第19章:新たな宣戦布告
氷室会長が、敗残兵のように去っていく。
その完璧な男の背中に、俺は、人生で初めて、優越感という名の、甘美な毒が全身を駆け巡るのを感じていた。
勝った。
俺は、あの氷室雅人に、勝ったんだ。
心臓が、バクバクと激しく鳴っている。
だが、それは、もはや恐怖から来るものではない。
生まれて初めて感じる、凄まじい高揚感と、脳を痺れさせるほどの達成感。
俺は、ただの陰キャじゃない。
俺は、白鳥美月さんの、執事なんだ。
その事実が、誇らしく、そして、とてつもなく甘美に、俺の胸に響いていた。
――キーンコーンカーンコーン。
その時、まるで俺の勝利を祝福するかのように、授業の終了を告げるチャイムが、体育館に鳴り響いた。
終わりだ。「実技試験」は、終わったんだ。
俺は、弾かれたように、コートの向こう側にいる美月さんに視線を送る。
彼女は、チャイムの音を聞くと、ふぅー……っと、今まで堪えていた全ての息を、一度に吐き出すかのように、長く、深く、息を吐いた。
ピンと張り詰めていた体の力が抜け、その華奢な肩が、わずかに震えているのが見えた。
その姿は、まるで過酷な戦いを終えた、気高き女戦士のようだ。
生徒たちが、三々五々、体育館の出口へと向かっていく。
美月さんも、ゆっくりと立ち上がり、俺の方へと歩み寄ってきた。
すれ違い様、ほんの一瞬だけ、俺たちの視線が、熱く交差する。
その瞬間、世界から、音が消えた。
彼女の、潤んだ大きな瞳が、俺だけを、まっすぐに捉えている。
そして、その桜色の唇が、ゆっくりと、音もなく、動いた。
『あ・り・が・と・う』
声にはなっていない。だが、俺には、はっきりと聞こえた。
いや、見えた。
彼女の唇が紡ぐ、感謝の言葉。
そして、ダメ押しとばかりに。
彼女は、右目を、キュッと、悪戯っぽくウィンクしてみせたのだ。
俺だけに向けられた、秘密の、そして、あまりにも魅惑的なウインク。
ズキュウウウウウウン!
俺の心臓は、比喩でもなんでもなく、矢で射抜かれたかのような、凄まじい衝撃に襲われた。
やばいやばいやばいやばい!
可愛いすぎるだろ、反則だろ、今の!
ただの執事と主人じゃない。俺と彼女は、秘密を共有し、困難を共に乗り越えた、「共犯者」なんだ。
その事実が、脳を焼くほどの快感となって、俺の全身を駆け巡る。
俺は、天にも昇るような気分のまま、浮ついた足取りで、体育館の出口へと向かった。
今の俺なら、なんだってできる。なんにだってなれる。
そんな、万能感に満たされていた。
――そう、彼女に、呼び止められるまでは。
「――ねえ、田中くん」
体育館の出口、そのすぐ脇の壁に、腕を組んだ桜井花音が、待ち構えていた。
その表情から、いつものような明るさは消え、代わりに、底冷えのするような、真剣な光が宿っている。
俺の、天国にいたはずの気分は、一瞬にして、氷点下まで急降下した。
「ちょっと、話があるんだけど。いいかしら」
拒否権は、なさそうだ。
俺は、観念して、こくりと頷く。
彼女は、俺を人気のない廊下の隅へと連れて行くと、まっすぐに、俺の目を見据えてきた。
その瞳は、親友を想う、強い意志の光に満ちていた。
「単刀直入に聞くわ。あなた、最近、美月と何してるの?」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
一番、聞かれたくない質問。
「な、何って……別になにも……」
「嘘つかないで」
俺の言葉を、彼女は、ピシャリと遮った。
「今日の美月、絶対におかしかった。体調が悪いだけの子が見せる顔じゃなかったわ。まるで、何かに、必死に耐えてるような……それでいて、どこか、楽しんでいるような……あんな顔、私、今まで一度も見たことない」
鋭い。
この子は、ただの脳天気な陽キャじゃない。
親友のことだからこそ、その些細な変化を、敏感に感じ取っているんだ。
「あなた、美月に、何か無理させてるんじゃないの?」
「そ、そんなことは……!」
「じゃあ、なんで、あなたは、ずっと美月のことを見てたの? 心配してるようにも見えたけど、あなたの目も、どこか普通じゃなかった。まるで、獲物を見るような……いや、違う……もっと、こう……」
彼女は、言葉を探すように、一度、視線を彷徨わせた。
そして、再び、俺を、射抜くような目で見つめる。
「まるで、二人にしか分からない、秘密のゲームでも楽しんでいるような、そんな目だったわ」
俺は、息を呑んだ。
見抜かれている。
核心は外れていても、本質は、見抜かれている。
俺が、言葉に詰まっていると、彼女は、一歩、俺に近づいた。
そして、静かに、しかし、心の底からの、強い決意を込めた声で、言い放った。
「――もし、あなたが、美月を悲しませるようなことをしたら」
「……」
「私が、絶対に、あなたを許さないから」
それは、親友を想う、純粋な気持ちから来る、警告。
しかし、俺にとっては、女王様からの脅迫とは、また質の違う、冷たくて重い、「宣戦布告」のように、聞こえた。
彼女は、それだけ言うと、俺に背を向け、去っていく。
一人残された俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
さっきまでの、天にも昇るような高揚感は、もうどこにもない。
代わりに胸の中に渦巻いているのは、氷室会長とは、また別の、新たな脅威に対する、重苦しい予感。
俺の、波乱に満ちた執事生活は、どうやら、一筋縄ではいかないらしい。
その事実だけが、やけに重く、俺の肩にのしかかっていた。