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第2章:理想と現実のギャップ

 昼休みを告げるチャイムの音は、まるでゴングだ。

 午前中の授業という名のジャブの応酬を耐え抜き、ようやくたどり着いたインターバル。


 俺にとって、この昼休みは貴重なエネルギー補給タイムであり、午後の授業という名の後半ラウンドを戦い抜くための、いわば作戦会議の時間でもある。

 ……まあ、主な作戦は「いかに目立たず、平穏に過ごすか」だけどな。


「腹減ったー! 今日はカツカレー大盛り一択だろ、優人!」


 隣の席では、健太がすでに臨戦態勢だ。

 こいつの胃袋はどうなってんだか。

 朝も購買でパン食ってたはずなのに。

 

「俺は普通のでいいよ。ていうか、大盛り食べたら午後絶対眠くなるぞ」

「そこは気合でカバーだ、気合で! 若さが足りねえぞ、優人!」


 若さとかそういう問題じゃないと思うんだが。

 まあ、健太の有り余るエネルギーは、ある意味尊敬に値する。


 俺たちはぞろぞろと教室を出て、戦場――もとい、学食へと向かう。

 

 聖桜学園の学食は、そこそこ広くてメニューも豊富。

 味も悪くない。

 そのため、昼時はいつも生徒たちでごった返している。

 

 今日も例外じゃない。

 

 食券を買うための列はすでに長蛇の列をなし、空いている席を見つけるのも一苦労といった感じだ。

 様々な部活のジャージを着た体育会系の集団、参考書を広げながら食事をする真面目そうなグループ、そして、恋バナに花を咲かせる女子たちの華やかな一団。

 まさにカオス。


「うわ、今日も混んでんな。カツカレー売り切れてないといいけど」


 健太が不安そうに呟きながら列の最後尾に並ぶ。

 俺もその後に続く。

 

 学食特有の、いろんな料理の匂いが混ざり合った食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。

 食器のぶつかる音、生徒たちのざわめき、厨房から聞こえる威勢のいい声。

 この喧騒も、日常の一部だ。


 しばらく列に並んでいると、ふと、前方がざわついた。

 いや、正確には、ざわめきが一瞬にして静まり返り、そこにいる全員の視線が一方向に吸い寄せられた、と言うべきか。


 なんだなんだ?

 有名人でも来たのか?


 そう思って俺も人垣の向こうに目を凝らすと――ああ、なるほど。納得だ。


 そこにいたのは、白鳥美月さんだった。


 彼女を先頭に、数人の女子生徒――確か、桜井花音さんとか、彼女の取り巻きグループだ――が、まるで後光でも差しているかのように、ゆっくりと列に加わったところだった。

 桜井花音さんは、明るい茶髪のショートカットが似合う、快活そうな感じの子だ。

 美月さんの隣にいることが多いから、自然と顔も覚える。


 美月さんは、今日も完璧だった。

 寸分の乱れもない艶やかな黒髪。

 清楚な白いブラウスは、まるで彼女のために仕立てられたかのように体にフィットしている。

 

 その立ち姿だけで、周囲の空気が変わる。

 さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返り、誰もが彼女の美しさに息を呑んでいるのが分かる。

 これぞ、学園のアイドル。いや、女神。


 そして、その女神の隣には、これまた完璧な男が立っていた。

 生徒会長の氷室雅人ひむろまさとだ。

 

 氷室会長は、長身でモデルみたいなスタイルに、涼しげな切れ長の目元が印象的なイケメン。

 成績も常にトップクラスで、スポーツも万能。


 リーダーシップもあって、まさに絵に描いたような完璧超人。

 美月さんとは、まさに「お似合いの二人」として、学園内でも噂の的だ。


「美月さん、今日の生徒会の打ち合わせだけど、放課後で時間は大丈夫かい?」


 氷室会長が、美月さんに優しく話しかける。

 その声は、まるで高級ホテルのコンシェルジュみたいにソフトで、聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいだ。

 

「申し訳ありません、氷室会長。今日は委員会が長引きそうでして、少し遅れてしまうかもしれません」


 対する美月さんの声も、鈴を転がすような、とんでもなく綺麗なソプラノ。

 完璧な敬語、上品な仕草。

 指先の動き一つとっても、育ちの良さが滲み出ている。


 はあ、と俺の口からため息が漏れた。

 

 住む世界が違うって、こういうことを言うんだろうな。

 あの二人が会話している空間だけ、まるでスポットライトでも当たっているみたいにキラキラして見える。

 俺なんかが立ち入る隙なんて、ミジンコ一匹分もない。


 俺は、ただぼんやりと、その完璧な二人を眺めていた。


 美月さんの、微笑むと少しだけ細められる大きな瞳。

 滑らかな白い頬。


 (綺麗だな……)


 心の声が、ポロッと漏れた。

 もちろん、口に出したわけじゃない。

 俺の小心な心臓が、そんな大胆なことを許すはずもない。


 その時だった。


 ドンッ!


