか」


「うん。……“前と同じ”じゃなくていい。“今のふたり”で、またちゃんと、恋をしていこう」


彼が美桜の手を握った。


温かくて、

懐かしくて、

でもちゃんと“新しい”ぬくもりだった。


カフェを出たあとは、

駅前の公園をふたりでゆっくり歩いた。


少し肌寒くなった空気。

落ち葉の積もる道。

他愛のない会話の合間に、

ふたりの間にはもう、あの頃の沈黙はなかった。


「……なんか、帰ってきたんだなって、やっと実感湧いてきた」


「ほんと?空港でも?飛行機の中でも?」


「いや、違う。……美桜に会って、手、握ったとき。

“あ、帰ってこれた”って思った」


「そっか……うれしい」


ほんの少し、視線が交わる。

そこには、不安の影ではなく、

ちゃんと“今を生きているふたり”の光があった。


その夜。

久しぶりに、ふたりで同じ街の空の下にいるという実感が、胸の中をじわじわと満たしていた。


LINEのやり取りも、画面越しではなく、

“またすぐ会える”距離で続けられることが、どこか不思議だった。


「ねえ、美桜はさ……この先、どんなふうに生きていきたい?」


彼から届いたそのメッセージに、美桜は一瞬手を止めた。


「ふたりで歩く未来も、ちゃんと想像していきたいんだ」


それはたぶん、

軽い未来予想図ではなかった。

彼なりの決意だった。


(私の夢……私の未来……)


