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第4章:運命の瞬間

 どれくらいの時間、そうしていただろうか。


 旧校舎の軒下、吹き付ける雨から身を隠し、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つ。

 体感では三十分くらい経ったような気もするし、まだ十分も経っていないような気もする。

 こういう時、時間の感覚ってのは本当にあてにならないもんだ。


 ふと、耳を澄ますと、さっきまで狂ったように屋根を叩きつけていた雨音が、少しだけ大人しくなっていることに気づいた。


「……お、弱まってきたか?」


 空を見上げると、分厚い雨雲の隙間から、ほんの僅かに夕焼けの茜色が覗いている。

 どうやら、あの土砂降りのピークは過ぎたらしい。

 まだパラパラと小雨は降っているけれど、これくらいなら、ダッシュで駅まで行けばなんとかなるかもしれない。

 

 よし、帰ろう。

 こんなジメジメした薄気味悪い場所に、これ以上長居するのは精神衛生上よろしくない。


 俺はカバンをしっかりと抱え直し、意を決して軒下から一歩踏み出そうとした。

 その、まさにその瞬間だった。


「――ああ……もう、限界……っ!」


 ……え?

 今の、声……?


 不意に聞こえてきた、か細い、しかし切羽詰まったような女性の声に、俺の足はピタリと止まった。


 聞き覚えがある……いや、間違いなく、聞き覚えがある声だ。

 まさか……。


 声は、この旧校舎の裏手の方から聞こえてくる気がする。


 こんな時間に、こんな場所で、一体誰が……?


 いや、まさかな。そんなはずはない。

 俺の聞き間違いだ。きっと、風の音か何かだろう。


 そう思おうとした。


 けれど、一度気になってしまったらもうダメだ。

 だって、あの声は、あまりにも……あまりにも、俺のよく知る人物の声に似ていたから。


 ゴクリ、と喉が鳴る。

 好奇心、というよりは、むしろ心配だった。


 もし、本当にあの人の声で、何か困ったことになっているとしたら……?


 昼間の俺の失態を少しでも挽回できるチャンス、とか、そういう下心があったわけじゃない。断じて。

 

 ただ、万が一ってことがあるだろ?


 俺は、まるで何かに引き寄せられるように、ゆっくりと旧校舎の壁伝いに歩き始めた。

 雨でぬかるんだ地面が、スニーカーの底でグチャリと嫌な音を立てる。


 心臓が、ドクドクと早鐘を打っているのが分かる。

 頼むから、俺の気のせいであってくれ。

 そう願いながら、建物の角を、そっと覗き込むようにして曲がった。


 そして、俺は見た。

 見てしまった。

 見てはいけないものを。


 そこに立っていたのは、やはり、白鳥美月さんだった。


 俺たちの学園のアイドル。

 完璧で、清楚で、手の届かない存在のはずの彼女が。


 旧校舎の、薄汚れた壁に片手をつき、もう片方の手で、自分のスカートの裾を、太ももがあらわになるくらいまで、グイッとたくし上げていた。


 雨に濡れた地面に、彼女の細くしなやかな足から、透明な液体が……ポタ、ポタ、と流れ落ちている。

 それは、まるで壊れた蛇口から水が滴るように、一定のリズムで……。


 そして、彼女の表情。

 俺は、言葉を失った。


 それは、俺が今まで一度も見たことのない、美月さんの顔だった。

 頬はほんのりと赤く染まり、大きな瞳は潤んでトロンとしている。


 半開きの唇からは、吐息とも呻きともつかない、甘い声が漏れそうになっている。


 それは、苦痛の表情じゃない。

 むしろ、その逆だ。

 

 恍惚。

 

 そう、まるで何か、とてつもない快感に身を委ねているかのような、そんな表情だった。


「はぁ……んっ……最高……♡」


 か細い、しかしハッキリとした声で、彼女はそう呟いた。

 その声には、隠しようもないほどの満足感と、背徳的な喜びが滲んでいた。


 俺は、完全に固まっていた。

 目の前で起こっていることが、まるで現実のことだとは思えなかった。


 だって、あの美月さんが?

 学園の誰もが憧れる、完璧な優等生が?


 こんな、誰も見ていないような場所で、こんな……こんな破廉恥なことをしているなんて。


 頭が、理解することを拒否している。

 思考回路が、ショート寸前だ。


 どれくらいの間、そうしていただろう。

 もしかしたら、ほんの数秒だったのかもしれないし、永遠に続く時間のように感じられたかもしれない。


 やがて、美月さんは、ふぅー……と長い息を吐くと、たくし上げていたスカートの裾をゆっくりと下ろした。

 そして、まるで何事もなかったかのように、軽く髪をかき上げると――。


 こちらを、振り返った。


 バチッ。


 目が、合った。


 今度こそ、気のせいなんかじゃない。

 はっきりと、俺と彼女の視線が、雨上がりの湿った空気の中で交差した。


 時が、止まる。

 さっきまで聞こえていた雨音も、風の音も、自分の心臓の音すらも、何もかもが消え去ったかのような錯覚。

 世界に、俺と彼女の二人だけしかいないような、そんな感覚。


 彼女の大きな瞳が、俺の姿を捉えている。


 驚いている? いや、違う。

 焦っている? それも、少し違う気がする。

 

 彼女の瞳は、ただ静かに、俺を見つめていた。


「あら」


 最初に沈黙を破ったのは、彼女の方だった。


 その声は、いつも教室や廊下で聞く、あの鈴を転がすような可憐な声とは、どこか違っていた。

 もっと低く、もっと落ち着いていて、そして、どこか……楽しんでいるような響き。


 次の瞬間、彼女の表情が、ゆっくりと、しかし劇的に変化していくのを、俺はただ見ていることしかできなかった。

 いつもの、誰にでも分け隔てなく向けられる、あの完璧な「営業スマイル」は、そこにはもうなかった。


 代わりに彼女の唇に浮かんだのは――。

 獲物を見つけた、肉食獣のような。

 獰猛で、妖艶で、そして全てを見透かしたような、そんな笑みだった。


「見ちゃったのね」


 その言葉は、まるで甘い毒のように、俺の鼓膜を震わせた。


 有無を言わさぬ、絶対的な響き。

 抗うことなんて、到底できそうもない。


 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。


 怖い。

 なのに、なぜか目が離せない。

 彼女の、その見たこともない表情から。


 そして、美月さんは、ゆっくりと、一歩、また一歩と、俺の方へと近づいてくる。


 逃げなきゃ。


 そう頭では分かっているのに、俺の足は、まるで地面に縫い付けられたかのように、一歩も動かなかった。


 ただ、迫り来る「何か」を、呆然と見つめていることしか――。

 

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