第18章:完璧な敵対者
桜井花音の、あの疑念に満ちた鋭い視線が、まだ網膜に焼き付いている。
まずい。完全に目をつけられた。
親友という、最も厄介な存在に。
俺は、冷や汗が流れる背中を壁に押し付け、なんとか平静を装おうと、意味もなく天井を仰いだ。
その、直後だった。
すっ、と。
俺の目の前に、巨大な影が差した。
それは、まるで獲物の前に立ちはだかる、猛禽類のような、圧倒的な威圧感を放っていた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、ギギギと音を立てそうなブリキの人形みたいに視線を上げる――。
そこには、腕を組み、仁王立ちでこちらを見下ろしている、生徒会長・氷室雅人がいた。
俺なんかとは比べ物にならない、がっしりとした肩幅。
鍛え上げられた体躯は、ぴっちりとした体育着の上からでも明らかだ。
汗一つかいていない涼しげな顔に、鋭く切れ長の瞳が、俺という存在を値踏みするかのように、冷たい光を放っている。
完璧なルックス、完璧な成績、完璧な運動神経、そして、完璧なまでのカリスマ性。
美月さんが「陽」の光を象徴する女神なら、こいつは、同じ「陽」でも、全てを焼き尽くす太陽神アポロンか何かだ。
「……ひ、氷室、会長……」
その瞳は、笑っていない。
そこにあるのは、明確な敵意と、ゴミでも見るかのような、侮蔑の色。
「君はなぜ、先ほどから白鳥さんを、そんな粘つくような視線でジロジロと見ている? まさかとは思うが、体調の悪い彼女に、何か良からぬことを考えているんじゃないだろうな」
やばい。
これは、やばいやばいやばい!
桜井花音の比じゃない。本物の、ラスボスのお出ましだ。
言葉に、詰まる。
言い訳なんて、思いつくはずもない。
だって、実際に俺は、粘つくような視線で彼女を見ていたし、良からぬこと――いや、良からぬことしか考えていなかったのだから。
俺の沈黙を、肯定と受け取ったのだろう。
氷室会長の瞳が、さらに鋭く、危険な光を宿した。
「……図星か。彼女の清らかさを、君のような薄汚い欲望で汚すことは、この僕が許さない」
なんだ、こいつ。
正義のヒーロー気取りか?
だが、その圧倒的な存在感と、有無を言わせぬ圧力の前で、俺は、ただただ萎縮するしかなかった。
俺とこいつの間には、天と地ほどの、絶対的なカーストの差が存在する。
その時だ。
氷室の背後、コートの向こう側で、美月さんの体が、ビクッと、小さく、しかし明らかに跳ねたのが見えた。
彼女が、きつく、きつく、太ももを締め付ける。
頬は、さっきよりもさらに赤みを増し、潤んだ瞳は、助けを求めるように、俺の方を向いている、気がした。
この氷室との対立という、新たな「精神的負荷」が、彼女を、限界の、さらにその先へと追い詰めている……!
――『心理的な要因で、膀胱の許容量の認識は大きく変わるの。これは、明日の『実技試験』で重要になるから、しっかり覚えておくことね』
昨夜の、彼女の甘い声が、脳内でリフレインする。
そうだ、俺は、ただの陰キャじゃない。
俺は、彼女の「専属執事」なんだ!
主人のピンチを救うのが、執事の務めだろうが!
腹の底から、何かが、せり上がってくるのを感じた。
それは、恐怖を上回る、一つの、強い感情。
――この男に、俺と彼女の「聖域」を、踏み荒らされてたまるか。
俺は、震える脚に、無理やり力を込める。
そして、ゆっくりと顔を上げ、氷室会長を、まっすぐに見据えた。
「……余計な、お世話です」
「……なんだと?」
氷室の眉が、ピクリと動く。
俺が反論するなんて、微塵も思っていなかったのだろう。
「俺が白鳥さんを見ていたのは、彼女の体調を心配していたからですよ」
「心配……だと?」
「ええ。白鳥さん、顔色も悪いですし、少し汗もかかれている。ああいうのは、もしかしたら、精神的なストレスが、身体症状として現れているのかもしれない、と本で読んだものですから」
俺は、昨夜叩き込まれた知識を、さも自分の教養であるかのように、淀みなく口にした。
その、予想外の、そして妙にインテリぶった反論に、氷室の完璧な表情が、初めて、わずかに揺らいだ。
「……なにを、訳の分からないことを……」
「訳が分からないのは、会長の方では? 人の善意を、自分の色眼鏡で勝手に判断して、一方的に詰問するなんて。それこそ、体調の悪い白鳥さんにとって、新たなストレスになるんじゃないでしょうか」
言った。
言ってやった。
俺は、あの完璧超人・氷室雅人に、真正面から、言い返してやったんだ!
氷室は、完全に言葉を失っていた。
その顔は、驚きと、屈辱と、そして、隠しきれない怒りで、赤黒く染まっている。
彼が最も得意とする「正論」という土俵で、俺に、足元をすくわれたのだ。
「……君は、自分が何を言っているのか、分かっているのかね」
絞り出すような声で、氷室が言う。
だが、その声には、さっきまでの絶対的な威圧感は、もうなかった。
「ええ、分かっていますよ」
俺は、人生で初めて、こんなにも晴れやかな気持ちで、言い放った。
「――だから、邪魔ですから、どいてください」
氷室は、数秒間、俺を殺さんばかりの形相で睨みつけた後、チッと鋭く舌打ちをすると、何も言わずに、踵を返した。
その背中は、明らかに、敗者のそれだった。
俺は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえた。
勝った。
俺は、あの氷室雅人に、勝ったんだ。
心臓が、バクバクと激しく鳴っている。
だが、それは、恐怖から来るものじゃない。
生まれて初めて感じる、凄まじい高揚感と、達成感。
俺は、ただの陰キャじゃない。
俺は、白鳥美月さんの、執事なんだ。
その事実が、誇らしく、そして、とてつもなく甘美に、俺の胸に響いていた。