表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/29

第8章:翌朝の覚悟

 結局、昨日の夜は一睡もできなかった。


 いや、正確には、ベッドに入って羊を数えたり、意味もなく天井の木目を数えたりしているうちに、いつの間にか意識が途切れて、数時間くらいは眠ったのかもしれない。

 でも、それは「睡眠」と呼べるような代物じゃなかった。

 悪夢と現実がごちゃ混ぜになったような、うっすい膜一枚隔てただけの、浅くて不安定な意識状態。


 夢の中では、白鳥美月さんが旧校舎の裏で延々と何かをしていたり、かと思えば、笑顔で俺に手招きしながら「こっちへいらっしゃい♡」とか囁いてきたり……。

 もう、メチャクチャだ。


 おかげで、今朝の俺のコンディションは最悪の一言に尽きる。

 目の下にはうっすらとクマが居座り、頭はまるで鉛でも詰まっているみたいに重い。

 体全体が気怠くて、制服のネクタイを締めるのすら億劫だった。


(ああ、学校、行きたくねえ……)


 心の底から、そう思った。

 でも、行かないわけにはいかない。


 だって、あの美月さんに、「明日の昼休み、図書館の奥」と、ご指名を受けているのだから。

 行かなかったらどうなるか……考えただけで、背筋が凍る思いだ。


 どんよりとした気分で通学路を歩いていると、後ろから元気な声が飛んできた。


「おーっす、優人! なんか今日、顔色悪くね? 大丈夫か?」


 振り返ると、そこには親友の佐藤健太が、太陽みたいな笑顔で立っていた。

 こいつの、この一点の曇りもない明るさが、今の俺には眩しすぎるぜ……。

 

「よお、健太……。ああ、うん、ちょっとな。昨日の夜、あんまり寝れなくてさ」

「寝不足? なんか悩みでもあんのか?  俺でよかったら聞くぜ?」


 健太は、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 こういうところが、こいつの良いところなんだよな。

 普段はお調子者で、デリカシーがないように見える時もあるけど、根は本当に友達思いで優しい奴だ。


「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと、ラノベの続きを読むのが止められなくて、夜更かししちまっただけだよ」


 俺は、へらりと笑って嘘をついた。

 本当のことなんて、口が裂けても言えるわけがない。

 

『実は昨日、学園のアイドルの秘密の現場を目撃しちゃってさ、脅されて共犯者にさせられたんだ。で、今日の昼休み、図書館でヤバい実験に付き合わされることになってて……』


 なんて言ったら、健太はどんな顔をするだろうか。

 まず間違いなく、俺の頭がおかしくなったと思うだろうな。


「なんだよ、それ。相変わらずだな、お前は」


 健太は、呆れたように笑いながら俺の肩を軽く叩いた。

 

「まあ、ほどほどにしとけよ? 授業中に居眠りして、また怖い古典のババアに怒られても知らねーぞ」

「分かってるって」


 そんな軽口を叩き合いながら、俺たちはいつものように並んで学校への道を歩く。

 健太の隣を歩いていると、ほんの少しだけ、昨日の悪夢のような出来事が遠のいていくような気がした。


 でも、それはあくまで一時的な気休めに過ぎない。

 学校が近づくにつれて、俺の心臓は再び重苦しいリズムを刻み始めるのだった。


 教室のドアを開けると、そこにはいつもと変わらない朝の光景が広がっていた。

 生徒たちのざわめき、椅子を引く音、窓から差し込む柔らかな日差し。


 そして――教室の窓際、一番前の席。

 そこには、白鳥美月さんが座っていた。


 数人の女子生徒に囲まれ、楽しそうに談笑している。

 その完璧な笑顔は、朝日を浴びてキラキラと輝いていて、まるで後光でも差しているかのようだ。


(昨日の、あの旧校舎裏での出来事は、本当に夢だったんじゃないだろうか……?)


 あまりにも完璧な、いつも通りの白鳥美月さんの姿を目の当たりにして、俺は一瞬、そんな現実逃避的な考えに囚われそうになる。

 もしかしたら、俺は疲れていて、おかしな幻覚でも見たのかもしれない。

 そうだったら、どんなにいいだろうか。


 そんな俺の淡い期待は、次の瞬間、無慈悲にも打ち砕かれた。


 ふと、美月さんと、目が合ったのだ。

 彼女は、友達と談笑していたはずなのに、まるで俺が教室に入ってきたのを察知していたかのように、正確なタイミングでこちらに視線を向けた。


 そして――。

 ニコッ、と。


 俺にだけ分かるように、ほんの一瞬、可愛らしくウインクをして見せたのだ。


 ヒュッ、と俺の喉から変な音が漏れた。


 全身の血の気が引いていくのが分かる。

 夢じゃない。

 あれは、紛れもない現実だったんだ。


 そして、美月さんは、この状況を、明らかに楽しんでいる……!


「うおっ!? おい、優人、マジで大丈夫かよ!?」

 

 隣にいた健太が、俺の異変に気づいて声を上げる。

 俺は、もう何も答えることができなかった。

 ただ、フラフラとおぼつかない足取りで自分の席に向かうと、そのまま机の上に突っ伏した。


 ドサッ。


 額を机に打ち付けた衝撃で、少しだけ意識が現実に戻ってくる。

 

「優人? おい、どうしたんだって!」

 

 健太が、心配そうに俺の背中を揺さぶる。


「……なんでも、ない……。ただ、ちょっと、立ちくらみがしただけだ……」


 俺は、机に顔を埋めたまま、か細い声で答えるのが精一杯だった。

 嘘だ。立ちくらみなんかじゃない。

 

 美月さんの、あの悪魔のようなウインクの破壊力に、俺の貧弱な精神が耐え切れなかっただけだ。


(ああ、もうダメだ……。俺の平穏な学園生活は、完全に終わったんだ……)


 絶望的な気分で、俺は固く目を閉じる。

 だが、そんな俺の脳裏に、さらに追い打ちをかけるような光景が飛び込んできた。


 チラリ、と。

 ほんの出来心で、顔を上げて美月さんの席の方を見てしまったのだ。


 彼女は、もうこちらを見てはいなかった。

 相変わらず、友達と楽しそうに談笑している。

 

 しかし。

 彼女の机の上。


 そこに、何気なく置かれている一冊の本。

 それは――どう見ても、図書館から借りてきた本だった。


 背表紙には、図書館の管理シールが貼られているのが、遠目にもはっきりと分かった。


 図書館の本……。

 昼休み……図書館の奥の個人ブース……。

 昨日の、彼女の言葉が、脳内でリフレインする。


 ゴクリ。

 俺は、生唾を飲み込んだ。

 

 もう、逃げられない。

 今日の昼休み、俺は、あの図書館で、白鳥美月さんの「実験」とやらに付き合わなければならないのだ。


 一体、何をさせられるというのだろうか……?

 想像しただけで、胃がキリキリと痛み始める。


「おい、優人、本当に大丈夫か? 保健室、行くか?」


 健太の心底心配そうな声が、頭の上から降ってくる。

 俺は、力なく首を横に振ることしかできなかった。


 大丈夫なわけ、ないだろ……。


 でも、そんなこと、言えるわけもない。

 俺はただ、これから始まるであろう波乱万丈な(そして、おそらく変態的な)一日を思い、暗澹たる気持ちで、始業のチャイムが鳴るのを待つしかなかった。


 机に突っ伏したまま。

 まるで、公開処刑を待つ罪人のように。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