表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/21

それでも君が好きだった

雨の匂いがした。

夕方、教室の窓際に座る彼女は、今日もひとりでノートに何かを書いていた。


「……また詩?」


そう声をかけると、彼女は少しだけ頷いた。

まるでそれが、この世界のすべてを肯定するかのように、静かな微笑を浮かべて。


僕は、彼女の書く詩が好きだった。

言葉の端々にこぼれる痛みも、希望も、諦めも、全部――恋だった。


けれど、彼女は言った。


「ねえ、私たち、もうやめた方がいいと思うんだ」


声は静かで、曇り空のようだった。

涙も怒りもないその言葉に、僕はうまく返事ができなかった。


「……どうして?」


「うまく言えないけど、たぶん、これは恋じゃなかったのかもしれないから」


そんなはずないのに。

一緒に笑った日も、手を繋いだ帰り道も、僕にとっては全部、恋だった。


でも、彼女にとっては違ったのだろう。


駅の改札口で、彼女は振り返らずに消えた。

「じゃあね」すら、なかった。


その夜、彼女のSNSに投稿された新しい詩を、僕は何度も読み返した。


さようなら、わたしの愛したひと。

あなたは、春のようにやさしかった。

だからこそ、きっとこれは恋じゃなかった。


まるで自分自身に言い聞かせるような言葉だった。

僕の名前は書かれていなかったけれど、きっと、僕に向けたものだった。


春が終わり、夏が来ても、彼女の詩は更新されなかった。

あれが最後の投稿だった。


そして気づいた。

これは、恋の終わりじゃなかった。

「恋だったことを、終わりにした」んだ。


けれど、それでも――

君が好きだった。


今でも、変わらずに。


放課後の教室。

誰もいないはずなのに、ふと彼女の姿が見える気がして、僕はまたここに戻ってきていた。


机の上には、あの日と同じように、彼女のノートがあるような錯覚。

けれど手を伸ばしても、それはもう、どこにもなかった。


彼女が残していった詩の一節が、今でも頭の中を離れない。


「それは恋のようで、恋じゃなかった」

「でも、あなたの笑顔は、恋よりもずっと、やさしかった」


僕たちは、たぶん最初から、終わることが決まっていたのかもしれない。

出会った瞬間に、運命なんてものは信じていなかったはずなのに、あまりに自然で、あまりに心地よくて。


彼女は、よく言っていた。


「始まりはね、音楽みたいなものなんだよ。鳴った瞬間、終わりの静けさまで決まってる」


「でも、それって寂しくない?」


と僕が聞くと、彼女はくすりと笑って、


「寂しいよ。でも、音楽が終わったあとに残る余韻が、私は好きなの」


そう言って、空を見上げていた。


あのときの彼女の横顔が、今でも焼き付いて離れない。

あれが、彼女なりの”恋の終わらせ方”だったんだろうか。


もう、手紙も、言葉も、連絡先も何もない。

でも、僕の中で彼女は、まだここにいる。


静かに、風の中に立って、微笑んでる。


思い出は、いつか色褪せていくのかもしれない。

でも、あの一瞬の温度だけは、決して消えない。

春の風とともに、僕の中にずっと残っている。


——それでも、やっぱり、君が好きだった。


もうすぐ卒業だ。

制服のボタンに、名前を書き込むクラスメイトの声が廊下から聞こえる。


教室の隅で、僕はそっと、古びたノートを開いた。

そこには、彼女がかつて書きかけていた詩の一節だけが残っていた。


「これは、恋の終わりの話。」


ページの隙間から、一枚の写真が落ちた。

春の桜の下で、彼女が笑っている。


シャッターを押したのは、たしか僕だった。

不器用な構図、ぶれたピント、けれど一番やさしい笑顔。


恋の終わり――

そう呼ぶには、あまりにも、ぬくもりが残りすぎていた。


風が変わった。

冬の硬さが少しずつほどけて、春の匂いが混じるようになった。


誰かの笑い声、別れの歌、花のつぼみ。

季節が変わるたびに、僕の中の君が、また違う顔で現れる。


卒業式の前日。

僕は一人で、校舎裏の桜の木の下に立っていた。

あの日、彼女と並んで歩いた帰り道。

「また、春が来たら一緒に見よう」なんて、根拠のない約束を交わした場所。


けれど、約束はもう、叶わない。


それでも、今年も桜は蕾をつけていた。

まるで何も知らないふりをして、時間だけがやさしく進んでいく。


ポケットの中には、今はもう使うことのない彼女の名前を登録したままのスマホ。

「消したほうがいいよ」と友達に言われても、僕はずっと、消せなかった。


メッセージアプリの最終履歴は、あの日のままだ。


「今日はありがとう、楽しかった」

「こっちこそ。またね」

「うん。またね」


——「また」が来ることは、もうなかった。


けれど僕は、心のどこかでまだ信じていた。

駅のホーム、街の人混み、書店の片隅、

ふと顔を上げたその先に、彼女が立っているんじゃないかって。


幻でもいい。

一度だけでいいから、声が聞きたかった。


「……元気でいるかな」


つぶやいた言葉は、春風に攫われて空に溶けていった。


僕は、その風の中に彼女の気配を探した。

もういないと知っていながら、それでも、目を細めてしまう自分がいた。


目を閉じると、あのときの彼女の声が、微かに耳の奥に響く。