すぐに答えは出せなかった。


でも、少しずつわかってきていた。


この街で、好きな人のいる場所で、

“誰かに必要とされる仕事”をしたい。

パン屋さんで働いた日々や、カフェでの接客。

その全部が、自分の小さな土台になっていた。


そして――

その隣に、できれば彼がいてくれたら。


「まだ全部はわからないけど……私も、自分の足で立って、誰かを支えられる人になりたいな」


「そして……君の隣にいても恥ずかしくない自分でいたい」


返ってきた返事には、

彼らしい、まっすぐな言葉があった。


「その“誰か”に、俺が含まれてたらうれしい」


美桜は笑った。

それは、深夜の静かな部屋に、灯るような笑みだった。


“ふたりでまた、始める”ということ。

それは、恋人に戻ることだけじゃない。


同じ未来に、

互いの姿をちゃんと想像しながら生きていくこと。


窓を開けると、

夜風がカーテンをゆらした。


その風の先に、明日という日がある。


ふたりの“これから”が、

ゆっくりと、確かに、形をつくりはじめていた。


再会の翌日。

午後の風は、ほんのりと冬の匂いを含んでいた。


ふたりは、夕方から街を歩いた。

学生の頃によく行った古本屋、喫茶店、そして川沿いの歩道。


そのどれもが、

「懐かしいね」と微笑み合える“思い出の景色”になっていた。


「ここ、前はもっと狭かった気がしたけど……気のせいかな」


「ううん。たぶん私たちがちょっと大人になったんだと思うよ」


「……そっか」


彼は、そう言って少しだけ照れたように笑った。


日が暮れて、ふたりはベンチに並んで腰を下ろした。


すぐ横にある自販機で買ったあたたかいココアを、

一緒にすする。


「この間、美桜が送ってくれた手紙、まだ持ってるんだ」


「えっ……ほんと?」


「うん。あれ、すごく助けられた。正直、あの頃は何度も挫けそうで……“君の声が聞きたい”って、何度も思った」


「私も、同じだったよ。でも、なんか不思議だよね。声は聞こえなくても、“そこにいる”ってわかる瞬間が、ちゃんとあったの」


彼は少しだけ黙ってから、美桜の手を取った。

冷たい風の中で、その手はやわらかく温かかった。


「今は、ちゃんといるよ。目の前に、美桜がいる。だからもう、あの時みたいに迷わない。一緒にいることを、ちゃんと選び続ける」


その言葉に、

美桜の胸の奥にあった、最後の不安が音もなく溶けていくのを感じた。


「ありがとう。……私も、同じ気持ちだよ」


それからしばらく、ふたりは何も言わずに空を見上げていた。

街灯に照らされた夜の雲が、ゆっくり流れていく。


言葉はなくても、

手のひらを通して、心はちゃんと繋がっていた。


彼の肩に、そっと頭をあずける。


「これから先、どうなるかなんてわからないけど……

でもね、こうしていま隣にいてくれるだけで、明日を信じようって思えるんだ」


「……うん。信じてほしい。君の明日に、僕がいたいから」


遠回りして、迷って、

それでもふたりは戻ってきた。


そして今、

“今のふたり”として、また恋をはじめていた。


再会から三日。

彼は仮住まいのアパートで新生活を整えながら、

空いた時間には美桜のバイト先まで顔を出してくれるようになった。


「いらっしゃいませ……あっ」


「パン屋さんの美桜さん、今日はクロワッサンの出来どう?」


「うるさいな……こっち忙しいんだから!」


そう言いながらも、顔が緩むのを止められなかった。


夕方。バイト終わり、ふたりで歩く帰り道。


夕陽が街並みに長い影を落としていた。


「ねえ、美桜ってさ。将来、どんなことしたいんだっけ」


その問いに、足がふと止まった。


「……まだ、ちゃんとは決まってないけど。最近は、人と関わる仕事がいいなって思うようになってきた。パン屋とか、カフェとか、接客とか……」


「うんうん、美桜っぽい」


「前は“君と一緒にいたい”っていう気持ちだけで未来を考えてた。でも今は、それに自分の夢を重ねてもいいのかもしれないって、やっと思えるようになったの」


「それ、すごくいいと思う」


「……そうかな」


彼は立ち止まって、美桜の頭をそっと撫でた。


「自分の足で立とうとする美桜、かっこいい。なんか、負けてられないなって思う」


「え、競争なの?」


「ちがうけど。……でも、隣を歩いてくれるなら、俺もちゃんと前に進まなきゃって思えるんだよ」


その言葉に、胸が少し熱くなった。


その夜、美桜は一人、部屋でパソコンを開いた。


数日前、ふと目にした地域の専門学校のページ。

“フードサービスや店舗経営について学べる夜間コース”の案内が載っている。


——いまのバイトを続けながら通える。

そして、自分の未来にもつながる。


(やってみようかな)


迷いは、完全に消えてはいない。

でも、それでも一歩踏み出してみたい。


“彼のため”じゃない。

“彼の隣に立つ自分のため”に。


画面の下にある「資料請求」のボタンを、そっと押した。


通知音が鳴る。

彼からのメッセージだった。


「今日も、隣にいてくれてありがとう。このまま、少しずつ未来に向かっていけたらいいね」


画面を見つめながら、ふっと笑った。


未来なんて、まだ見えない。

でも、“歩こう”と思える誰かがいることが、

こんなにも心強いなんて、昔の私は知らなかった。


数日後の土曜日。

朝の駅前は、人通りもまばらで、風の音だけが響いていた。


美桜は、小さなパンフレットを手に持って立っていた。

専門学校の校舎へと続く道。

初めて見る建物に、自然と背筋が伸びる。


(たった一歩。でも、私にとってはとても大きな一歩)


彼に頼るだけじゃなくて、

ちゃんと自分で、自分の未来を形にしたかった。


それがきっと、彼の隣に“もう一度立つ”っていうことだから。


説明会のあと、校舎を出ると、

どこかで見たことのある後ろ姿が視界に入った。


「……待ってた」


振り向いた彼は、ほんの少し照れた顔で笑った。


「えっ……なんでここに?」


「資料請求したって聞いたから、なんとなく……今日来るんじゃないかって思って」


「……ストーカー?」


「違う、恋人だし」


その言葉に、美桜は思わず吹き出してしまった。


「でも……ありがとう。誰もいない帰り道だと思ってたから、君がいてくれて、ちょっと嬉しい」


「それ、すごく嬉しい」


彼は自然に美桜の荷物を持ち、歩き出した。


「で、どうだった? 学校」


「うん、行きたくなった。まだ迷いもあるけど、やってみたいって思ったの」


「そっか。……応援するよ。どんな未来を選んでも」


彼のその言葉に、美桜はそっと頷いた。


(この人といると、不思議と未来を信じたくなる)


いまはまだ、不確かで、不完全で、

道の先もわからない。


だけどそれでも、

ふたりなら、きっと歩いていける。


未来はまだ遠いけれど、

今、手をつないでいるこの瞬間だけは、

たしかに“始まり”の中にあった。


駅のホーム。

電車が来るまでの静かな時間。


美桜は彼の肩にもたれて、ぽつりとつぶやいた。


「……ねえ。もう一度、恋が始まった気がするね」


彼は黙って、美桜の手を強く握った。


返事なんていらなかった。


その手の温もりだけで、

すべてが伝わってきたから。



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