第9章:運命の昼休み
あっという間に、忌まわしき昼休みがやってきた。
午前中の授業なんて、正直、何一つ覚えていない。
ただひたすらに、時計の針が進むのが遅く感じられ、早く終わってほしいような、でも終わってほしくないような、そんなアンビバレントな感情に苛まれ続けていただけだ。
隣の席の健太は、相変わらず俺のことを心配して、ちょくちょく声をかけてくれたけど、俺は生返事をするのがやっとだった。
すまん、健太。
今の俺には、お前の優しさを受け止めるだけのキャパシティが残っていないんだ……。
最後の授業が終わるチャイムが鳴り響いた瞬間、俺の心臓は、まるで警鐘のようにドクドクと激しく脈打ち始めた。
来た。来てしまった。運命の昼休みが。
教室が生徒たちの喧騒で満たされる中、俺は一人、石像のように固まっていた。
行かなきゃならない。
行きたくない。
でも、行かなきゃ、あの白鳥美月さんに何をされるか……。
脳内で、昨日の脅迫めいたメッセージと、あの悪魔のような笑顔の顔文字が繰り返し再生される。ブルブルッ。
「優人、飯行こうぜ! 今日こそカツカレー大盛りだ!」
健太が、いつもの調子で俺の肩を叩く。
「あ、ああ……わりい、健太。俺、今日はちょっと……用事があって、行かなきゃいけないところがあるんだ」
俺は、必死に平静を装って答えた。
声が震えていなかっただろうか。
「用事? お前が? 珍しいな。まあ、いいけどよ。じゃあ、俺は先に学食行ってるわ」
健太は特に深く追求することもなく、あっさりと一人で教室を出て行った。
……助かった。
詮索されたら、どう言い訳したものか、全く考えていなかったからな。
一人になった教室で、俺は重い足取りで立ち上がる。
まるで、処刑台へと向かう罪人のような気分だ。
図書館へ向かう廊下は、いつもよりやけに長く感じられた。
すれ違う生徒たちの楽しそうな笑い声が、やけに耳に障る。
ああ、俺も、数時間前までは、あんな風に平和な日常を送っていたはずなのに。
どうしてこうなった。
図書館の重厚な樫の木の扉を開けると、ひんやりとした、独特の静寂が俺を包み込んだ。
古い紙の匂いと、微かに漂うカビの匂い。そして、ページをめくる微かな音。
この静けさは、普段なら心地よいはずなのに、今日の俺にとっては、まるでこれから始まる恐怖の儀式を予感させる、不気味なBGMのようにしか聞こえない。
俺は、受付カウンターに座っている図書委員の女子生徒に軽く会釈すると、足音を忍ばせて館内へと進んだ。
目的の場所は、図書館の一番奥にある個人ブース。
そこは、普段あまり人が寄り付かない、薄暗くて隔離された空間だ。
受験勉強に集中したい生徒や、周りを気にせず読書に没頭したい生徒がたまに使っているくらいで、昼休みにわざわざ利用する物好きはそうそういない。
まさに、秘密の「実験」を行うには、うってつけの場所と言えるだろう。
……全然嬉しくないけどな!
