第8章:翌朝の覚悟
結局、昨日の夜は一睡もできなかった。
いや、正確には、ベッドに入って羊を数えたり、意味もなく天井の木目を数えたりしているうちに、いつの間にか意識が途切れて、数時間くらいは眠ったのかもしれない。
でも、それは「睡眠」と呼べるような代物じゃなかった。
悪夢と現実がごちゃ混ぜになったような、うっすい膜一枚隔てただけの、浅くて不安定な意識状態。
夢の中では、白鳥美月さんが旧校舎の裏で延々と何かをしていたり、かと思えば、笑顔で俺に手招きしながら「こっちへいらっしゃい♡」とか囁いてきたり……。
もう、メチャクチャだ。
おかげで、今朝の俺のコンディションは最悪の一言に尽きる。
目の下にはうっすらとクマが居座り、頭はまるで鉛でも詰まっているみたいに重い。
体全体が気怠くて、制服のネクタイを締めるのすら億劫だった。
(ああ、学校、行きたくねえ……)
心の底から、そう思った。
でも、行かないわけにはいかない。
だって、あの美月さんに、「明日の昼休み、図書館の奥」と、ご指名を受けているのだから。
行かなかったらどうなるか……考えただけで、背筋が凍る思いだ。
どんよりとした気分で通学路を歩いていると、後ろから元気な声が飛んできた。
「おーっす、優人! なんか今日、顔色悪くね? 大丈夫か?」
振り返ると、そこには親友の佐藤健太が、太陽みたいな笑顔で立っていた。
こいつの、この一点の曇りもない明るさが、今の俺には眩しすぎるぜ……。
「よお、健太……。ああ、うん、ちょっとな。昨日の夜、あんまり寝れなくてさ」
「寝不足? なんか悩みでもあんのか? 俺でよかったら聞くぜ?」
健太は、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
こういうところが、こいつの良いところなんだよな。
普段はお調子者で、デリカシーがないように見える時もあるけど、根は本当に友達思いで優しい奴だ。
「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと、ラノベの続きを読むのが止められなくて、夜更かししちまっただけだよ」
俺は、へらりと笑って嘘をついた。
本当のことなんて、口が裂けても言えるわけがない。
『実は昨日、学園のアイドルの秘密の現場を目撃しちゃってさ、脅されて共犯者にさせられたんだ。で、今日の昼休み、図書館でヤバい実験に付き合わされることになってて……』
なんて言ったら、健太はどんな顔をするだろうか。
まず間違いなく、俺の頭がおかしくなったと思うだろうな。
「なんだよ、それ。相変わらずだな、お前は」
健太は、呆れたように笑いながら俺の肩を軽く叩いた。
「まあ、ほどほどにしとけよ? 授業中に居眠りして、また怖い古典のババアに怒られても知らねーぞ」
「分かってるって」
そんな軽口を叩き合いながら、俺たちはいつものように並んで学校への道を歩く。
健太の隣を歩いていると、ほんの少しだけ、昨日の悪夢のような出来事が遠のいていくような気がした。
でも、それはあくまで一時的な気休めに過ぎない。
学校が近づくにつれて、俺の心臓は再び重苦しいリズムを刻み始めるのだった。
教室のドアを開けると、そこにはいつもと変わらない朝の光景が広がっていた。
生徒たちのざわめき、椅子を引く音、窓から差し込む柔らかな日差し。
そして――教室の窓際、一番前の席。
そこには、白鳥美月さんが座っていた。
数人の女子生徒に囲まれ、楽しそうに談笑している。
その完璧な笑顔は、朝日を浴びてキラキラと輝いていて、まるで後光でも差しているかのようだ。
(昨日の、あの旧校舎裏での出来事は、本当に夢だったんじゃないだろうか……?)
あまりにも完璧な、いつも通りの白鳥美月さんの姿を目の当たりにして、俺は一瞬、そんな現実逃避的な考えに囚われそうになる。
もしかしたら、俺は疲れていて、おかしな幻覚でも見たのかもしれない。
そうだったら、どんなにいいだろうか。
そんな俺の淡い期待は、次の瞬間、無慈悲にも打ち砕かれた。
ふと、美月さんと、目が合ったのだ。
彼女は、友達と談笑していたはずなのに、まるで俺が教室に入ってきたのを察知していたかのように、正確なタイミングでこちらに視線を向けた。
そして――。
ニコッ、と。
俺にだけ分かるように、ほんの一瞬、可愛らしくウインクをして見せたのだ。
ヒュッ、と俺の喉から変な音が漏れた。
全身の血の気が引いていくのが分かる。
夢じゃない。
あれは、紛れもない現実だったんだ。
そして、美月さんは、この状況を、明らかに楽しんでいる……!
「うおっ!? おい、優人、マジで大丈夫かよ!?」
隣にいた健太が、俺の異変に気づいて声を上げる。
俺は、もう何も答えることができなかった。
ただ、フラフラとおぼつかない足取りで自分の席に向かうと、そのまま机の上に突っ伏した。
ドサッ。
額を机に打ち付けた衝撃で、少しだけ意識が現実に戻ってくる。
「優人? おい、どうしたんだって!」
健太が、心配そうに俺の背中を揺さぶる。
「……なんでも、ない……。ただ、ちょっと、立ちくらみがしただけだ……」
俺は、机に顔を埋めたまま、か細い声で答えるのが精一杯だった。
嘘だ。立ちくらみなんかじゃない。
美月さんの、あの悪魔のようなウインクの破壊力に、俺の貧弱な精神が耐え切れなかっただけだ。
(ああ、もうダメだ……。俺の平穏な学園生活は、完全に終わったんだ……)
絶望的な気分で、俺は固く目を閉じる。
だが、そんな俺の脳裏に、さらに追い打ちをかけるような光景が飛び込んできた。
チラリ、と。
ほんの出来心で、顔を上げて美月さんの席の方を見てしまったのだ。
彼女は、もうこちらを見てはいなかった。
相変わらず、友達と楽しそうに談笑している。
しかし。
彼女の机の上。
そこに、何気なく置かれている一冊の本。
それは――どう見ても、図書館から借りてきた本だった。
背表紙には、図書館の管理シールが貼られているのが、遠目にもはっきりと分かった。
図書館の本……。
昼休み……図書館の奥の個人ブース……。
昨日の、彼女の言葉が、脳内でリフレインする。
ゴクリ。
俺は、生唾を飲み込んだ。
もう、逃げられない。
今日の昼休み、俺は、あの図書館で、白鳥美月さんの「実験」とやらに付き合わなければならないのだ。
一体、何をさせられるというのだろうか……?
想像しただけで、胃がキリキリと痛み始める。
「おい、優人、本当に大丈夫か? 保健室、行くか?」
健太の心底心配そうな声が、頭の上から降ってくる。
俺は、力なく首を横に振ることしかできなかった。
大丈夫なわけ、ないだろ……。
でも、そんなこと、言えるわけもない。
俺はただ、これから始まるであろう波乱万丈な(そして、おそらく変態的な)一日を思い、暗澹たる気持ちで、始業のチャイムが鳴るのを待つしかなかった。
机に突っ伏したまま。
まるで、公開処刑を待つ罪人のように。