第3章:放課後の偶然
昼休みの一件以来、どうにもこうにも気分が晴れない。
いや、別に美月さんにどうこうされたわけじゃない。
むしろ、彼女は完璧な対応だった。
問題は俺だ。
あの時、みっともなく狼狽えて、挙句の果てにはハンカチ一つ拾ってやれなかった、あの情けない自分。
自己嫌悪ってやつが、じわじわと心を蝕んでいく。
「……はぁ」
誰にも聞こえないくらいの小さなため息が、机の上にこぼれ落ちる。
午後の授業なんて、正直、何一つ頭に入ってこなかった。
教科書の文字は右から左へ虚しく流れていき、先生の声はまるで遠い国のラジオ放送みたいに聞こえるだけ。
時折、健太が心配そうにこっちを見ていたけど、俺は気づかないふりを決め込んだ。
今は、そっとしておいてほしい。
ようやく長かった授業が終わり、ホームルームも滞りなく終了。
生徒たちが三々五々、騒がしく教室を出ていく。
部活へ向かう奴、友達と寄り道する約束をしている奴、俺みたいに真っ直ぐ家に帰るだけの奴。
それぞれの放課後が、それぞれの足取りで始まっていく。
「おーい、優人、帰るぞー!」
健太がカバンを肩にかけ、俺の席までやって来た。
「ん……ああ」
「なんだよ、まだ昼間のこと引きずってんのか? 気にしすぎだって」
「……そうだといいけどな」
俺は力なく答える。
健太のこういうカラッとした気遣いは、ありがたいけど、今の俺にはちょっと眩しすぎる。
俺たちは並んで廊下を歩き、昇降口へと向かう。
特に会話はない。
健太も、俺がまだへこんでいるのを察してか、いつものようにお調子者モードを封印しているようだ。
下駄箱で靴を履き替え、校門へ向かおうとした、その時だった。
「あーっ!ヤッベ! 今日の現代文の課題プリント、教室に忘れた!」
俺は間抜けな声を上げる。
今日の終礼で、「明日提出だから忘れないように」と念を押されたばかりの、あの忌々しいプリントだ。
なんで俺はこう、肝心なところでポカをするのか。
「健太、悪いけど先帰っててくれ。俺、取ってくるから」
「おー。んじゃ、また明日な。あんま気にすんなよ、昼間のこと」
健太は軽く俺の肩を叩くと、ひらひらと手を振って先に校門を出て行った。
友達思いのいい奴だ。本当に。
一人取り残された俺は、再び自分の教室へと踵を返す。
時刻は午後5時を少し回ったところ。
部活動に励む生徒たちの声が、グラウンドや体育館の方から微かに聞こえてくるけれど、校舎の中はもうほとんど人気がない。
自分の足音だけが、やけに大きく廊下に響いていた。
無事にプリントを回収し、カバンにしまう。
ふう、これで一安心。
さっさと帰って、今日の憂鬱な気分をリセットしたい。
そう思って再び昇降口へ向かい、外へ出ようとした瞬間――。
ザアアアアアァァァ――!
「げっ、マジかよ……」
突然、空からバケツをひっくり返したような、猛烈な雨が降ってきた。
さっきまで晴れていたのが嘘みたいだ。
天気予報、今日は雨なんて一言も言ってなかったぞ!
俺は思わず軒下に駆け込む。
「うわっ、最悪……傘、持ってきてないんだけど……」
折り畳み傘くらい常備しとけよ、俺。
こういう時に限って、カバンの中に入ってないんだよな。
雨脚は弱まるどころか、ますます勢いを増していく。
ゴオオオという音を立てて地面を叩きつける雨粒は、まるで小さな弾丸のようだ。
これじゃあ、とてもじゃないが外には出られない。
「どうすっかな……しばらく雨宿りするしかないか」
俺はため息をつきながら、軒下から一番近い、旧校舎の渡り廊下の下へと移動した。
この聖桜学園には、俺たちが普段使っている新校舎の他に、今はほとんど使われていない旧校舎がある。
なんでも、創立当初から建っている歴史ある建物らしいが、老朽化が進んでいるとかで、立ち入り禁止になっているエリアも多い。
そのせいか、昼間でもどこか薄暗くて、生徒たちの間では「出る」なんて噂もまことしやかに囁かれている、ちょっとした心霊スポットでもある。
俺が雨宿りをしている旧校舎の軒下も、普段はまず人が寄り付かないような場所だ。
新校舎からの渡り廊下はあるものの、その先は基本立ち入り禁止。
だから、生徒も教師も、わざわざこんな所まで来ることはない。
おかげで、雨の音以外は何も聞こえない。
シン……と静まり返った空間に、俺一人。
なんだか、急に心細くなってきた。
雨は一向に止む気配がない。
それどころか、風まで出てきたらしく、軒下にいても雨粒が斜めに吹き込んできて、制服の肩を濡らし始める。
「うう、冷たっ……」
俺は思わず身震いした。
人気のない旧校舎。強まる雨風。
そして、この薄気味悪い静けさ。
なんだか、嫌な予感がする。
昼間の白鳥さんとの一件から、どうも今日はツイてない。
このまま何か、良からぬことに巻き込まれてしまうんじゃないか、なんて、柄にもなく弱気な考えが頭をよぎる。
パラパラ、パラパラ……。
屋根を叩く雨音が、やけに大きく耳に響く。
いや、違う。
これは、屋根の音だけじゃない。
もっと近い。
キィィ……。
その時、不意に、どこか近くで古びた扉が軋むような音が聞こえた。
え?
風のせいか?
いや、今の音は、もっとハッキリとした、人工的な音だった。
こんな時間に、こんな場所に、誰かいるのか?
まさか、本当に「出る」のか……?
なんて、馬鹿なことを考えちまうくらいには、俺の神経はさっきからピリピリしている。
雨音は、まるで俺の不安を煽るかのように、さらに激しさを増していく。
視界も悪く、旧校舎の窓ガラスは雨粒で滲んで、向こう側がよく見えない。
ただ、ひたすらに、冷たくて重苦しい空気が、この場所に満ちているのだけは分かった。
俺は、濡れるのも構わずに、もう少しだけ軒下の奥へと体を寄せた。
早く、この雨が止んでくれないだろうか。
そして、この気味の悪い場所から、一刻も早く立ち去りたい。
そう願いながら、俺はただ、激しく降り続く雨の音に耳を澄ませていることしかできなかった。
遠くで、また、何かが閉まるような音が、微かに聞こえた気がした。