ドキドキと高鳴る心臓を抑えながら、一番奥のブースへと向かう。
あった。
『個人ブース3』
ここだ。美月さんが指定した場所は。
ブースのドアは、ご丁寧に『使用中』の札がかかっている。
俺は、意を決して、ドアを軽くノックした。
コンコン。
「……どうぞ」
中から聞こえてきたのは、紛れもなく、美月さんの声だった。
その声は、いつも教室で聞く澄んだ声とは少し違い、どこか落ち着いていて、含みのある響きを持っていた。
俺は、ゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりとドアノブに手をかける。
そして、重い扉を、そろりそろりと開いた。
個人ブースの中は、思ったよりも狭かった。
壁際には本棚が作り付けられていて、古今東西の難しそうな専門書がぎっしりと詰まっている。
部屋の中央には、小さなテーブルと椅子が二つ。
そして、その片方の椅子に、白鳥美月さんが優雅に足を組んで座っていた。
窓から差し込む昼下がりの光が、彼女の艶やかな黒髪を照らし出し、まるで後光が差しているように見える。
相変わらずの、完璧な美しさ。
けれど、その表情は、いつもの営業スマイルとは明らかに違っていた。
どこか挑戦的で、こちらの反応を窺うような、そんな妖しい光を瞳に宿している。
「……時間通りね、田中くん。褒めてあげるわ」
彼女は、俺の顔を見るなり、くすりと小さく笑った。
その笑顔は、可愛いけれど、やっぱりどこか小悪魔的だ。
「あ、あの……白鳥さん……」
「まずはそこに座ったらどうかしら? それとも、立ったままお話するのがお好み?」
美月さんは、向かい側の椅子を顎でしゃくってみせる。
俺は、言われるがまま、おずおずと椅子に腰を下ろした。
ギシッ、と古い椅子が軋む音が、やけに大きく部屋に響く。
「それで……今日は、一体何を……?」
俺は、本題を切り出す。
もう、こうなったらヤケだ。
早く用件を聞いて、さっさとこの息苦しい空間から解放されたい。
美月さんは手に持っていた分厚い本を、テーブルの上にドンと置いた。
表紙には『改訂版・人体の構造と機能』という、やけに本格的なタイトルが書かれている。
どうやら人体の神秘について書かれている医学書のようだ。
これから始まる「実験」とやらに、一体何の関係があるというのか。
嫌な予感しかしない。
美月さんは、おもむろに立ち上がると、俺の隣にピタリと寄りそってきた。
え、ちょ、近い近い!
彼女の体温が、吐息が、すぐそばに感じられる。
甘いシャンプーの香りが、また俺の鼻腔をくすぐり、思考を鈍らせる。
「まずは、これを読んでほしいの」
そう言って、彼女はテーブルの上の医学書を手に取ると、パラパラとページをめくり始めた。
そして、ある特定のページでピタリと手を止めると、そのページに挟まっていた小さなピンク色の付箋を指差した。
「こ・こ・よ♡」
俺は、恐る恐る、彼女が指差す箇所に目を落とす。
そこに書かれていたのは……。
『女性の泌尿器系の構造と排尿メカニズムについて』
……は?
ひ、泌尿器系……?
はいにょうめかにずむ……?
「な、な、なんで、こんな……こんなものを、俺が……?」
俺の声は、情けなく裏返っていた。
顔から火が出そうだ。
いや、もう出てる。
全身が沸騰しそうなくらい熱い。
すると、美月さんは、そんな俺の反応を楽しむかのように、くすくすと喉を鳴らして笑った。
そして、俺の耳元に顔を寄せると、こう囁いたのだ。
その声は、悪魔の誘惑のように甘く、そして抗いがたい響きを持っていた。
「勉強よ、田中くん。これから私の『実験』に付き合ってもらうんだから。私の体のこと、ちゃーんと、隅々まで理解してもらわないと……困るじゃない?」
そう言うと、彼女はさらに身を乗り出し、俺の肩にコツンと頭を乗せてきた。
「ねえ、田中くん。……実は私、今、すっごく我慢してるの」
「え……?」
「朝からね、一度も……『行って』ないのよ」
その言葉の意味を理解した瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。
え、え、ええええええええええええええええええええええええっ!?
次の瞬間。
美月さんは、俺の手を優しく取ると、それをゆっくりと自分のお腹のあたりへと導いた。
そして、俺の手のひらを、彼女の柔らかいお腹に、そっと押し当てたのだ。
薄いブラウス越しに、彼女の肌の温もりが、生々しく伝わってくる。
「……わかる?」
彼女は、潤んだ瞳で俺を見上げ、吐息まじりに、そう尋ねた。
その表情は、苦痛と快感が入り混じったような、何とも言えない、妖艶な色を湛えていた。
分かるかって……分かるわけないだろおおおおおおお!!
いや、でも、なんとなく……なんとなく、分かるような気もする……ような……?
俺の頭は、もう完全にパニック状態だ。
俺の、波乱に満ちた(そして、おそらく変態的な)昼休みは、まだ始まったばかりだった。