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第5章:契約と脅迫

 目の前に立つ白鳥美月さんは、俺の知っている白鳥美月さんじゃなかった。


 いや、正確に言えば、「俺が今まで知っていたのは、彼女のほんの一面に過ぎなかった」というべきか。


 さっきまでの、あの恍惚とした表情。

 そして今の、全てを見透かすような、獲物を前にした肉食獣の笑み。


 これが、あの完璧な学園のアイドルの、本当の姿……?

 俺の頭は、完全にキャパオーバーだ。

 思考回路が、ブチブチと音を立てて焼き切れていくのが分かる。


「さあ、こっちへいらっしゃい」


 美月さんは、拒否する隙も与えず、俺の腕を掴んだ。

 うわ、細い指なのに、ものすごい力!


 俺は、まるで子猫が親猫に咥えられるみたいに、なすすべもなく彼女に引きずられていく。

 

 どこへ連れて行かれるんだ……!?


 連れてこられたのは、旧校舎の一階にある、今は使われていない空き教室だった。

 

 埃っぽくてカビ臭い空気が鼻をつく。

 窓ガラスは薄汚れ、床には何かのシミがこびりついている。

 机や椅子は部屋の隅に乱雑に積み上げられ、まるで巨大な怪物の骸のようだ。


 薄暗い教室の中に、俺と美月さん、二人きり。


 ……いや、これ、マジでやばい状況なんじゃないか?


 バタン。


 美月さんが、背後のドアを無情にも閉めた。

 その音に、俺の心臓は漫画みたいに飛び跳ねた。


 逃げ場、なし!


「あ、あのっ、俺、何も見てません!  本当です!  さっきのは、その、目の錯覚というか、幻覚というか!」


 俺は、自分でも何を言っているのか分からないくらいパニック状態で、必死に弁明を試みる。

 助けを求めるように両手を顔の前でバタつかせながら、後ずさろうとするが、すぐに背中が冷たい壁にぶつかった。


 行き止まり。

 人生の、じゃなくて、物理的な行き止まりだ。


「ウソ」


 美月さんは、一歩、また一歩と、ゆっくり俺に近づいてくる。

 その声は、さっきまでの妖艶な響きとは少し違い、どこか冷徹で、有無を言わさぬ圧力を伴っていた。

 

「あなた全部見たでしょう?  私が、あそこで何をしていたのか。どんな顔をしていたのか。……ねえ、正直に答えてちょうだい」


 彼女の黒曜石のような瞳が、俺を射抜く。

 怖い。

 本能が、全力で警鐘を鳴らしている。

 こいつはやばい、関わっちゃいけないタイプの人間だ、と。


 あっという間に、俺と美月さんの間には、もうほとんど距離がなくなっていた。


 壁と彼女に挟まれ、俺は完全に逃げ場を失う。

 すぐ目の前に、彼女の整った顔がある。


 長いまつ毛。吸い込まれそうなほど深い色の瞳。ほんのり赤みを帯びた唇。

 そして――ふわりと、甘い花のようないい香りが、俺の鼻腔をくすぐった。


 シャンプーの香りだろうか。

 それとも、香水?


 こんな極限状態だっていうのに、俺の脳みそは、なぜかそんな場違いなことを考えていた。


「私のこと、どう思った?」


 美月さんが、吐息がかかるほどの距離で囁く。

 その声は、悪魔の誘惑のように甘く、そして有無を言わせぬ響きを持っていた。


「え……?」

「だから、私の『あれ』を見て、どう感じたのかって聞いてるの。……変態だと思った? それとも、気持ち悪いって、思ったかしら?」


 意外だった。

 彼女の声に、ほんのわずかだけど、不安のような響きが混じっていた気がしたからだ。


 さっきまでの、自信に満ち溢れた、相手を支配するような口調とは明らかに違う。

 まるで、こちらの反応を窺うような、か細い響き。


 あの、完璧な白鳥美月さんが?

 俺みたいな陰キャの、反応を気にしている……?


 その小さな発見が、俺のパニック状態だった頭に、ほんの少しだけ冷静さを取り戻させた。

 俺は、無意識のうちに、さっき見た光景を反芻していた。

 

 旧校舎の裏、雨上がりの湿った空気の中。

 スカートをたくし上げ、恍惚とした表情を浮かべていた彼女の姿。

 

 確かに、衝撃的だった。異常だった。

 でも――。


「……綺麗だと思いました」


 え?

 俺、今、なんて言った?


 自分でも信じられない言葉が、口から滑り出ていた。

 それは、計算でも、下心でもなく、本当に、心の底からふと湧き上がってきた、偽らざる感想だった。


 あの時の彼女の姿は、倒錯的で、背徳的で、理解不能だったけれど。

 でも、なぜか、不思議なくらいに――綺麗だ、と感じてしまったんだ。


「え……?」


 美月さんの大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。

 その顔には、さっきまでの肉食獣のような笑みも、一瞬見せた不安の色も消え、ただ純粋な驚きだけが浮かんでいた。


 まるで、予想外の方向からボールが飛んできた、みたいな顔。


 俺は、しまった、と思った。

 終わった。

 完全に終わった。


 俺、何言ってんだ。

 

 ドン引きされたに違いない。

 ああ、もう、いっそ殺してくれ。


 沈黙が、重く薄暗い教室に満ちる。

 数秒が、永遠のように感じられる。


 やがて。

 ふっ、と。

 美月さんの口元から、小さな息が漏れた。


 そして――彼女は、笑った。


 それは、さっきまでの威圧的な笑みでも、完璧な営業スマイルでもない。

 もっと自然で、もっと屈託のない、まるで悪戯が成功した子供のような、そんな――本物の笑顔だった。


「……ふふっ、あはははは!  何それ!  あなた、なかなか面白いわね!」


 美月さんは、お腹を抱えるようにして笑い出した。

 その姿は、どこにでもいる普通の女の子みたいで、俺はますます混乱する。


 え、え、何がそんなにツボに入ったんだ……?


 ひとしきり笑った後、美月さんは、潤んだ瞳で俺をじっと見つめた。

 そして、悪戯っぽく片方の目を瞑って見せる。

 

「決めたわ」

「……え?」

「あなた、私の共犯者になりなさい」


 共犯者?


 その、あまりにも唐突で、あまりにも物騒な言葉に、俺の思考は再びフリーズする。


 一体、何がどうなって、そんな結論に至ったんだ……?


 俺の頭の上には、巨大なクエスチョンマークが、いくつもいくつも浮かんでいるのが自分でも分かった。


 白鳥美月さんの、本当の笑顔。

 

 それは、俺が今まで見たどんな表情よりも、魅力的で――そして、とてつもなく危険な香りを放っていた。


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