「恋ってさ、終わったあとが一番、やさしいんだよ」


あれは、最後のデートの帰り道に言われた言葉だった。


そのときは意味がわからなかったけれど、今なら少しだけわかる気がする。

確かに、この胸の痛みには、少しだけやさしさが混じっていた。


卒業式当日。

名前を呼ばれて、壇上に立つ。

カメラのフラッシュが瞬く中、僕は前を向いた。


そして、心の中で呟いた。


「見てるか? 俺、ちゃんと前に進んでるよ」


もちろん答えはない。

だけど、ほんの一瞬、やさしい風が吹いた。


まるで、君が見送ってくれているような、そんな気がした。


これは恋の終わり。

でも、僕の中で君が消えることは、きっとない。


それが、僕の恋だった。


式が終わったあと、クラスメイトたちは写真を撮ったり、先生に駆け寄ったり、泣いたり、笑ったりしていた。


誰かの肩に顔を埋めて泣いている女子の姿。

制服の第二ボタンを渡す男子。

笑い合いながら何度も手を振る友人たち。


そんな賑やかな教室の片隅で、僕はただ、鞄を開けては閉じるだけの時間を過ごしていた。


「なあ、打ち上げ来るだろ?」


肩を叩かれて、顔を上げると、クラスの男子が笑っていた。


「……ごめん。ちょっと、今日はいいや」


「そっか。ま、気が向いたら来いよ」


彼はそれ以上何も聞かず、誰かの名前を呼びながら去っていった。


誰もいない廊下に出て、僕はゆっくりと歩く。

行き先は、誰にも言っていない。

でも、自分の中ではずっと決まっていた。


校舎の裏。

桜の木の下。

彼女と最後にちゃんと会話を交わした、あのベンチ。


その場所に、僕はそっと腰を下ろした。

制服のまま、卒業証書の筒を膝の上に抱えて。


目の前に広がる空は、あの日と同じ色だった。

淡いグレーと春の白。

時折差し込む陽の光が、どこか彼女の声に似ていた。


ふと、胸ポケットから小さな封筒が滑り落ちる。

数日前、ロッカーの中に差し込まれていたもの。

差出人の名前はなかったけれど、見覚えのある小さな文字。

癖のある筆跡。

彼女のものだった。


ずっと開けられずにいたその手紙を、僕はそっと破った。


「卒業おめでとう」

「たぶん、もう直接言うことはできないけど、それでも、あなたがどこかで幸せに歩いてくれていたら、私はそれでいい」

「あのとき言えなかったこと、ひとつだけ書くね」

「あなたのこと、ちゃんと、好きだったよ」

「じゃあね、さよなら」


―K


心臓が、きゅっと締めつけられた。


好きだった――。

そのたった一言が、どうしようもなく遅すぎて。

でも、どうしようもなく救いだった。


静かに目を閉じた。


風が吹く。

桜の蕾が、小さく揺れていた。


季節は、また始まろうとしていた。

彼女のいない世界で、それでも僕は――前を向こうとしていた。


これは、恋の終わり。

けれど、確かに恋だった証が、今もこの胸の中にある。


それだけで、今日は少しだけ、歩けそうな気がした。


手紙を読み終えたあと、僕はしばらく何も考えられなかった。

声を出すこともできず、ただ風の音だけが耳に残っていた。


「あなたのこと、ちゃんと、好きだったよ」


文字の向こうに、あのときの彼女の表情が浮かぶ。

言葉にしなかった本当の想いが、今になって届いたことが、うれしくて、苦しくて。


もし、あのときこの言葉を聞けていたら――

もし、あと少しだけ勇気があれば――


そんな「もし」がいくつも浮かんでは消えていった。


だけど、もう戻れない。

あの春は、あの笑顔は、手の届かないところへ行ってしまった。


日が傾きかけていた。

ベンチに座ったまま、僕はそっと顔を上げる。


桜の枝先には、まだ開かない蕾が並んでいた。

もう少しで咲きそうな、ぎりぎりのところで止まっている。


それは、まるで僕の心のようだった。


咲こうとして、でもまだ少し怖くて、

誰かを好きになることも、誰かと笑うことも、まだどこか遠く感じる。


手紙を胸ポケットに戻しながら、ふと思う。


これが彼女の「さよなら」なら、

僕はこれを「ありがとう」に変えて、持っていくべきなんだろう。


彼女はきっと、僕に前を向いてほしかった。

最後まで、やさしい人だった。


だったら僕も、それに応えなくちゃいけない。

きっと、それができるのは、今日この日しかない気がした。


ゆっくりと立ち上がって、校舎を振り返る。


誰もいないはずの窓の向こうに、一瞬だけ、彼女の姿が見えた気がした。

あの、白いイヤホンをつけて、うっすら笑う彼女。


目を凝らしても、もう何もなかった。

でも、それでよかった。

もう、追いかける必要はない。


僕は歩き出す。

少し冷たい風を受けながら、いつかまた桜が咲く春の先へ。


これは、恋の終わり。

だけど、それは何も悪いことじゃない。


大切なものは、終わってもちゃんと残る。

たとえば、この胸に芽生えたやさしさや、痛みや、あたたかい記憶のように。


——だからきっと、恋してよかった。

そう思える日が、いつかちゃんと来る気がした。


僕は振り返らずに、まっすぐに前を見つめた。

あの人の「さよなら」に、ちゃんと手を振るために。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