第14章:女王様からの「指令」
心臓が、ドクン、ドクンと、やけにうるさく自己主張を繰り返している。
昼休みを告げるチャイムの音は、まるで俺のささやかな日常の終わりと、波乱に満ちた隷属の始まりを告げるゴングのように、頭蓋の内側で不吉に鳴り響いた。
教室の喧騒が、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように遠く聞こえる。
椅子を乱暴に引く音、週末のソシャゲの戦果を自慢し合う声、女子たちが振りまく甘ったるい香水の匂い。
そのすべてが、今の俺の張り詰めた神経を不快に逆撫でした。
無理もない。昨日、この身も心も、あの学園の女王様――白鳥美月さんに、完全に奪われてしまったのだから。
彼女の倒錯的で甘美な「秘密」の共犯者となり、挙句の果てには「専属執事」などという、あまりにも身の程をわきまえない役職に任命されてしまった俺は、
今や彼女の気まぐれなご命令を待つだけの、哀れな生贄に過ぎない。
俺は、吸い寄せられるように、教室の窓際、一番前の席に視線を送った。
そこに、彼女はいた。
五月の柔らかな日差しを浴び、まるで世界中の光を独り占めしているかのように輝いている。
腰まで流れる艶やかな黒髪は、彼女が小さく相槌を打つたびに絹のように滑らかな光沢を放ち、雪のように白い肌は、人間というよりは精巧に作られたビスクドールを思わせる。
知的な光を宿す大きな瞳に、寸分の狂いもなく整った鼻梁と唇。完璧な造形を誇る彼女は、今日も数人の女子生徒に囲まれ、慈母のような、それでいてどこか近寄りがたい完璧な微笑みを浮かべている。
俺の葛藤も、不安も、何もかもを知らない、圧倒的な世界の中心。完璧なる女王様。
「おーい、優人! 飯行こうぜ、飯! ぼーっとしてると、日替わりAランチ売り切れるぞ!」
突然、背中にドンッ!と軽い衝撃が走り、俺の意識は強制的に現実へと引き戻された。
心臓が喉元までせり上がってくるような驚き。
振り向けば、そこにいたのは、俺の唯一の親友、佐藤健太だ。
「うおっ!? 驚かすなよ……。マジで寿命が縮む……」
「へへ、悪い悪い。で、どうしたんだよ? さっきから心ここにあらずって感じで、顔色も幽霊みたいに真っ白だぞ。もしかして、また徹夜でエロゲーか? お前も好きだよなー、そういうの」
少し茶色がかったワックスで無造作に立てた髪、サッカー部で鍛えた日に焼けた肌、誰に対しても壁を作らない人懐っこい笑顔。
緩めたネクタイに、ボタンを二つ開けたワイシャツという、絵に描いたような陽キャ。
そんな健太の、太陽のようなあっけらかんとした明るさが、今の俺には眩しすぎて、目が眩みそうだった。
「んなわけあるか! ちょっと、昨日の夜更かしが堪えてるだけだよ……」
「ふーん? 夜更かしねぇ……」
健太は、何かを勘繰るようにニヤニヤしながら、俺の視線の先を追った。そして、ポンと手を打つ。
「あー、なるほどな! お前、さては白鳥さんのこと見てたな? 気持ちは分かるぜー、今日の白鳥さんもマジで女神がかってるもんな! でも、お前みたいな陰キャがガン見してっと、逆に迷惑だからやめとけって」
「ち、ちげーよ! 別に見てねえし!」
図星を突かれ、俺は狼狽して声を裏返らせてしまう。最悪だ。
「はいはい、その反応がもう答えな。まあ、俺らみたいなモブは、遠くから拝んでるくらいがちょうどいいんだって。じゃ、俺は先行ってるわ」
健太は「最近のお前、なんか変だぞ?」と、今度こそ本当に心配そうな一言と、憐れむような視線を残し、仲間たちの輪へと消えていった。
一人、教室に取り残される。
再び、胃がキリキリと痛むような、重苦しい沈黙が俺を支配する。
その時だった。
ブブブッ……!
スラックスのポケットで、スマホが短く、しかし拒むことを許さない絶対的な主からの召集命令のように、凶暴に震えた。
ビクゥッ!と俺の肩が、まるで感電したかのように跳ねる。
全身の産毛が、一斉に逆立った。
震える指で、まるでパンドラの箱を開けるかのように、スマホを取り出す。
画面には、忌まわしくも神々しい、五文字の名前。
『白鳥 美月』
ゴクリ、と喉が鳴る。
心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなっていく。
メッセージアプリを開くと、そこには、天使の皮を被った悪魔からの、甘く残酷な神託が記されていた。
『私の可愛い執事くん。購買部の『プレミアムとろける窯出しシュークリーム』を5分以内に買っていらっしゃい。もし買えなかったら、罰として明日は私の靴を舐めてもらうわ♡』
「ひっ……!?」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まった。
なんだ、この、メッセージは!
文面の、子猫がじゃれるような可愛らしさと、内容の、獲物を嬲るようなえげつなさ!
そのあまりにも歪なギャップが、脳髄を直接揺さぶり、思考を麻痺させる!
く、靴を……舐める……だと!?
その背徳的な単語が、俺の頭の中で危険な響きをもって反響する。
脳裏に、勝手に、鮮明な光景が浮かび上がってしまった。
放課後の教室、二人きり。
椅子に優雅に腰かけた彼女が、命令する。
「さあ、舐めなさい」と。
俺はその足元にひざまずき、彼女の白いハイソックスに包まれた、形の良い華奢な足首を手に取り、その光沢のあるローファーのつま先に、舌を這わせる……。
ぶわっ、と顔に一気に血が上るのが分かった。
だああああ! 何を具体的に想像してるんだ俺は! 変態か!
いや、違う! 断じて違う! なんで俺が、あんな女の言いなりに……!
葛藤が、羞恥と恐怖と、そしてほんの僅かな好奇心の嵐となって、胸の中で激しく吹き荒れる。
しかし、その嵐を鎮めたのは、昨日の屋上での鮮烈すぎる記憶だった。
――夕日に照らされた彼女の、とろけるように甘い笑顔。
――俺の頬に触れた、想像を絶するほど柔らかく、甘い香りのした、彼女の唇の感触。
――そして、耳元で吐息と共に囁かれた「あなた以外に、本当の私を見せられる人なんて、いないのよ」という、切実な、どこかすがるような声……。
ああ、そうだ。
俺は、もう、逃げられない。
あの瞬間に、俺の魂は、この身も心も、あの気高き女王様に、完全に奪われてしまったのだから。
恐怖と、屈辱と、そしてほんの少しの……倒錯した喜び。
それらがごちゃ混ぜになった、名状しがたい感情が、俺の腹の底から突き上げてくる。
「……やるしか、ない……!」
俺は、獣のような声で、そう呟いた。
覚悟は、決まった。
財布をひっつかむと、椅子を蹴立てるように立ち上がる。
俺は、百獣の王に狩られる哀れな草食動物のように、しかし、その気高き王に仕えることを運命づけられた唯一の執事として、全力で教室を飛び出していった。