「うおっ!」


 背後から誰かに強く押され、俺の体は前のめりによろめいた。

 

「あっ、わりぃ!」


 後ろの男子生徒の声。

 どうやら、ふざけていてぶつかってきたらしい。

 

 クソッ、前見て歩けよ! と心の中で毒づいたが、もう遅い。

 俺の貧弱な体幹では、この勢いを殺しきることはできず――。


 バランスを崩した俺は、あろうことか、数歩前にいた美月さんの背中に、軽くぶつかるような形になってしまった。


 しまった!


 俺の頭は真っ白になる。


 やばい、やばいやばいやばい!

 学園の女神に、俺みたいな陰キャが接触してしまった!


 これはもう、公開処刑レベルの大罪だ!


 周囲の視線が一斉に俺に突き刺さるのが分かる。

 特に、氷室会長の視線が、やけに冷たく感じられる。


 終わった。

 俺の平穏な学園生活、ジ・エンドだ。


 美月さんが、ゆっくりと振り返る。

 俺はもう、死を覚悟した。

 罵倒されるか、軽蔑の眼差しを向けられるか……。


 けれど。


 美月さんの表情は、俺の予想とは少し違っていた。


 一瞬。ほんの一瞬だけだったけど。

 彼女の大きな瞳が、わずかに見開かれた。

 

 そして、その瞳の奥に、何か――言葉にできない、複雑な色が浮かんだように見えた。


 それは、驚き?  戸惑い?  それとも……何か別の、俺には理解できない感情?

 朝、目が合った(気がした)時と同じような、不思議な感覚。

 

 だが、それも本当に一瞬のこと。


 次の瞬間には、彼女の顔にはいつもの完璧な「営業スマイル」が浮かんでいた。


「いいえ、こちらこそ。お怪我はありませんでしたか?」


 そう言って、小さく首を傾げる。

 その仕草は、計算され尽くしたかのように愛らしく、周囲の男子生徒からは、はぁー……という感嘆のため息が漏れ聞こえてくる。


「あ、いえ、大丈夫です! 本当に、すいませんでした!」

 

 俺は、声が裏返りそうになるのを必死にこらえながら、深々と頭を下げる。

 顔から火が出そうだ。穴があったら入りたい。

 いや、もういっそ、このまま地面に吸い込まれて消えてなくなりたい。


 そんな俺の混乱をよそに、美月さんは気にも留めない様子で、再び氷室会長との会話に戻っていく。


 まるで、俺なんて存在していなかったかのように。

 まあ、それが普通だよな。


 俺と彼女の間には、見えないけど分厚くて高い壁があるんだ。


 ホッと安堵のため息をつきかけた、その時。


 ひらり。


 美月さんのスカートのポケットから、白いハンカチが滑り落ちたのが見えた。

 刺繍の入った、上品なハンカチ。

 彼女らしい持ち物だ。


 俺は、ほとんど無意識に、そのハンカチに手を伸ばそうとした。

 ここで拾って渡せば、少しはさっきの失態を挽回できるかもしれない。


 いや、そんな下心じゃない。

 単純に、困っている人を助けたい的な、純粋な善意だ。

 うん、たぶん。


 俺の手がハンカチに触れる、その寸前。

 スッと、別の手がハンカチを拾い上げた。

 

 氷室会長だった。


 彼は、まるでスローモーションのように優雅な動きでハンカチを拾い上げると、軽く埃を払う仕草をしてから、美月さんに微笑みかけた。


「美月さん、落とし物だよ」

「あら、ありがとうございます」

 

 美月さんは、これまた完璧な笑顔でハンカチを受け取る。


 その一連の光景を、俺はただ、呆然と見つめていることしかできなかった。

 伸ばしかけた俺の手が、行き場をなくして宙を彷徨う。


 ああ、そうだよな。

 俺なんかが、白鳥美月さんのハンカチを拾うなんて、おこがましいにも程がある。

 

 氷室会長みたいな完璧な男が、完璧なタイミングで、完璧にエスコートするのが、この世界の正しいあり方なんだ。


「……優人、大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」

 

 いつの間にか隣に来ていた健太が、心配そうに俺の顔を覗き込む。


「ああ……うん、大丈夫。ちょっと、貧血気味かも」


 俺は力なく笑って見せる。

 貧血なんかじゃない。


 ただ、圧倒的な差を、まざまざと見せつけられただけだ。

 あの完璧な世界の住人たちと、俺みたいな日陰者が、交わることなんて、万に一つもない。


 分かっていたはずなのに。

 学食の喧騒が、やけに遠くに聞こえる。


 俺は、さっき美月さんが見せた、あの一瞬の「何か言いたげな表情」を思い出していた。


 あれは、一体何だったんだろうか。

 もしかしたら、それも俺のただの勘違いで、彼女にとっては、俺なんて視界の隅に映ったゴミ程度の存在だったのかもしれない。


 うん、きっとそうだ。


 そうやって自分を納得させようとすればするほど、なぜか胸の奥がチリチリと痛むのを感じながら、俺はどんよりとした気持ちで、ようやく自分の順番が回ってきた食券の券売機へと向かうのだった。

 

 カツカレー大盛りなんて、今の俺にはとてもじゃないが喉を通りそうもなかった。


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