陰キャの俺が学園のアイドルがびしょびしょに濡れているのを見てしまった件

第13章：執事って？

「し、執事って……え、あの、どういう……？」

　俺の脳みそは、完全にフリーズ状態だ。

　共犯者だの、実験だの、今度は執事だの、この人の口から飛び出す単語は、いちいち俺の理解の範疇を軽々と超えてくる。

「言葉通りの意味よ、田中くん」

　白鳥美月さんは、俺の混乱ぶりを心底楽しんでいるかのように、くすりと小悪魔的な笑みを浮かべた。

　夕焼けの赤い光が、彼女の妖艶な魅力をさらに引き立てている。

「あなたは、私の身の回りのお世話をするの。もちろん、私が快適に『実験』を続けられるように、ね。そして、時には……そうね、私の『特別な欲求』を満たすための、お手伝いもしてもらうことになるかしら」

「と、特別な欲求……！？」

　その言葉の響きに、俺の背筋を悪寒が駆け巡る。

　ダメだ、これ以上深入りしたら、本当に取り返しのつかないことになる。

　俺の本能が、全力で警鐘を鳴らしている。

　逃げろ、と。

「い、いや、無理です！ 絶対無理です！ 俺なんかに、が重すぎます！ それに、その……『特別な世話』とか、意味が分かりませんし！」

　俺は、必死に首を横に振って抵抗を試みる。

　ここで引き受けたら、俺の人生、本当に終わってしまう気がするんだ。

「あら、嫌なの？」

　美月さんの声のトーンが、わずかに低くなった。

　その瞳の奥に、チラリと危険な光が宿るのが見えて、俺の心臓はキュッと縮こまる。

「だって、考えてもみてくださいよ！ 白鳥さんは、学園のアイドルで、完璧で、キラキラしていて……それに比べて俺は、その……ただの陰キャで、何の取り柄もないモブキャラで……。釣り合いが取れなさすぎます！」

　俺は、自分の劣等感を盾にするように、早口でまくし立てる。

　そうだ、俺と彼女じゃ、住む世界が違いすぎるんだ。

　だから、こんなおかしな関係、成立するはずがない。

　しかし、美月さんは、そんな俺の言葉を鼻で笑うかのように、ふんと短く息を吐いた。

　そして、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、俺との距離を詰めてくる。

　一歩、また一歩。

　その動きは、まるで獲物を追い詰める美しい肉食獣のようだ。

　俺は、後ずさりしようとするが、背後には屋上のフェンスがあって、もう逃げ場はない。

「田中くん」

　すぐ目の前で、彼女が立ち止まる。

　顔が、近い。

　さっきよりも、もっと近い。

　彼女の甘い香りが、俺の思考をクラクラさせる。

「は、はい……」

　俺の声は、自分でも情けないくらいに上ずっていた。

　美月さんは、俺の目をじっと見つめたまま、そっと手を伸ばしてきた。

　その細く白い指が、俺の頬に触れる。

　ひんやりとした、でもどこか優しい感触。

　俺の心臓が、ドクン、ドクンと、破裂しそうなくらいに大きく脈打つのを感じる。

　そして、彼女は、囁いた。

　その声は、夕焼けの風に乗って、俺の鼓膜を優しく震わせた。

「あなた以外に、本当の私を見せられる人なんて、いないのよ」

　その言葉は、まるで魔法のように、俺の全ての抵抗を打ち砕いた。

　彼女の瞳に映っていたのは、いつもの自信に満ちた女王様のような表情ではなかった。

　そこには、ほんの少しの寂しさと、切実なまでの願いと、そして、俺に対する、確かな信頼のようなものが、確かに宿っていたのだ。

（この人もしかして……俺のことを……？）

　そんな、ありえないはずの期待が、胸の奥で小さく芽生えるのを感じる。

「……分かりました」

　気づけば、俺はそう答えていた。

　自分でも信じられないくらい、素直な言葉だった。

　頭で考えるよりも先に、心が、彼女の言葉に応えていた。

「本当……？」

　美月さんの瞳が、驚きと、そしてほんの少しの喜びで見開かれる。

　その表情は、今まで見たどんな彼女よりも、無防備で、可愛らしく見えた。

「はい。俺でよければ……その、執事でもなんでも、やらせていただきます、ただし！」

　俺は、慌てて付け加える。

「無茶な要求とか、その……あまりにも変態的な『実験』は、ちょっと……勘弁してくださいね？」

「うふふ、それは約束できないわ♡」

　美月さんは、悪戯っぽく笑いながら、そう答えた。

　やっぱり、この人は一筋縄ではいかないらしい。

　そして、次の瞬間。

　チュッ。

　柔らかい感触が、俺の頬に触れた。

　え……？

　えええええええええええええええええええっ！？

　俺が状況を理解するよりも早く、美月さんは悪戯が成功した子供のような満面の笑みを浮かべて、俺から少しだけ距離を取った。

「じゃあ、明日からよろしくね、私の可愛い執事くん♡」

　夕日に照らされた彼女の笑顔は、まさに天使のようだった。

　いや、もしかしたら、小悪魔かもしれない。

　どっちにしろ、俺は、とんでもない存在に、完全に心を奪われてしまったらしい。

　こうして、俺、田中優人の、波乱に満ちた（そして、おそらくは変態的な）白鳥美月さん専属執事としての、新しい日常が幕を開けたのだった。

　その先に何が待ち受けているのか、この時の俺には、まだ想像もつかなかったけれど。

　ただ一つだけ確かなのは、退屈なだけの俺の毎日が、今日を境に、劇的に色鮮やかなものへと変わっていくのだろうということだけだった。

　夕焼けの空の下、俺の心臓は、期待と不安と、そしてほんの少しの興奮で、力強く高鳴り続けていた。